【1】早朝の呼び出し


 8月の灼熱の中、丸井愛菜まるい まなはいつもより早い時間に新御堂筋を北上していた。

 本来なら、後1時間は朝の自由を満喫できたはずだが、常務の平原篤彦ひらはら あつひこからの呼び出しがあったため、放課後等デイサービス・つくしんぼう 箕面教室へ向かう道中にいる。

 丸井は、兵庫県と大阪府で障害児通所支援事業を営む株式会社つくしん房で入社8年目を迎えたばかり。32歳の独り身である。24歳の時に医療業界から転職してきて、つくしん房の1店舗目の放課後等デイサービスである宝塚教室にオープニングスタッフとして雇用された。入社3年目という速さで、3店舗目である伊丹教室の管理者に開設時から就任した。27歳の歳であった。入社6年目である2年前に、宝塚教室のオープンの時からお世話になっていた管理者の南由美子みなみ ゆみこが退職してからは、宝塚教室にも詳しいだろうということで丸井が実質的に伊丹と宝塚の2教室の統括をしている。

 常務の平原からは、何でも断らずに実行する素直さが評価されているが、丸井は、人の心を平気で踏みにじるきらいのある平原には内心辟易していた。

 道中、ハンドルを握りながら今日の呼び出し理由を予想してみた。

 思い返せば、平原に小間使いされていたマネージャーの脇真也わき しんやが人員配置の変更届を出し忘れ、本来上がるべきだった会社の介護報酬が上がらなかったことで、平原の怒りを買い、その業務から外されるのではと、管理者の間で数日前から噂になっていた。

 株式会社つくしん房では、兵庫県にある宝塚と伊丹の教室のほか、大阪に5つの教室を持ち、マネージャーである脇がその5つの教室を統括している。

 その脇が下手を打ったことで、彼の業務が丸井に押し付けられることは、誰の目から見ても明らかだった。

 大阪の業務ならサブマネージャーの塩谷滋子しおや しげこが引き継げばいいじゃないかと、会社の誰しもが一度は考えるし、平原も塩谷の存在を知らないわけでは無いだろうが、最年長であることを理由に本人たっての希望で、昨年サブマネージャーに温情昇進された塩谷では5教室もの手続を急に捌き切れはしないだろうというのが社内での共通認識なのだ。


 通勤ラッシュでいつも混雑する新御堂筋は、憂鬱な日ほど空いているもので1時間もせずに箕面教室まで着いた。駐車場にはもう既に平原のレクサスが嫌味に停まっているのが見える。

 でっぷり太った平原は不健康そうな青黒い顔を携帯に向けながら、まだ誰も来ていない営業時間前の箕面教室の受付に座っていた。


「常務、おはようございます。」

「お疲れ様ぁ。今日も暑いなぁ。クーラー効きやすいし、また相談室でやるぅ?」

「はい。というか、今日は私一人でよかったんですか。てっきり脇くんも来るものだと思っていました。」

 丸井は、平原の作り物の猫撫で声に朝から食傷を起こしそうになりながら、相談室の灯りをつける。

「うん、ちょっと話あるからぁ。」

 これまでも兵庫の2教室に問題が発生した時にはいつもこの箕面教室の相談室で集まるのが恒例になっていたが、こんなに早朝に来たことはなかった。

 箕面教室は2階建てになっており、株式会社つくしん房の本部事務所の機能を備えている。1階の教室の管理者は、の脇が担当しており、本部マネージャーとして密に事務所とのやりとりを行うために、昨年、箕面教室が開設したときに、別教室から異動してきたのだった。

 営業時間よりも1時間早く、朝8時に呼ばれたのには、脇が出勤してくる前に話をつけたいということなのだろうと、車内で予想したことが確信に変わった。


「ごめんなあ、朝から。真也のこと、聞いてるやろぉ。ほんま、あいつ使えへんよなぁ。」

 脇は社長の友人の息子で社歴も長く、常務である平原とは近い存在である。それゆえ、平原からこれまで多くの業務を振られていたが、できない奴だとずっと貶されっぱなしなのだ。

 丸井はこういう時、平原に同調が伝わるように、少し声を出して愛想笑いはするが、言葉に出しては肯定しないことにしている。

「ほんで、帝塚山教室と阿波座教室の今回の加算の話やけどぉ、今月絶対変更届出さなあかんねやんかぁ。それを丸井さんに任せようと思うねん。元々、うちの会社の教室の全ての手続的なところ、前から全部丸井さんに任せようと思ってたから、今回の申請から、全教室の統括っていう感じでやってみる?」

「はい。私でいいなら。」

「うん。今はどうなるかわからんけど、ちゃんと、社長にも丸井さんの昇進の件、役職も含めて相談してるから。」

「ありがとうございます。脇さんの処遇はどうなさるんですか?」

「んー、どうしよっか。どうしたらいいと思う?」

 丸井はどうせ現状維持だろうという言葉を呑み込んで、考えるふりをした。

「手続業務しなくなるなら、マネージャーとして別の管理業務してもらったほうがいいんじゃないですかね。」

 丸井は当たり障りのない意見を言ってみるが、平原は既に打ち合わせを切り上げたそうな顔をしている。

「せやなぁ。難しいなぁ。そのへんも含めて、また今度考えよっか。一回、本人が今後どうしたいか聞いとくわ。あ、電話や。取らなあかんから、もう、教室行ってええよ。ほな、今日もよろしくお願いしますぅ。」

「はい。お疲れ様です。」

 丸井は背中で平原の取引先への猫撫で声を浴びながら、そそくさと退室し、伊丹教室へ向かうために、車を国道171号線に出した。車内の時計を確認すると、8時15分と表示されており、箕面教室の従業員の出勤時間までまだ40分以上ある。

「電話で済む内容やったな。」

 と、丸井はガムを3粒口に入れながら、小声で言ってみた。

 伊丹教室へ向かう道中、「昇進の話は本当だろうか。」と考えた。

 正直なところ、魅力的な話ではあった。

 障害福祉業界で働いていると、1施設の管理者がキャリアの終着点であることが多い。

 まだ退職していない社内の古参メンバーは皆、現在ある7教室の開設時に、続々と管理者となって、ゴールテープを切った気でいる。

 そんな中、1年前に平原の思いつきで、社内のキャリア制度を作ろうということになり、マネージャーに脇が、サブマネージャーに塩谷が昇進したが、その人選は多くの管理者の疑問を呼んだ。

 昇進の基準もろくに説明されなかったため、二人は人望を集められず、その二人に社用携帯が配られた以上の変化は起きなかった。

 もし、全教室の手続を統括するなら、昇進後の役職は……と考えたところで、2年前、宝塚教室の管理も任され、兵庫県の統括リーダー的な役割を任された時にも、マネージャーにすると言われぬか喜びしたが、音沙汰がなく、その1年後に脇のマネージャー就任を聞き、苦虫を噛んだことを思い出した。

 伊丹教室に着く頃には、平原の言うことだから期待しないでおこうと、その考えをガムとともにゴミ箱に捨てた。

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