諸悪の根源「リンドウ ルナ」

 ちょっと待ってくれ。


 六〇八号室に戻ってきた俺が先程までの凛堂との会話を冷静に振り返って、感電したように気づいた事がある。

 なに海辺で半裸になってんだよとか、格好つけてくさいセリフ吐いてるんだよとか、そんなことは今はいい。というか、思い出したら恥ずか死ぬから数年は封印しておきたい。


 違う、違うのだ。

 問題は、その『恋愛マスター』についてだ。


 凛堂の話を信じるとして、すると俺は幼少期に聞き間違いで『恋愛マスター』という単語を口にしたらしい。ここまでなら幼稚園児の微笑ましい勘違いで終わるところだ。


 で? 今俺は何をやっている?

 どうして今現在俺は『恋愛マスター』をやることになっている?


 その答えはこうだ――いつの間にか俺=恋愛マスターという噂が広まっていたから。


 ではその噂を広めたのは?


 ……。


 残念ながら現在まで恋愛と縁も所縁ゆかりもない俺のことを、『恋愛マスター』であるという情報を拡散した奴がいる。

 そしてどう考えても、その犯人に思い当たるのは一人しかいない。


 まさか――。


 ◆ ◆ ◆


「――そう。マスターがマスターである噂を吹聴したのは私」

「……おい!!」


 全力で、おい!!

 お前だったのかよ! 元凶は!


 なつめの意外なまでの寝相の悪さに四苦八苦しながらなんとか睡眠をとった俺が、翌日早朝に朝食会場で出くわした凛堂に、自分の朝食をよそうのも後回しにして昨日からの疑念をぶつけてみると、あっさりと認めた。認めやがった。


「なんでそんなデマを広めたんだよ! おかげで俺は!」

「マスターは、恋愛マスターなんでしょ?」

「違えよ! んあわけあるか!」


 横長のテーブルでクロワッサンを齧っている凛堂は、俺の荒い声にもいつも通りの平然とした反応だった。

 いつもと違うのは、嬉しいことに控えめながらも目が開いている事だ。

 綺麗な青が、脈拍を僅かに加速させてくる。


「でも昨日、マスターは言った。『イエス、アイアム』って」

「いや言ったけど! 言ったけども!」

「……嘘だったの?」

「いや……嘘ではない、けど」

「マスターは、恋愛マスター。わたしは助手。違う?」

「いやまあ、違わないけど……」

「そう。なら、問題ない」


 んー、まあそうか。問題ないか。


「って納得できるかよ! なんてことを! お前のせいで俺は妬ましい奴らからの相談を受ける悲しい存在になっているんだぞ!」

「……」


 いやなんでそこでだんまりなんだよ。

 クロワッサンをガブリ――じゃねえ!


 凛堂の為に、俺はマスターになるなんて豪語してしまったけども……解せない、心底解せない。


「マスターはマスター。これからも、よろしく」


 凛堂は青い瞳を俺に向けてからそう言い、牛乳をごくりと飲んだ。

 そのつもりではあるし、そんな目で言われたら嫌とは言えないけどさ。


 こうして俺はますます、恋愛マスターから切り離せなくなってしまった。

 マスターっていうなら、いい加減それらしいことの一つや二つ経験しておきたいところなんだが――


「あら、冬根君! おはよう、早いわね!」

「お姉さま、あちらにお姉さまの好物のパンケーキもありますよ」

「んな! 彩乃、でかしたわ!」


 朝から絶好調の四ノ宮と彩乃、そして、


「氷花くん、先に行っちゃうなんてひどいよう……それと訊きたいことがあるんだけど、どうして、僕はその、氷花くんのベッドで寝ていたのかな?」


 事案に聞こえかねないセリフを吐いてくるなつめ


 ――こいつらが周りにいる限り、俺に正しい青春が訪れる気がしない。


 まあでも、だ。


「マスター、朝は糖分がおすすめ。マスターの為に朝食装ってくる。待ってて」


 おさげを揺らして綺麗な目を見せてくれる助手がいるなら、まあそれはそれで俺にとっては僥倖ぎょうこうなのかもしれないな。


 凛堂が持ってきた朝食は俺には甘すぎて、朝から頭痛が発生したけども。


 ◆ ◆ ◆


 深緑ふかみどりの顔色をした霜平が十時ギリギリにロビーに降りてきて、俺達はホテルをチェックアウトした。

 あとは車に乗り込み、帰るだけらしい。


 突発的に発生したイベントも終わってみると一瞬だったが、この旅行 (?)で俺はいろんなものを得た気がする。

 考えてみれば、そもそもで俺が霜平に拉致された理由、「やってもらうこと」というのは概ね達成できたようだな。結果論ではあるが、来て良かったし、楽しかったし、やってみて良かったとも思うし、その点は心の奥底でひっそりと感謝しておくことにしよう。


 行きの時のテンションとは打って変わってゾンビのような唸り声を上げながら運転する霜平は、それでも安定した運転捌きで高速道路を通り、数時間して元の集合地の駐車場に帰ってきた。


「それでは……うぅ……家に帰るまでが遠足ですぅ。解散!」


 ……随分機能的な遠足でしたね。歩いたのは徒歩一分のホテル浜辺間の数往復だけですけども。


「あ、氷花ちゃんはちょっと残ってぇ」


 黄緑色くらいには顔色が回復した霜平は、そう言うとバンの運転席に乗り込んだ。


「ではマスター、また夏休み明けに」


 凛堂は控えめに開いた目でそう言い残して駅の方に歩いていく。


「冬根君! 私は生徒会活動で大体学校に居るから、何かあったら生徒会室に来てちょうだい! 一緒に真の恋愛を導くために邁進しましょう! さ、行くわよ彩乃」

「はい、お姉さま」


 縁メガネを弄りながら謎のドヤ顔をした四ノ宮も、彩乃と一緒に駅に向かって行った。


「あはは、なんかあっという間だったね、氷花くん」

「そうだな」

「旅行も楽しかったけど、残りの夏休みも楽しみだよね! って僕たち三年生だから、勉強しなきゃだけども」

「うっ……」


 なつめ、嫌な事を思い出させないでくれよ。

 とは言っても避けるに避けられない事象だよなぁ。受験勉強。


「氷花くんは、夏休みは何か予定ある?」

「んー、まあ、そうだな」


 全く、何もありません。グータラする予定です。


「もしよかったら……もっと僕、氷花くんと一緒に居て男らしさを学びたいなあって。泊まりに行くのは悪いから、たまにどこかで会ってくれると嬉しいな」


 あざとさMAXの上目遣いのなつめ。だから可愛すぎるってば。


「おう、いつでも誘ってくれ」

「本当? わあ、嬉しいな。それじゃ連絡するね!」


 ニッコリと微笑んでなつめも駅に向かって行った。

 残された俺は……エンジンの切られたバンの助手席に乗り込む。


「氷花ちゃーん……」


 運転席のシートを最大まで倒して目を閉じている霜平が、唸るような声を出した。

 俺は体を捻り、後ろの席のボストンバックから今朝買った未開封のミネラルウォーターを取り出して霜平に渡した。


「大丈夫ですか」

「あらぁ、氷花ちゃん気が利くのねぇ……ありがとう」

「そんなになるなら、お酒なんて飲まなければいいじゃないですか」

「――っ、ぷはっ、はぁー……分かってないわねぇ、それでもお酒は必要なのよぉ」

「楽しいからですか?」

「人によるわねぇ……」


 霜平は潤った唇を手の甲で拭い、持ち上げたミネラルウォーターを見つめながら、ふぅと息を吐く。


「先生の場合は、悔しいからよぉ」

「何が悔しいんですか? 未だに独身な事が、とかですか? ――イデッ!」


 ペットボトルで殴られた。このご時世、暴力は問題ですよ霜平教諭。


「私はまだピチピチの二十代よぉ……」

「ピチピチ……」

「悔しいっていうのは、そうね……自分ではどうすることもできないことが分かった時、かしらねぇ」


 霜平はそう言いながら持ち上げたミネラルウォーターをくるくる回した。

 日光が器用に反射して車の内側をいびつな光の模様がなぞる。


「教師なのに、困っている生徒の助けになれないなんて、私にとっては拷問なのよぉ」

「……先生、そんなに正義感強かったんですか」

「正義感かどうかはしらないけど。でも悔しいのは本当よぉ。悔しいし、羨ましいし、妬ましい」


 霜平は目を閉じたまま言ったが、俺にわざと刺々しく聞こえるような声色で言っている気がする。


「妬ましい……他人の色恋がですか?」

「それは氷花ちゃんでしょ。一緒にしないでよ」


 ……んだとぉ? 喧嘩か? 買うぞこら!


「それでも、そうね。氷花ちゃんには、お礼を言わなきゃねぇ。ありがとう」

「……なんのことですか」

「やだぁ、わかってるくせにぃ」


 別に、アンタに言われたからその通り動いたというわけでもないんだけどな。

 それでもまあ、きっかけになったのは確かだが。


「たまたま、上手くいっただけですけどね」

「その『たまたま』すら可能性の無い私からしたら、それは厭味にしか聞こえないわよ」

「それでも、たまたま、です。俺の技量ではないですよ」

「……ふん。まあでもでも、氷花ちゃんも私に感謝するべきよねぇ?」

「なんでですか?」


 だいぶ顔色が良くなった霜平は、倒していたシートを元に戻してからミネラルウォーターを俺に返してきた。


「だって、凛ちゃん、すごく可愛いでしょう?」

「……」

「それに氷花ちゃんを部活に入部させたのも私だしぃ。感謝してよねぇ」


 それ、前も言ってたけどどういう意味なの?

 今のところ部活として活動したこともなければ、感謝する事案など一つもないのだが。


 まあ。

 凛堂が可愛いのは、まあ、そうだな。


「私はね、可愛い子は好き。良い子も好き。だからそんな子達を助けたいって思うのは私の本心よぉ。その為に教師になったようなもんだもの。だからチョコレート部のみんなは好きよぉ。凛ちゃんもさくらちゃんも然愛もあちゃんも、みーんな良い子だもの。だから、凛ちゃんを助けてくれて、ありがとうね、氷花


 いつになくキリッとした表情で霜平はそう言った。

 多分、こっちの真面目な表情が本当のこの人の顔なのだろうな。


 そして、霜平はこう続けた。


「だから、また氷花の事を頼ることになりそうで、また私はお酒を飲まなきゃやってられないわぁ」

「どういう意味ですか?」

「そういう意味よぉ。私には無くて、氷花ちゃんにはあるものがあるでしょう? を救うなら、その手段がきっと必要だもの」


 霜平に無くて俺に有るもの? 何だ?


「若さ、とかですか? ――イデッ!!」


 今度はグーで肩を殴られた。PTAに言いつけるぞ!


って言ってるでしょ! 氷花ちゃんに頼るのは悔しいけども……解決するのが一番だと思うから、仕方ないわ」

「だから何のことですか? 凛堂の目の件はたまたま上手くいった……かもしれないですけど、俺にそんな人助け紛いの事頼まないでくださいよ」

「例えばそれがさくらちゃんのことでもぉ?」

「さくら?」


 なつめ? なつめが何に困っているというのだ?


「……もしかして男っぽくなりたい、ってことですか?」


 というか、待て待て。やめてくれ。

 俺はしがない恋愛マスターだ。しかも恋愛経験ゼロの。

 そんな俺に、そういう事頼むのは違うだろ? なあ教師よ。


「どうして、さくらちゃんは男っぽくなりたがっていると思うぅ?」

「それは……――」


 ――知らない。


「氷花。私からお願い。さくらちゃんを助けてあげて」

「……そんな事言われても」


 俺に何ができるっていうんだよ。


「そうね。その為にまずは――」


 霜平は俺の顔の前に人差し指を立ててから、


「さくらちゃんと一緒に、お風呂に入りなさい!」

「……はぁ!?」


 いやいやいや、はあ!?

 なつめと一緒にお風呂? 一緒に?

 一緒にってことは、一緒にってことだよな? それってまずいだろ!

 ……いや、アイツ男だしまずくはないんだろうけど。いや、まずいって。


「――そうしたら、きっと分かるわ」


 何がですか。なつめの可愛さですか。もう知ってますよ。

 それとも、実は本当に女、とか言わないよな? だとしたら俺退学案件なんだけど。


「分かるように説明してくれませんか」

「一緒にお風呂に入ったらわかるわよ。銭湯でも温泉でも」

「いや……」


 会いたい、連絡する、とは言ってくれたけども。

 一緒に風呂は流石に大丈夫じゃない気がする。主に、俺が。


「それにね。これは多分結果的に恋愛マスターとして働くことになると思うわよぉ。ィヨッ! 恋愛マスター!」


 ……殴っていい?

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