一 鏡城

※作者より

拙作において、乞食という言葉が出てきます。もし、ご不快に思われたら、お詫びいたします。





 鏡城といい、鏡山城という。

 安芸あき東西条とうさいじょうに立つその城は、安芸の穀倉地帯を守る城であり、周防すおうの戦国大名・大内家の牙城でもある。


 大内家。

 百済くだらの王族の末裔と称するこの家は、この国の室町・戦国の時代において、大きく飛躍し、義興という当主を得て、天下人の家となった。なぜなら、大内義興は、流れ公方・足利あしかが義稙よしたねを奉じて上洛、そして管領代という地位に就いて、みやこにおいて権勢を振るったのである。その真の狙いは、日明貿易における大内家の権益を幕府に保証させることにあったと言われている。

 義興は日明貿易を己のものとすることに成功するが、だがその代償はあまりにも大きかった。

 領国である周防すおう・安芸ががら空きとなり、その間隙を周囲の戦国大名に「食われる」こととなった。

 その代表格が、雲州の狼・尼子あまご経久つねひさである。

 最終的に、大内義興は周防に戻り、中国の安定に努めることになるのだが、その時点でもう遅く、尼子経久の侵略をとどめることは叶わなかった。

 そのような状況下で、九州の方で領土争いが生じ、大内義興は、九州に兵を向けざるを得なくなった……。



「安芸を攻める」


 大永三年(一五二三年)。

 大内家の九州出兵を知り、尼子経久は麾下の将兵に号令をかけた。

 なおその際、腹心の亀井秀綱に命じて、安芸における尼子傘下の国人へと招集をかけた。


「毛利家は特に」


 書状をしたためる秀綱に、経久はそこを強調した。


 毛利家。

 毛利家は、先年、有田合戦において、およそ五倍の安芸武田家の軍を打ち破り、、当時の安芸の国人において、一躍有名な存在となった国人であった。

 その有田合戦にて、当主の毛利幸松丸に代わって指揮を執った後見の叔父を、多治比たじひ元就もとなりという。


 のちの毛利元就である。



 毛利家は、元々、元就の兄である毛利興元おきもとが当主であった。しかし、大内義興の不在を衝いて、安芸の守護の家柄である安芸武田家・武田元繁が叛乱を起こしたため、興元は義興の命を受けて、安芸の国人こくじん一揆いっき(地域領主の連合)を代表して安芸武田家と戦い、そしてその最中さなかに亡くなってしまう。

 興元の遺児・幸松丸は当時二歳であり、興元の弟である多治比元就が毛利を仕切ることになった。

 元就は当時、弱冠二十歳。

 武田元繁はこれを好機と見て、進撃を開始。

 元繁は尼子経久の姪をめとっており、安芸国内の国人たちはこぞって元繁のもとに集った。その数、およそ五千。一方の毛利は、同盟している吉川きっかわの兵を加えても、千をわずかに越えるばかり。


いくさは、物の数ではない」


 そう言い切ったのは、多治比元就である。

 元就は、その居城・多治比猿掛城へ攻めかかってきた安芸武田家の尖兵、熊谷元直くまがいもとなおの六百の兵を相手に戦った。

 元就の率いる兵は百五十に過ぎなかったが、力戦奮闘と、地の利を生かした戦いによって、猛将の誉れ高い熊谷元直を退けることに成功する。

 と同時に、元就は毛利家全軍を招集し、また吉川家への援兵を要請、そのまま熊谷元直の中井手の陣へ攻め入り、討ち取ってしまう。

 その報に接した安芸武田家の武田元繁は怒り狂い、毛利と吉川を膺懲ようちょうせんと進軍を開始。時を同じくして、安芸武田家と雌雄を決せんと、元就も安芸武田家のいる有田へと兵を進めた。

 又打川という川を挟んで激突する両軍。

 だが、数の利がある安芸武田家は押しに押し、ついに総大将の武田元繁が馬上、川を飛び越えようとした。


「あれ射てや、者共」


 元繁が川の上を「飛ぶ」最中、毛利の兵は一斉に矢を放つ。

 たまらず、元繁は落馬し、そこを毛利家の井上光政に首を取られてしまった。


 有田合戦、あるいは有田中井手の戦い。

 そう称される、このいくさにて――元就は、国人の、しかも当主ではない立場でありながら、守護の安芸武田家を撃破するという離れ業をやってのけた。

 そしてこの戦いこそが元就の初陣であり、そのことが元就の名将としての片鱗を感じさせた。


 ……少なくとも、尼子経久にとっては。



「毛利は、危険だ」


 尼子経久は、大内家不在の安芸を、武田元繁を煽って荒らさせ、元繁が安芸を取ればそれでよし、それでなくとも、「荒れた」安芸を、悠々と尼子家が侵略するという手筈を目論んでいた。


「それを、あの小童こわっぱ


 この時点で六十近い翁である経久からすると、二十歳を越えたばかりの元就は小童に過ぎない。

 だが、その小童が、安芸武田家五千の軍を打ち破ったのだ。千の兵で。


「番狂わせにもほどがある」


 経久は元就の勝利を知り、驚愕しつつも、この隙をと思って兵を集めた。ところが、その最中に、元就から尼子への帰順の申し出を受けた。


「次なる尼子の安芸への戦、毛利も力を貸したい」


 そういう言い方をして、元就は経久に「すり寄って」来た。

 恐るべき政治感覚である。

 経久は舌を巻いた。

 通常ならば、大内義興に対してますますの忠勤に励むべきだ。だが義興は相変わらずの不在だ。しかも、有田中井手の戦いのあとも、義興は帰って来なかった。


「遠くの主より近くの敵」


 そんな表現をした元就は、経久にあっさりと合力するとふみを送って寄越したのである。


「……ならば、加わってもらおうではないか。尼子の安芸への戦に」


 そううそぶいた尼子経久は、安芸の東西条・鏡城へと兵を進めた。

 そして亀井秀綱に毛利への出兵要請を命じたというわけである。

 毛利が尼子にすり寄ってきたにもかかわらず、その実、大内家と手切れをしていないのは知っている。


「二股膏薬である」


 経久はそう喝破したが、国人の弱い立場としてはやむを得ないことは承知である。承知であるからこそ、有田中井手の勝者に、敢えて尼子方という旗幟を鮮明にしてもらう方途みちった。


「毛利が、わが尼子に味方すれば、他の安芸の国人も……という寸法ですな」


 さすがに腹心である亀井秀綱はわきまえたもので、主君の意図するところを正確に理解していた。


「そうよ」


 経久は笑った。大内方として五倍もの敵を撃破した毛利が、その数年後には、尼子方として、経久とくつわを並べる――これほどの皮肉、いや、政治効果はいかばかりかと思うと、経久は痛快であり笑えるのだ。

 秀綱はうやうやしく頷き、そして文を認め、早速にと吉田郡山城――毛利家の城へと発つのであった。

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