プロローグ2~廻~
虚空へと身を躍らせた彼女へ、届かないと知りながらも手を伸ばす。
意思の強そうな眉に、すらりと通った鼻梁、薄い唇。
俺の姿を映した大きな目が、驚いたように見開かれて。
その瞬間の表情の移り変わりを、何と言い表すべきか。
驚愕。
困惑。
絶望。
悔悟。
──そして、何かを諦めたような、寂しげな微笑。
「──……」
彼女が地面へと叩きつけられるまでの、永遠にも似た刹那の光景が、俺の目に鮮烈に灼き付いた。
──どうして。
──今日ここで死ぬ人がいるなんて、俺は知らない。
混乱で塗り潰されていく思考の片隅で。
不覚にも。
……美しい、と。
そう思った。
◆
「……嘘だ」
起床後、いつものように日付を確認して、俺は愕然とした。
(そんなはずはない。一体どうして……)
混乱しながらも、たまらず跳ね起き、支度もそこそこに大学へと急いだ。
「え……?」
思わず声が漏れる。
現場だったはずの場所には、規制線さえ張られていない。
それどころか、昨日あれだけ派手に飛び散っていた
急ぎ現場検証を済ませ清掃された後であったとしても、聞き込みをする警察官や事態を嗅ぎ付けた報道関係者らがひとりたりともいない、というのはやはり不自然だった。
まして、当時の状況から彼女の死に関わったのではないかと警察から目された俺は、昨日みっちりと事情聴取まで受けていた。
現場に居合わせた俺からしてみれば、当時彼女が自ら身を投げたことは疑いようもないのだが、警察からしてみれば俺の証言ひとつで事件性なしと判断するわけにはいかないだろう。実際、少なくとも昨日の様子では、交遊関係の洗い出しなどかなり慎重に調べが進められていた……はずだった。
(どういうことだ?)
一時限目の開始まではまだかなりの時間がある。
それでも、と一縷の望みをかけて向かったサークル棟の一室は、やはりと言うべきか施錠されていた。……誰もいない。
ならば、と正門近くで待機体勢に入ったまでは良かったが、相手のスケジュールなど把握しているはずもなく、これは空振りかなと思いながら、行き交う学生たちをぼんやりと眺めていた。
眺めていたのだが。
「……っ!?」
あるはずのない姿が視界に入り、ヒュッと息を呑んだ。
目が合ったような気がしたが、素知らぬ様子で眼前を素通りされる。
相手の事情がどうであれ、俺としてはこのまま看過することはできなかった。
その背を追いかけ、「待って」と呼び止める。
「……」
女は静かに、俺の言葉を待っていた。
「……きみは」
言いかけて、俺は口ごもった。言うべき言葉を準備していなかった。
やれ昨日死んだはずでは、だの、どうして生きている、だのという言葉を投げつけるのは、あまりにも直截的で無遠慮が過ぎるように思われた。
それに、もしも相手の身に覚えがなかった場合、少々ややこしい事態へと発展するように思われた。
……何と言えばいい?
思案していると、女は小さく嘆息し、口を開いた。
「……きみ、覚えてるんだ」
それは、あまりに決定的な一言だった。
「昨日、ぼくが死んだこと」
「……」
俺の反応──沈黙という名の肯定──に、『ぼく』という印象的な一人称を使う女は小さく「ふぅん」と言った。
「その様子だと、どうして今日が来たのかまでは、まだわかっていないのかな」
「! きみは知っているの」
「知っているも何も、
そこで彼女は言葉を切り、「きみだって、薄々勘付いてるんじゃないの」と言った。
「……」
嫌な予感がする。
先程から、あまり考えたくない可能性として、頭に浮かんでいたことがひとつあった。
──どうか杞憂であってほしい。
俺のそんな想いも
「ぼくが死ぬこと。
──あぁ。
やはり、と思うと同時に、絶望と哀切と憤怒が入り
「改めて、ぼくは
そう名乗る彼女に、一体何と
何も言えずに彼女を見遣ると、昨日自ら身を投げたときと良く似た、やはり諦めたような微笑がそこにはあった。
その表情が何を意味しているのかも、この時の俺にはわからなかった。
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