第23話 鯏浦(4)

 信長は、万見邸の仙千代の部屋に居た。

最初、客間に通されかけたのだが、信長が気まぐれを装い、

仙千代の部屋を見たいと所望してみせたのだった。


 突然の訪問であったにかかわらず、

屋敷の内も清潔整然そのものだった。

ずいぶん古い建物で年季が感じられるものの、

どこも塵埃は見当たらず、何とも言えず空気が清浄だった。

気付くと、邸内の所々に花の枝や、草花が生けられていて、

植物の自然の力が空気を浄化していた。


 仙千代の部屋は南に向いた二つの続き間だった。

壁に凧が幾つか立て掛けてあり、装飾めいたものはそれだけだった。

二間続きの最も奥の文机に筆、硯があった。

 脇机には、武家の定番、孫子、呉子、論語があって、

他に般若心経経本、『更級日記』が見えている。

子供らしく興味が多岐で、

『更級日記』を読んでいるらしいことに姉妹の多い環境が察せられ、

興味深かった。


 上座に座り、二人きりで、仙千代と向かい合いに座していた。

 やたら部屋が広く、可笑しくなってくる。

笑った信長を仙千代が不思議そうに見る。


 「仙千代が十人、二十人……いや、もっと寝られる広さじゃ」


 何と返事をすれば良いのかという顔でいる。

 というよりも、心ここにあらずで、

先ほど信長から岐阜の城に出仕せよと言われたことが消えず、

小さな胸がそのことでいっぱいなのだろうと考えた。


 「城に上がる不安は何なのだ?」


 ようやく仙千代が口を開いた。


 「父が脚の痛みで臥せることがあり……心配なのです」


 「ああ、左様であったな。

父君に良い医師を差し向ける約束になっておる故、

早晩、治りが期待できるやもしれぬ。まずは養生が第一じゃ」


 驚きながらも礼を述べる仙千代に、

信長は尚も、大人の事情を嚙み砕いて説いた。

 仙千代が小姓となれば禄を手にできること、

仙千代の働きがあれば大いに家計の援けになるであろうこと、

しばらく勤めをしてみて合わないと思えば帰る自由があること、

また、今回は仙千代の父との約束で、特別な計らいをもって、

当面は奇妙丸……元服し、今では勘九郎信重となっている……

の小姓として暮らし、信重に仕えつつ、

傍らで武術、文事に励むことも許すと話した。


 何がどう仙千代の心に訴えたのか、

今の話で一気に表情が変わり、身を乗り出さないばかりの勢いで、


 「有り難き幸せにございます!

衷心より、お仕え申し上げます!」


 と、はっきりとした口調で言い、底抜けの笑顔のあと、

はっとしたような表情を見せ、次には深々と平伏した。

 何が何だか絡繰りが不明ではあるが、

仙千代が積極性を初めて見せ、

それが信長には心地よく、快感でもあった。


 「では、来るのだな?儂のところへ」


 またも大人の狡さ、というよりは、自己満足で、

敢えて「儂のところへ」と信長は言った。

「岐阜へ」では意味が違ってしまう。


 「参ります!参りとうございます!」


 「懸命に勤めれば禄が上がり、親孝行になる。

仙千代も一流の師に教えを乞うて成長を実感できる。

良いこと尽くめじゃ。で、あるな?」


 「はい!」


 仙千代の輝く笑顔が眩いほどだった。

両頬の控え目な笑窪が愛くるしい。

 信長は、いったん万事、思うがままの決着を見たと満悦し、

仙千代が城へやってくる日を楽しみに待つことにした。
















 




 





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