鳥かごの少女
シュンジュウ
第一編
セミが泣いている
ギギギ。
朝の静寂、それから不穏な音。半ば閉じかけていた目を開いて、上半身を持ち上げた。音はどうやら網戸越しに聞こえるらしい。
ソファの上から覗く窓の向こう側には、一匹のセミが横たわっていた。まだ生きている。ベランダに背中を押し付けながら、懸命に足を動かしている。
私は人間でよかったと思った。
気持ち悪いと思いながらも、しばらくその様子を眺めていた。
そのうち、耳をつんざくような目覚ましの音が鳴って、母が部屋から出てきた。
「おはよう」とぶっきらぼうに放った後、再び視線を外に戻す。母は私の視線を追って、そのセミと出会った。
「可哀そうだから助けてあげなさい。」
「やだよ、気持ち悪い。私虫触れないし。」
母はそれ以上は何も言わず、キッチンへ流れて行った。
そしてしばらくしてからセミの動きはピタリと止んだ。不快な音もようやく消えた。
私はつくづく人間でよかったと思った。
朝ごはんを済ませる頃には、時計は七時半を回っていた。私はすぐに家を飛び出した。学校までの道のりに、私以外の学生の姿は見えない。校門をくぐった私は昇降口とは反対の方向へ歩いていく。
朝は環境委員の仕事がある。私が目指したのは花壇だった。手には水を入れたじょうろを持つ。花壇に住むつぼみは、強く光を降らす太陽に顔を向け、咲きたくてうずうずしているようだった。
別に花が好きなわけではない。だって綺麗に咲いたからって、なんなのって話。どうせ枯れるなら一緒。何も生まれない。
あの時、たまたま余っていたのが私と環境委員だったというだけ。偶然以外の何でもない。だけど、当然仕事は真面目にこなしている。義務感が私をそうさせる。
一方でもう一人の環境委員は現れたためしがない。活動が始まってまだ日が浅い頃は、毎朝一時限目ギリギリになって教室に飛び込んできて、わざわざ私の席に姿を見せ、謝罪と感謝、そして遅刻の言い訳をまるで先生を前にしているかのように饒舌に言葉を並べたものだ。私はそれを甘んじて受け入れた。しかし、それからしばらくして彼は当然ように仕事をさぼるようになった。いつものような無意味な会話もなくなった。何も言わない私に、こいつならサボっても大丈夫とでも思ったんだろう。舐めてる。
どうして私ばかりこんな目に?
真面目な性格は少なくとも高校生活では損でしかない。やりたくもない学級委員を真面目だという理由で押し付けられ、勝手な期待と信頼はますます私を束縛した。
その理不尽を考えるだけで胸が締め付けられ苦しくなってくる。全て破り捨ててしまえ、という人もいる。立ち向かうとか、そんなの無理だ。この虚弱で狭い精神で何ができる?しまいには自分の方に原因があるようにも思えてきた。つまりどうしようもない。
私は真面目に生きているのに、なぜこんな不幸に?
小説が好きだった私は、人生の不条理さに絶望した。報われるなんて言葉は噓っぱちだ。きっと最後に幸せを掴むのは彼らだ。適当に生きている彼らなんだ。私じゃない。
ああ、死んでやろうか。
悪い癖だった。悲観主義者もいいところだ。だが、人生の不条理を知っていた私はその考えを馬鹿馬鹿しいものだと思わなかった。小説の主人公は理不尽な世界に抗い、最後にはその波に呑まれるように力尽き、美しく死んでいく。最後まで誰かのことを思って死んでいく。
カッコいいと思った。
だから私はその死を望んでいた。
自殺願望はない。ただ清く死にたい。まるで車に引かれそうになった子供を庇うように。
私は善く死にたかった。
授業は相変わらず退屈で無意味に思われた。あまりにも他の生徒の解答のレベルが低すぎる。前回の授業に出ていたかと疑うくらい。彼らはタダでここに座っているとでも思っているのだろうか。寝ている奴を見ると無性に腹が立った。こんな適当に生きてるやつが幸せになるなんて、許したくない。
授業が終わり、何かするわけでもなく椅子に座る私の前に、一人の生徒が現れた。佐藤さんだった。
「伊藤さん。次の授業の宿題写させてくれない?」
佐藤さんは申し訳なさそうな顔で両手を合わせる。
「うん、いいよ。」
この顔を一体何度見たか。
佐藤さんとは普段からよく話すわけじゃない。彼女との会話はこれがテンプレで、オンリーワンだ。別によくあることだった。もし会話できる人を友達というのなら、私は間違いなく友達が多いと言えるはずだ。
昼休みのご飯も一人で食べる。寂しくはない。
昼休みの水やり担当は木村と日生さんだった。木村もまた仕事をサボる人種だった。それは私の毎朝の日課を無に帰す行為だった。多分あちらは何とも思っていないだろう。サボるか、サボらないか、すべて自分の中で完結させているのだ。死ぬほど迷惑だ。
一方で、同じクラスの日生さんは毎日欠かさず水やりをしていた。どうやら花が好きらしい。環境委員の中では珍しく立候補して就任していた。
なのにここ数日で彼女は姿を見せなくなった。結局彼女もそうだった。無責任に自分の仕事を放り投げ消えていく、自分勝手な人種。
彼女の担当する花壇は私のとは違う。だから別に彼女の花壇がどうなっても知ったことじゃない。だけどそれは私の性格ゆえに許されなかった。結局昼休みに水をやりに行くのも私なのだ。
小供の時から損ばかりして居る。
無鉄砲とは真逆な私にもその言葉はついて回った。そんな自分がずっと嫌いだった。
弁当を食べ終えた私は、上げたくない腰を上げ、当然花壇の方へ向かうことになる。木村の尻ぬぐいのついでだと思えば、日生さんの分もそれほど気が重くはなかった。
花壇に向かう途中、階段から一人の男が降りてきた。その階段は屋上につながるものだが、屋上を使っている生徒なんて見たことない。私はその姿をひとたび見るなり理解し、その姿を視界から外した。
屋上から降りてきたのは、塩川龍吾だった。ずっと不登校気味で、学校に来ているときでも授業にはあまり姿を見せない。むかつくことに彼は、不良の類に近かった。社会への反駁を掲げたただの自分勝手。ああいうやつが一番嫌いだった。ああいうやつが結局最後に得をすることもムカついて仕方がなかった。いつもどこで何をしているのだろうと思ってたが、そこにいたのか。道理で屋上に人が集まらないわけだ。
私は塩川に変な因縁をつけられないように、校庭へ飛び出していく生徒たちとともに、小走りで花壇に向かった。
いつもの手慣れた手つきで水を用意すると、まず日生さんが担当する花壇を見る。まだ小さいながらつぼみが首をかしげていた。きっと私が水やりを続けていなければ、今頃枯れてしまっていただろう。
私が担当する花壇のところまでやってくる。
「わあ!」
思わず声を漏らした。つぼみだった花々は、真っ赤にそして大きく花開いていたのだ。
キーンコーンカーンコーン。
昼休みの終わりを告げる鐘とともに誰かの叫び声が聞こえる。
少しだけ報われたような気がした。花だけが私の存在を証明してくれる。そう思えた。
空では大きな鳥が羽ばたいていた。
セミは一層声を上げて、泣いている。
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