夢見のアトリエ

ろっく・ゆー

 閉じられた重く暗いカーテン。冷え切って光のない室内。

 光源はカーテンの隙間からさす光のみで薄暗い。それになんだか空気が重く感じる。

 部屋の中に目を凝らす。まっさらなキャンバス、毛先の乾いた絵筆、使い切られた絵具、様々な使いかけの画材、雑然とした物の配置に色素の薄い空間。

 ああ、ここは墓場だ、ここには死者が眠っている。


 この薄暗いアトリエは生きる意味を失った。初めてこの場所に訪れた印象はそれだった。


 換気もかねて、閉じ切られていたカーテンと窓を開け放つ。陽光が差し込み、長年積もっていた埃が風を受けて舞い上げられた。何年も手入れされていないことが分かる。避けれなかった埃にむせながら、辺りを見渡してみる。

 外観よりも広く感じるそのアトリエ。床には、空っぽの酒瓶が転がっている。前の主はロクデナシな人間であることは想像に難くない。


 室内を歩き回っていると、部屋の片隅に、奥へと続く扉を見つけた。古臭いデザインの木製の扉だ。手前にはいくつかの習作。人らしき輪郭が描かれていることから人物画であることが伺える。


 どの絵も描きかけで、輪郭だけのものもあれば、背景だけの物もある。共通しているのは、どれも中途半端で対象の人物を描いていないということだろう。推測だが、どれも同じ人物を描こうとしているように思う。描く技量がなかったのか、それともなにか別の理由で描けなかったのか。


 色素の薄いアトリエで、ここだけが異彩を放っていた。
















 私がまだ少年と呼ばれる年だった頃の話だ。

 少年は十二に及ばない年齢の、どこにでもいるような普通の子供。地方にある、貧しいともいえないが決して栄えているとは呼べない町に住んでいた。

 私は少し変わった子供で、町の郊外にある小高い丘。そこから見下ろす町の風景が好きだった。

 木が一本生えているだけで面白みに欠けるただの丘。人の出入の少ない寂れた田舎の町。他人の目から見れば下らない、今はもう、色あせてしまった想い出の風景。思い返せば、その風景こそ私の原点だった。


 ある種、幻想的とすら思えたその風景。

 青色のキャンバス、燦燦と降り注ぐ陽光。

 青々とした木々、風に揺れる草花。

 眩しくて、艶やかで、心地よいその風景。

 少年の視界は、世界を彩る色を映していた。

 瞳に映るもの全てが、輝きを放っている。

 世界は、ただひたすらに美しかった。


 さあ、この少年について語るとしよう。少年は、簡単に言ってしまえば、不幸だった。

 どちらかというと内向的な性格。傷んでしまった栗色の髪に、青白くガリガリの手足。パッとしない見た目にありふれた貧しい家庭。輝きを損なわないセピア色の瞳。家族は父親と母親と少年のみ。性格が災いして特に仲のいい友人もいなかった。日々することといえば、家の手伝いをするか丘から風景を眺めるか。

 これからも変わり映えのない日々が永遠に続くのだろうと、そういった予感を感じていた。

 しかし、物事は大抵、予想より悪い方へと転じていくものだ。


 少年の父は真面目な炭鉱夫だった。交友関係も広く信頼も厚かった。少なからず尊敬していたし、少年にとって憧れでもあった。

 ある日炭鉱で事故が起きた。死傷者が数十名と出た大事故だった。

 以来、父は以前の父ではなくなっていった。事故のせいで片脚を失った父。まっとうな働き口は見つからず、気休めで飲み始めた酒に飲み込まれた。

 最悪なのは、母と少年に暴力を振るうようになったことだ。以前の真面目な炭鉱夫であった時の尊敬はもうない。古い友人はことごとく父の元から去っていった。少年の瞳に映る輝きはここで奪われた。


 少年の母は強く優しい人だった。いつも明るく笑顔の絶えない女性だった。確かな愛を感じていたし、少年も母のことを敬愛していた。

 母は父の代わりに家計を支えるため、娼館に働きに出ることにした。唯一の働き手が使い物にならなくなり、責任感の強い母はその穴を埋めようと懸命に働いた。家では父に暴力を振るわれ、店では客に身体を売る。狂った日常。

 だが、無理がたたったのか、病気を貰ったのか、どちらにせよ体調を崩すことが増えた。少年の瞳に映る色彩はここで奪われた。


 この時代には、あまりにもありふれた貧しい家庭。両親がいるだけ少年はまだマシと言える。少年の瞳から色彩と輝きを奪っていったのは、格差を是とする社会。より大きな括りでいえば、そういう時代だった。

 そんな落とし穴のような時代に生まれたのが、この少年だった。


 救いのない毎日を送る少年。そんな中、日常に変化が訪れた。

 少年は、身体の弱い母親や職を失った父親の代わりに、裕福な屋敷に奉公に出ることとなったのだ。紹介人は母の友人である娼婦だ。

 他に伝手はなく、頼れる人間もいない貧民の子供。選択肢など最初から用意されていない。せめて母だけでも・・・。

 幼いながらに、貧しい我が家のために自分が何とかするしかないことを、少年は悟った。


 数日後、屋敷へ奉公に出る日となった。それなりに栄えた隣町。富裕民が生活を営む区画。その中でも有数のお屋敷が少年の勤め先だった。屋敷の大きさに圧倒されつつも、門の前で待つようにとのことだったので大人しく待つことに。


 ほどなくして、屋敷から一人の使用人が現れた。上等な洋服にみを包んだ壮年の男性。そこで敷地内の案内と具体的な仕事の内容を聞かされた。

 基本的に泊まり込みでの仕事になること。最初は教育係のメイドが付きっきりで仕事するということ。仕事は子供にも出来るようなものから任せるということ。立ち入りの許されない場所は許可なく立ち入らないこと。

 他にもいくつか注意点があったが基本はそんなものだった。


 少年は両親に代わって懸命に働いた。

 体の小さい少年に出来ることは多くない。だから自分から進んで仕事を探した。メイドの手伝いで荷物運びに清掃作業。シェフの手伝いで皿洗いに野菜の皮むき。広い庭園、便所、屋敷の煙突、誰もやりたがらないあらゆる場所の清掃。

 初めは苦労したが、無心で作業しているうちに何とも思わなくなった。今日も今日とて、無心で仕事を行う。

 とはいえ休憩をする時間はしっかりある。その時間はのんびり屋敷の庭園を眺める時間にしている。ここに来てからの数少ない、いや、唯一と呼べる少年の趣味だった。


 数か月が経ち、真面目な性格が幸いしたのか少年は仕事を一人で任されるようになった。

 とはいえ、複雑な仕事は手伝い程度におさまっているし、正直マナーに関しては目も当てられない。それでもお優しい旦那様は目をつぶってくれた。頭の出来は思っていたより悪くないし、どんな仕事でも口を開かず懸命に働く。

 使用人たちの評価は、少年が思っているより高かった。


 屋敷の仕事にようやく慣れた頃のある日、いつになく使用人の動きがせわしないように感じた。何かあるのだろうか。

 気になったので、仲の良かった教育係のメイドに話を聞きにいった。メイドが言うには、女学園に通っていたお嬢様が今日帰って来るらしい。

 お嬢様はこの家の一人娘で、蝶よ花よと大切に育てられてきたそうだ。この家の大事な一人娘なので、粗相があってはいけないと、使用人達はお迎えする準備に追われているらしい。でも、自分たち下っ端に出来ることはないようで、今日も仕事内容は変わらないそうだ。

 自分の仕事は、予定通りであれば庭園内の落ち葉清掃だったはずだ。特に何も思うことなく、メイドと別れ庭に出る。


 すると、屋敷の門の辺りで人だかりと馬車を見かけた。中でも目を引いたのは見慣れない少女。背丈はあまり変わらず、自分と同じくらいか少し上の年齢だと思う。

 陽光を反射して黄金のように明るく美しい髪色、空をそのまま映したような蒼い宝石のような瞳。雪のように白い肌。職人の手で作られた人形のように可憐な少女。

 ひと目でその少女がこの屋敷に関わる人物であると分かった。そんな華美な容姿にもかかわらず落ち着いた服装、どこか儚さのある表情。そのアンバランスさにどこか興味を持ったというのが最初の印象だった。


 思い返せば、おそらくは。いや、正直なところ、それが私の最初で最後の恋心だった。


 お嬢様はしばらく屋敷に滞在するようだった。

 お嬢様もどちらかといえば内気なようで、自室に籠り本を読んでいるようだ。まあ、それは噂好きのメイド達から聞いた噂話で、実際のところどうなのかはわからない。だが少なくとも、あれから屋敷内で見かけたことはない。

 今日の作業は厩の清掃。なんだか今日の仕事は少し憂鬱だった。


 しばらくして、お屋敷で軽いパーティーのようなものが開かれることになった。少ないながらもお客様をお招きして。

 なんでもその日はお嬢様の誕生日らしい。出来ることは少ないが、当日は自分も見習い給仕として会場に立ち入ることになる。

 シェフは大急ぎで当日のメニューの準備をしているし、メイドはせわしなく会場の準備に取り掛かっている。急きょ決定したパーティーなので、使用人達は目を回しながら仕事に追われていた。当日はどれぐらいの馬車が来るだとか、料理はどれくらい用意するだとか、旦那様のお召し物がどうのこうの。

 正直なところどうだっていいが、最低限のマナーを学ばなければいけないのは面倒だった。


 誕生日パーティーの当日、敷地内の庭園。老若男女問わず様々な人々が騒々しく動き回っている。


 自分が思っていたよりも人が来た。そこで改めて、身分の差というものを感じた気がする。無駄に豪華な会場、無駄に豪勢な食事、ひっきりなしに訪れるお客様。すきま風だらけの家、特別な日だからと無理をした料理、家族三人だけの誕生日。ここにいる人間と自分は同じ人間であるはずなのに、身分の差、権力の有無というものは、ここまで絶望的なまでの差を生むのかと。


 仕事を探しながら下らないことを考えていると、会場の陰で今日の主役を見つけた。よくできたビスクドールのような可憐さを持つ少女。物憂げに椅子に座って休んでいる。

 周囲に人の姿はない。なぜこんなところにいるんだろうか。会場は騒がしいくらいに盛り上がっているのに、何が気に入らないのか。それが気になって、つい話しかけてしまった。こんなとこで何をしているんですかと。

 少女は言った。これは私の誕生日パーティーであって、私のための誕生日パーティーではないと。このパーティーは両親が人脈を広げるために開いたものだと。

 少年は思った。これだけ恵まれていてなお望むものがあるのかと。明日に怯えなくていい生活をしているのにまだ求めるものがあるのかと。少女を責めるのは筋違いだが、そう思ってしまった。


 口から零れそうになった思いを堪え、できるだけ己の内を悟らせないように、優しい声音で話しかけた。

 「なら、私で良ければお友達になりましょう」

 出席者は皆大人ばかりで少女に近しい年齢の者は自分しかいない。そうである以上自分が少女の相手をすべきだろう。深い意味はなく、単純にそう思っての発言だった。

 「よろしいのですか!私、お話したいこと、お聞きしたいことがたくさんあるのです!」

 花が咲くような笑顔。その表情は少年が今までに見たどんなものよりも美しいと思えた。先程まで考えていた事を忘れさせるくらいの衝撃。頬が紅潮するのを感じ、少年は咳払いをする。


 少女は他人に飢えていた。家でも学園でも自分の相手をしてくれる人はおらず、『友達』なんて呼べる人間は今までいなかったのだ。


 それからはお互いの話を聞いた。学園での生活の話。貧民街での話。部屋で読む本の話。敷地内から眺める庭園の話。家族の話。

 空はいつしか茜色に染まっていた。今日、この日に限っては二人の間に身分の壁はなかった。どこか初々しい成立したてのカップルのような二人の会話。

 パーティーがお開きになる直前まで二人は話し込んでいった。


 その日の終わり、少年はメイド長に怒られ、少女は両親に怒られた。どこへ行っていたのかと。あの時間は二人の秘密。両者は当たり障りのないことを言ってごまかした。示し合わせたわけではない。なんとなく、秘密にしておきたいと二人は思ったのだ。


 その日以来、二人は人目を盗んで再び話し合うことが増えた。禁断の関係に燃え上がる恋人たちのように。なんだかいけない事をしているようで妙な背徳感があった。その日々の中には身分の差などなかった。

 美しい赤と緑に囲まれた庭園、白と橙で積み上げられた屋敷、果てしなく吸い込まれるような青い空。その中心にはいつも陽光のような少女の存在があった。少年が最も輝いた頃の記憶。決して色あせることのない幸せを描いた虹色の日々。

 

 二人は様々なことを語り合った。過去のこと、今のこと、未来のこと。お互いの生い立ち、今の生活、将来の夢。辛いこと、悲しいこともあった。だが、それでも未来は夢に溢れていた。


 その日は朝から一雨来そうな天気だった。庭の落ち葉集めに励んでいると不意に、彼女にお見合いの話が舞い込んだという噂を聞いた。

 誕生日パーティーの際に少女の両親はそんな話もしていたらしい。屋敷の人間は皆祝福した。少年はそんな気分になれなかった。胸の内の何かが汚されるような気がして。

 その日の午後、いつもしていたように庭園の片隅で二人で話し合った。噂について尋ねると、彼女は華やぐような笑みで言った。


「ようやく夢が叶うのね」


 ずっとそう在ることを望んでいたように。生涯を誓い合う伴侶と盛大な結婚式をしたいと。煌びやかなドレスを纏ってヴァージンロードを歩むのだと。夢見る少女のような表情で輝く未来に想いを馳せていた。

「心より幸せを願っております」

 ようやく私はお嬢様を祝福する事が出来た。心からあの少女の幸せを願って、将来の伴侶に向けて、祈るように。

 モノクロームに染まる空。日が翳り辺りを黒く染めていく。次第に雨が降り出して、少年が必死に集めた落ち葉を流してしまった。こんな天気では仕事にならないので仕事を休むことにした。

 気がつくとそれなりの月日が進んでいた。お嬢様のお見合いはとっくに終わっており、二人の仲はまんざらでもないようだ。今はまだ婚約段階。結ばれるのはお嬢様が学園を卒業した後の話だそうだ。




 しばらくして、母の友人が屋敷を訪ねてきた。この女性は家に少年の給料を家に届ける役割をしてくれていた。なんでも大事な話があるからと。

 女性は落ち着かない様子で、早口に、まとまらない文章で、よく分からないコトを言っていた。順を追って咀嚼しなければ、受け止めれきないコトを。

 要約すると、どうやら母が命を落としたそうだ。少年が屋敷で働いた分の賃金は父の酒代に消えていて、母は病が悪化してそのまま。

 それだけ言うと、その人は涙を流しながら帰っていった。

 ああ、自分は変わっている。不思議と悲しさや辛さといった感情よりも虚しさが勝っている。自分の心は壊れてしまったのだろうか。もうそれすら分からない。

 少年の与り知らぬところで、世界から輝きが零れた。




 ある日、少年は帰る場所がないことにふと気づいた。その時、少年はようやく家族も奪われたことに気づいたのだった。

 少年は屋敷の仕事を辞めることにした。続ける義理も未練もなくなったからだ。




 しばらくして、少年は青年と呼ばれる年齢になり。屋敷の使用人時代の伝手で新たな働き口を見つけていた。絵や彫刻などをメインに扱う、とある古物商店の従業員。そこの旦那様はケチな性格で、決していいと呼べる給料ではなかった。それでも、私は懸命に働いた。それが数少ない私の取り柄だったからだ。

 様々な絵画に触れるうちに、たまたま見かけた、何の変哲もない田舎の風景画に心奪われた。私はその時初めて、絵画というものに興味を持てた。




 またしばらくして、ひとりの女性と知り合った。店の従業員の一人で、何度か食事をしたり、逢瀬を重ねたり。何度も会っていくうちに、女性から想いを告げられた。なんでもその女性は、真っ直ぐ懸命に働く私の姿に惚れたらしい。そうして、女性は私の妻になった。私も彼女を愛していた。




 人づてに聞いた話だ、あのお屋敷のお嬢様がどこかの富豪の家に嫁いだそうだ。噂によると立派な男であるらしい。

 噂を聞いた翌日、彼女の結婚式に屋敷時代の伝手で招待された。貯金から少し切り崩して、結婚式に着ていく衣装を買った。妻は、優しく送り出してくれた。




 式場は隣町。晴れ晴れとした空に純白に染められたチャペル。

 久しぶりに見た彼女はとても美しく成長していた。金色の髪、青い瞳、白い肌。大人になった彼女の面影に虹色の日々を垣間見た。

 声を掛けることなく、式は華やかなまま終了した。私は弾む気持ちで帰途についた。帰り道に少しいい酒と食べ物を買って、あの幼き日々に思いをはせて。



 

 思えば、初めて少女を見たとき、世界が美しいことを思い出せた。彼女と話す度に、日常は色彩を取り戻した。彼女を想えば想うほど私の未来は輝いているように感じた。

 これがどういう気持ちなのかは知らない。だが、この想いをどうにか形にしたかった。




 私は仕事を辞めた。絵描きを目指して勉強を始めた。文字や音楽ではこの気持ちを表すことは出来ない。絵ならば私が感じた美しさを完璧に表現できると思ったのだ。妻は何も言わなかった。




 私は筆をとった。再び私の世界に色を取り戻すために。私の腕は、この絵を完成させるためにあるのだ。なにかに追われるように、私は無心になって筆を走らせた。何枚も絵を描いた。来る日も来る日も、ただこの想いを形に。




 曖昧な輪郭、アンバランスな配置。くすんだ黄色、深みの無い青。どれもこれも、なにかが足りなかった。私には、肝心の彼女が、描けなかった。


 妻には迷惑をかけたと思う。画材を買うために二人で貯めた貯金は使い果たした。自分もやりたいことがあっただろうに。

 偶然にも妻の知人に建築家がおり、妻が借金をして、小さなアトリエを建てた。私のやりたいように絵を描いて欲しいと。町の喧騒から離れた丘の上にある小さなアトリエだった。私は懸命に絵を描いた。


 私は一度彼女を忘れて、風景画や違う人物画を描きはじめた。私だって画家の端くれ、自分の絵で金を稼ごうと思ったのだ。なにより、妻が借金をしたままでは申し訳がたたないと思ったからだ。


 現実は甘くない。私が描いた絵は全く売れなかった。良くて二束三文の価値にしかならず、自分の腕で飯を食うことはできなかった。

 それでも、妻は私についてきてくれる。それが、私には、ただただありがたかった。


 鳴かず飛ばずの日々が続いたある日、ある一枚の絵がそれなりの値で売れた。

 それは、少年の頃の風景を思い起こしながら描いた一枚だった。妻は我が事のように喜んでくれていた。私個人としては、満足はいかなかったが売れたことは素直に嬉しかった。だが結局、私の生涯で高く売れたのはその絵だけだった。


 しばらくして、酒に溺れるようになった。

 最初は気晴らしに飲むだけだったが、次第に飲む量が増え、最近では、絵を描くことすらなくなった。それでも、妻は何も言わなかった。それが何よりも私を惨めな気持ちにさせた。

 でも、妻に詰め寄ろうとは思えなかった。幼い頃に見た父と己の姿が重なって見えたからだ。なにより、絵で食えないのは自分の技量のせいだと自覚している。

 むしろ、認めたくはなかったが自分には絵を描く才能がないことに薄々気づいていた。


 数か月が過ぎた。無理が祟ったのか、妻が倒れた。酷い栄養失調に風邪をこじらせて。

 そこまで妻を追い詰めていたことに私は気づかなかった。悔いるように私は酒をきっぱり辞め、働き口を探した。妻が私を支えてくれたように、今度は私が妻を支える番だと思ったからだ。

 床に伏した妻は言う。私のために働かなくていいと。

 妻はこう言った。


 「絵を描いてください。私はあなたの、懸命に絵を描く姿が好きなのです」


 そんな風に、妻が、本心を私に伝えるのはこれで二度目だった。

 これまで碌に妻のことを知ろうとしてこなかったが、そんな風に想ってくれているとは思わなかった。

 正真正銘、これが男の、最初で最後の後悔だった。


 妻は死んだ。涙は出なかった。

 私は本当に最低な男だったと思う。反対に妻はできた女性だった。こんな男にさえ関わらなければ、もっとマシな人生を送れただろう。

 だから、妻が残した言葉通り細々とまた絵を描き始めた。

 もはや、何を描くかすら定まらないまま。それでも、なにかを描かねばならなかった。それだけが私を動かす原動力であり、生きてきた理由だった。


 風の噂で、とある富豪の妻が亡くなったらしい。

 明るく美しい髪色、宝石のような瞳。そんな容姿をした美しい女性とのことで、死因は分かっていない。

 富豪は別の女性と再婚したそうだ。


 なにかに突き動かされるように、私は絵を描いた。傍からみれば狂気すら覚えるくらいに。寝食さえも忘れて。これが私の生涯最後の作品になると悟って。抑えきれないこの衝動を無地のキャンバスにぶつけた。

 この体は、この絵を描き終えるまで、持たないだろう。それでも筆を持つ手は止まらなかった。一心不乱に、この想いを形に。


 三度朝日が登り、夜が訪れ、再び朝日が昇り始めたころ。自身の想いを絵に綴った。

 そうして筆を置く。絵にシートを被せ、アトリエを後にし、近くの木陰で倒れ込んだ。身体が休息を欲しているのだ。だが私がここで瞼をおろせば、もう、この絵が日の目を見ることはないだろう。それでも満足だった。

 この体を突き動かしていた正体不明の感情に決着がついたからだ。あまりに単純で難解なその感情。その熱い想いが、冷め行く身体に駆け巡った気がした。


 瞳を閉じて、男は夢を見る。あれは幼き頃の少年と少女。二人で駆け回った屋敷の庭園。将来を語り合った二人だけの世界。その世界は単純で、難解で、色彩に溢れ、輝いていた。そう、世界はただひたすらに美しかった。


 アトリエに朝日が差し込み、その様を見ながら、男の身体はゆっくりと休息に向かう。たった一言が伝えられなくて、なんとかこの想いを表現しようとした、幼き少年の今際の夢。


 「あなたのことが、好きでした」
















 私の目の前には他を拒むような、劣化した木製の扉が存在している。おそらく、この先は前の持ち主の心象風景。どうあれ彼の秘密が眠っていることだろう。くすんだ真鍮の取手を掴み軋む扉を開いた。


 この部屋だけは最初から光が差している。ここだけは、未だ彼が存命だった時をかろうじて保っているようだ。

 小さな部屋の光差す場所にシートがかけられたものが見えた。直感的に気づいた、これが最後の作品だったのだろうと。

 一瞬シートを剥ぐかどうか悩んで、結局辞めることにした。なんとなく見るべきではないと感じたのだ。ちらりと見えた部分に初恋を意味するような文字列が見えた気がする。そういった作品なのだろう。



 ここに来た当初の時の印象はもうなかった。それほどにあの空間は侵しがたい雰囲気に満ちていた。私はこのアトリエを購入することに決めて、この部屋に入れないように扉をふさいだ。もう二度と私がこの部屋に立ち入ることはないだろう。


 なんとなく、ここでならいい絵が描けそうだと思う。未来に想いを馳せる。なんだか急に外に出たくなった。


 外に出た瞬間、年若い青年の視界は、世界を彩る色を映し出した。

 青色のキャンバス、燦燦と降り注ぐ陽光。

 青々とした木々、風に揺れる草花。

 瞳に映るもの全てが輝きを放って。

 世界はただひたすらに美しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夢見のアトリエ ろっく・ゆー @Bay0ji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ