『行ってきます』

――いつも通りの朝。


 中等部の制服を着て。

 歯を磨いて。

 ボサボサの髪を、整える。


 いつものように、髪を二本の三つ編みに纏めて……。


 簡素な身支度を済ませる。


 洗面所の鏡に映った愛川望あいかわのぞみの姿は、一週間前と、何も変わらないように見えていた。

 今まで通りの、地味で目立たない、なりゆきで決められた、文化祭実行委員。


 そして。


 ノゾミは、いつも通り、少しだけ度の入った眼鏡をかける。

 学校に行くとき、学校の知り合いと会うとき、その時だけつけている眼鏡だ。


 あまり目立ちたくない。

 だからそうしていた。



 でも。


「……あれ?」


 度が合わない。

 何度かけ直しても――。 


 理由はなんとなくわかる。


 味覚がそうだったように。

 身体の構造が変わってしまったから、きっと視力にも影響が出たのだろう。


 

 もう、ノゾミは、のぞみではなく、ノゾミなのだ。


 

 以前とは全く別の何かなんだ。


 


 そこで、ノゾミは、のぞみであることを半ば諦めた。



 心にたちこめる雨雲が、雷雲に変わるかのように。


 稲妻が奔る。



 激しい衝動にかられた。


 意を決して、洗面所を飛び出る。

 ノゾミは走り出した。



 自室に戻ると、ハサミを取り出し。

 何の未練もなく。

 三つ編みを、二本ともバッサリと切り落とした。


 合わなくなったメガネはごみ箱に捨てた。


 髪も捨てた。

 


 

 時計を見ると、いつもよりずいぶんと時間が過ぎていた。


 

 鏡すら見ず。


 カバンを引っ掴んで、階段を駆け下りる。


 廊下を突っ切る時、ダイニングの方から姉が出てきた。


「ノゾミ? 朝ごはんは……」


「ごめん、もう時間だから行くね」


「そう? ――っていうか、ノゾミ……」


 姉の言葉を、遮って、玄関までノンストップで走り切った。

 靴を履いて、扉を開ける。


 

「……その髪どうしたの……?」


 

「行ってきます」

 

 背後からの声にもこたえず。

 ノゾミは、心配する姉の顔すら、まともに見ることなく、自宅を飛び出した。


 

 なんか、家から、逃げているみたいだ。

 と、少し思いながら。






 

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