ゆれる水面にうつるもの―参

 ナナシに付き合って石を投げていると、どことなく重かった気持ちが不思議と軽くなってきた。


「今日のところは、こんなものかのう」


 壱弥の気持ちを察したように、ナナシが言った。まだ辺りは明るいが、もう夕方になっている。


「帰るか」

「うむ、帰るぞ」


 ナナシの髪が、西日を浴びて輝いている。自分にしか姿が見えないのに、人間と同じように陽の光に照らされるのが不思議だと思った。

 壱弥が原付に跨ると、ナナシはその後ろに座り、壱弥の腰に手を添える。

 掴まらずとも落ちないはずなのだが、ナナシが触れている部分に微かに温もりを感じて、壱弥は黙って原付を発進させた。


「あ、おかえり、壱弥」


 帰宅すると、居間には姉の夏芽がいた。

 夏芽は福岡市内で一人暮らしをしているが、車を運転するのが好きなので、ドライブがてらよく実家に帰ってくる。そして、お盆にかけては毎年十連休を取っていた。


「おお、姉のナツメか。これは美形じゃのう」


 壱弥の背後で、ナナシが声をあげた。

 姉は誰もが認めるほどの美人なのだが、いかんせん気が強く、子供の頃は弟の颯太とともによく叱られた。

 この姉を見てきているからか、壱弥は女性に対して幻想を抱いたことはない。


「姉ちゃんに頼まれてたやつ、買って来とるよ」

「あ、ほんと?ありがとう」


 夏芽が指定する、東京にしか売っていない菓子を買って帰るのは、毎度のことだった。かなり大量で買い回るのが大変なのだが、逆らってもいいことはないので言うとおりにしている。


「いくらやった?」

「分からん。計算して」


 財布の中に無造作に入れてしわくちゃになったレシートを取り出し、夏芽に渡す。いつも雑なんだから、とぼやきながら、夏芽はスマートフォンの電卓アプリで計算し始めた。


「千円札なかったけん、お金あとでいい?」

「いつでもいいよ」

「壱弥、暑かったやろ。飲まんね」


 団扇で顔を扇いでいると、祖母が冷たい緑茶を淹れてくれた。

 緑茶は、淹れ方ひとつで味がまるで変わる。祖母が淹れる緑茶は世界で一番の味だと、壱弥は本気で思っていた。一口飲むだけで、絶妙な甘みとコクが口の中に広がり、身体へ沁み込んでいく。

 この幸せな気分を世界中の人に味わってほしいと、子供の頃からずっと思っていた。


「壱弥。帰ってきたとこ悪かけど、みりん買ってきてくれんね」


 ほっとしているところに、母が台所から顔を出して言った。


「うちにあるのば、取ってこっかね?」

「いいよ、ばあちゃんはゆっくりしとき。どうせ買わないかんのやろ。俺、行ってくるけん」

「ありがとうね、壱弥。みりんだけでよかよ。本みりんやけんね、間違えんごと」

「はいよ」


 緑茶を一気に飲み干してから玄関に向かうと、夏芽がついてきた。ついでに、ナナシもいる。


「壱弥、歩いて行くと?」

「うん」

「じゃあ、私も一緒行く」


 どういう風の吹き回しかと思ったが、壱弥は何も言わずに頷いた。


「ヒグラシ、鳴いとるね」


 夏芽が、大きく伸びをしながら言った。福岡市中心部だと、ヒグラシの声はあまり聞こえないのかもしれない。


「颯太って、いつ帰ってくると?」

「十日の昼かな」

「静かなのは明後日までかぁ。あんたと颯太、足して二で割ればちょうどいいとに」


 物静かな壱弥とは正反対で、颯太は声が大きく賑やかな性格をしている。今は高校のラグビー部の夏合宿中だった。


「ねぇ、昭人あきひとと最近連絡とった?」

「うん。帰ってきてるなら、今度飲みに行こうって」

「そっか」


 珍しく、歯切れが悪いと感じた。

 昭人は夏芽の彼氏で、壱弥も懇意にしている。昭人が出張で東京に来たときなど、よく食事を奢ってくれるのだ。


「なに、喧嘩でもしたん?」

「なんとなくさ、隠しごとしてそうな気がして。浮気かいな」

「昭人さん、浮気するタイプじゃないと思うけど」


 難がある男とばかり付き合ってきた夏芽だったが、三年前に友人を介して知り合った昭人はとても誠実で、壱弥も信頼している。穏やかで懐が深く、こんな人が兄になってくれたら、と思っていた。


「浮気なんてしたら、即別れるけん。ほかの人に心変わりするのは仕方ないけど、どっちにもいい顔してうまくやろうっていう、腐った根性ならマジで無理やけん」


 過去の出来事でも思い出しているのか、夏芽は遠くを睨みつけている。


「昭人が浮気するようなタイプじゃないっていうのは分かっとるけどさ、ほかの人を好きになる可能性は、あるわけやん」

「いやぁ、そうかなぁ」


 昭人が夏芽に心底惚れ込んでいることを、壱弥はよく知っている。東京に来るたび、夏芽が好きな菓子をたくさん買って帰るのだ。そして、酒を飲むといつも、夏芽の好きなところを延々と語ってくる。

 弟としては少々気恥ずかしいが、そこまで姉のことを想ってくれる人がいるということは、単純に嬉しい。

 それなのに、夏芽がなぜ自信を無くしているのか、壱弥にはよく分からなかった。普段気が強い姉でも、恋愛のことになると変わるのだろうか。

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