第18話 二人は

【海賀side】



 暮葉が口を手で覆って、信じられないものを見たかのように目を見開く。

 ばさり、と彼女の持っていた冊子が床に落ちた。


 すっかり夢中だった目黒は、その音で後ろを振り返る。


「……じゃあ、今度こそ帰るね」


 そう言って、暮葉の脇を通り過ぎ、階段の方に姿を消した目黒。

 この場には、俺と暮葉だけが取り残された。


「……暮葉、違うんだ。これは──」

「…………さい」


 さえぎるように、暮葉が何かを言った。

 体を震わせて、顔を真っ赤にして。

 涙をこぼしながら。


「暮葉……?」



「──うるさいなぁって、言ってんのッ!」



 こんなヒステリックな声、彼女の口からは初めて聞いた。

 普段は、主張は控えめ、声も小さめで、振る舞いもおしとやかな暮葉。

 しかし今は、その片鱗へんりんすら感じさせないような気迫だった。


「……でも、誤解なんだ。あれは目黒が──」


 言いながら、俺は自己嫌悪になった。

 ──なに目黒のせいにしてんだよ。俺が断らなかったからだろ。


 俺は俺のことが許せなかった。

 だから次の瞬間には、自分の頬を自分で殴っていた。


「──ッ!」


 口の中が切れたらしい。鉄の味が広がって、じんじんとした痛みが遅れて付いてくる。

 ……でもこの程度のことで、暮葉に対する贖罪しょくざいになるとは思えなかった。


「馬鹿…………かい君の馬鹿ッ!」


 暮葉が右手を振り上げた。きっとビンタされるのだろう。

 でも、避けようとは思わない。

 むしろ、俺は暮葉に叩かれるべきだ。


 目を閉じて、頬を差し出す。


 …………?


 何も起こらない。

 不思議に思って目を開けると、暮葉の手が顔の真横で静止していた。


「~~~~~~ッ!」


 暮葉は脱兎のごとく、その場から逃げ出した。


 俺は叩かれなかった。


 俯いて、額に手を当てる。

 罪悪感、申し訳なさ。そんな感情が胸の中をずっと渦巻いている。


 ……ふと、床に何かが落ちているのを見つけた。

 覚束ない足取りでそれに近づき、そっと拾い上げると、それは暮葉が持っていた英語の教科書。

 そこに、一枚の付箋ふせんが貼ってあり。



『←かい君に教えてもらう!』



「……っ、…………っう、……………」


 俺は声をあげて泣くほど、かなしかった。


        ◇ ◇ ◇


【暮葉side】



 どうやって部屋に戻ってきたのかは、覚えていない。

 お母さんが何か言っているみたいだけど、聞き取るだけの体力も残っていなかった。


 ただただ、ベッドにうつ伏せで倒れていた。

 目を閉じていると、目黒さんがかい君にキスしている所を思い出してしまって、顔を横に逸らした。


 目を開けたら、部屋の鏡に私の顔が写っていた。涙で目を腫らした、憐れな女子の姿だった。


 ──いっそのこと、彼のことを嫌いになってしまおうか。


 かい君の嫌いな部分を考えようとする。

 しかし……思いつかなかった。


 私は大好きなのだ。たとえ彼が他の女の子とどんな関係にあろうとも。

 己の諦めの悪さに辟易へきえきしてしまう。


 あの場で彼をビンタすることすらできない私が、かい君を諦めることなど容易ではなかった。


「…………かい君っ、……………うわぁぁぁあああああ!」


 私はうずくまって、慟哭どうこくした。

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