195;菜の花の殺人鬼.18(牛飼七月)
「――――ナーツキっ」
ぐらりと頭が傾ぐ錯覚。
『――――ナーツキっ』
いつかの幻想が、現実味を帯びて鼓膜の奥へと突き進みます。
輪の中から飛び出して来た、無垢で無邪気な破顔。
見間違うことなんて無い――それは紛れも無く彼女そのものです。
そして、僕が殺害した初めての人。
どくりどくりと押し寄せる波のような鼓動はどんどんと高まり、爆ぜそうに肥大した心臓の痛みが僕の思考を堰き止めます。
それはもう、僕だって考えなかったわけじゃないんです。
僕がここにいるのだから、彼女だってこの世界にいる筈なんです。
でも、何処かで僕は――――僕は、彼女に、七華に逢うことは無いんじゃないか、って――――
「やっぱりナツキだ!」
言葉と考えとを失うばかりの僕とは対照的に、七華はくしゃりと喜びを満面に湛えます。
それから、それでも動けないでいる僕の表情を見て困ったように口を尖らせ、人差し指を顎に添えながら小首を傾げるのです。
左耳にかかる部分だけを編み込んだ、首筋に届く程度のショートボブはあの頃と同じ仄かに赤く灼けた黒髪で。
毛先が僅かにかかる目元は、僕とほぼ同じなのに力強い意志を確かに抱く形。
首元までを確りと覆う黒いドレス風の軽装が包む肢体は、華奢に見える輪郭の内に鍛え上げられたしなやかな筋繊維を滑らかな皮膚が包み。
そしてぽんと手を打ちながらにからと笑う姿は、その何もかもがあの頃の――――
「あ、そっか!」
それから眉根を寄せ上げた彼女は申し訳なさを表情に纏い、僕に耳打ちします。
「ごめん、ナツキって呼んじゃったけど……名前、もしかして違うよね?」
こんな風に、物事の本質からズレた天然素材の誤認識すらも。
「えっと、ジュライの知り合い?」
涼やかな表情でスーマンさんが声を掛けました。
振り返った彼女は、あわあわと口をまごつかせてもう一度僕に顔を向けると、「ジュライね」と要領を得た笑顔で漏らします。
「もしかして君さ、ジュライの妹さん?」
「えっ、何で知ってるんですか?」
「一応妹さんがいるってのは聞いてたし、あと双子ってのも。しっかし本当そっくりだな! ジュライももともと女顔だけどさ」
「あーそれ、本当よく言われるんですよねー」
僕を置き去りにして、場の空気と時間とが流れています。その緩やかな筈の奔流に、でも僕は捕まって身を任すことが出来ないでいます。
「オレ、スーマンって言うんだ」
「スーマンさんですね。ナノカです」
「スーマンでいいよ」
「本当ですか? じゃあナノもナノカだけでいいですよ」
「オッケー」
しかしスーマンさんがそんな風に、何でも無い風を装って親し気に接してくれたおかげで、僕の心の陰鬱とした雲も徐々に萎んでいきます。代わりに、別のもやもや感が現れますが。
ひょっとしてスーマンさん、僕の妹のことは知らない? ――いえ、そんな筈はありません。彼は生前の接点が無いのにも関わらず僕のことを知っていました。僕の起こした事件はそれなりに世間を賑わせましたから、僕のことを知っているなら妹のことも知っている筈。
逆に解らないのは七華の方です――――自分のことを知っている相手に、どうしてそんな風に遣り取りが出来るのか。
僕と一緒? この世界で二度目の生を受けた直後の僕のように、自分自身の記憶をシステムに封じられている?
「ジュライ、手合わせは今度でいいか?」
「え、あっ……はい」
急に話を振られてびくんと輪郭を跳ね上げた僕は、しかしそのおかげでどうにか平常な時間の流れに乗ることが出来ました。
そもそも、何でスーマンさんと手合わせする話になっていたんでしたっけ――考えて、僕はまたもびくりと身体を震わせて思い切り後ろを振り向きます。
ショウゴさん――が、いません。
アイリスさん達は出来た輪の一番内側で状況を飲み込めないままぱちくりと目を瞬かせていて、その隣にいた筈のショウゴさんが綺麗さっぱり姿を消しているのです。
「ナノカは
「そうなんです。ナノはソロなので、結構時間かかっちゃってるんですけど」
「ああー、分かる分かる。オレも始め立ての頃はソロだったし。……ジュライ、どした?」
「え? あ、いえ……」
全く調子が狂います。いえ、別にスーマンさんのせいというわけでは無いのですが。
しかし彼の思惑が何なのか全く僕には解りません。どうしてこの場において、彼が七華と親し気に話すことが出来るのか。
ショウゴさんがいなくなってしまったことに焦れる僕の脳がただ上手く思考を回転させられないだけなのでしょうか――それにしても、どうしてショウゴさんは?
「変な奴」
「あ、それもよく言われるんですよねー。ナツ……じゃなかった、ジュライって本当、昔っから変わってる変わってるって」
「へー、そうなんだ」
スーマンさんはそう返しながら、輪の中心に放り出されたままの花束へと歩むとそれを拾い上げました。
そこで七華は思い出したようにぱっと目口を開き、スーマンさんが差し出したその花束を受け取ります。
「ごめんなさい、ナ――ジュライがいたのが嬉しくて、つい放り出しちゃって」
小さな黄色い花弁に着いた砂埃を優しく払いながら淑やかな表情を見せる七華。
つまりその花束はやはり彼女のもので、それはつまり――――
「それ、何の花束?」
「これ? アブラナにナタネにカブ、です」
「へぇー、全部一緒の花じゃないんだ」
「一緒に見えるよねー? ナノも最初は見分け付かなかったんですよー」
がやがやと集まっていた群衆の輪は僕らの対決がおじゃんになったのを見るやぞろぞろと元の雑踏、往来へと帰って行きます。そしてその中にもやはり、ショウゴさんの姿はありません。
「でもでも、全部纏めて、“菜の花”って言うんですよ」
ぞくり、と背筋が
僕の脳裏では、“菜の花の殺人鬼”という単語が目まぐるしく乱転を見せています。でも僕はそれを見ていたくない。首を横に振って、その言葉を、事実を、払い去ってしまいたい。
彼女は、七華は、きっと――――
「なぁなぁ、ナノカってさ、もしかして“菜の花の殺人鬼”って奴?」
暢気を装って吐かれた言葉が、夥しい程の静寂を呼び込みました。
そこに舞い込んだ一陣の風だけがびゅおうと響きを散らし、さっきまであった喧騒ですらも無音を決め込みます。
ですがスーマンさんの問いを耳にした群衆は散り行く足並みを一斉に停め、再び僕達に注目を投げています。やがてその口々が今しがたの彼の言葉を反復し、疑念の詰まった騒めきが――――
「スーマンさん、何を」
何を、は僕の方です。この期に及んで僕は、誰に対して何を問おうとしているのか。我ながら自分が嫌になります。この場面でそんな愚問しか投げられない僕が。
「……
冗談交じりのような言葉とは裏腹に、その双眸は闇を孕んでいます。
ああ、僕はその目を一度だけ見たことがあることを思い出しました。思い出したくも無い、けれども忘れてはいけない、最期の彼女の眼差し。
「オーケー。先ずオレは君のストーカーじゃ無いよ。ただ君の生前のことを少し知っていて、んでさっきの遣り取りで君が何をしているのか、しようとしているのかを何となく推測できた、ってだけ」
「……生前のこと?」
「君、結構なニュースになってたからさ。まぁ君はその辺は知らないだろうけど」
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