金髪の助手「ツキ」
幼い頃の記憶というものを覚えているだろうか。
大抵の場合、歳を重ねるにあたって薄れていくものであるとは思うが、それでもほんのりとかすかに、それとなく覚えていることが多いと思う。
それが特に印象的な、感情すら揺さぶられる出来事であれば尚更である。
では、何故俺が幼稚園の頃の記憶を思い出せなかったのか。
それは、俺が都合のいい人間だったからだ。
そして、歳を重ねるにあたって変化することは、記憶力や筋力の増減だけではないということを俺は初めて知ることになった。
◆ ◆ ◆
「私の父親はイギリス人で、金色に近いブロンドヘア。遺伝で私もブロンドヘアで、幼稚園ではその特徴でよくみんなにからかわれたり、いじめられたりしていた」
「なっ」
のっけから良いパンチだ。君黒いよね? 髪の色。
「今は黒染めしている。毎朝、早起きして根元もしっかり」
「なんでわざわざ? 黒くするのさ」
「そうしないと……」
いじめられるってか?
身体的特徴を揶揄していじめ行為をするのは小学生までだ。
無論それ以上の年齢になってもそういう事をする奴は、小学生と同レベルだ。
「幼稚園に行くのは嫌だった。でも共働きの親の都合上、行かない訳にはいかなかった。毎日、辛かったけど、ある時一人の男の子が話しかけてきた」
幼稚園時代の金髪の女の子……。
微かにひっかかる記憶がある。髪の短い、金髪の……。
「その男の子は私にこう言った。『助手になってくれ』って」
「助手!? って、今の俺と凛堂みたいだな」
「そう」
凛堂は口角を上げて、閉じた目を更に細めた。
「言ったのはマスター。幼稚園の頃のマスター」
「俺? 俺が助手にって?」
「そう。私と同じ幼稚園だった」
なんとなくぼんやりと記憶が居る。輪郭は無いが奥底に埋もれている。
金髪の女の子……そんなやつがいたかもしれない。
しかし青い目をした子と会った記憶は無い。
「髪がブロンド以外にも、私はまだ日本語が上手じゃなかった。生まれてからしばらくはイギリスに居たから。カタコトの日本語、時折出てしまう英語がいじめられる原因でもあったと思う」
もしかして、今でもあまり口数が少ないのは日本語に慣れていないからか?
全く気付かないくらい自然な日本語なのだから、普通に喋ってほしいけどな。
「マスターは言った。『助手になれば大丈夫』って」
「なんだそれ……意味わからないな幼稚園の俺」
「『何故なら俺はマスターだから! はっはっは!』って。言ってた」
「え」
何だその恥ずかしい奴! 自分でマスター名乗るなよ。何のマスターだよ。
それに今の凛堂、俺の真似のつもりか? 似てねえ。
「私も日本語がまだうまく聞き取れなかったけど、『大丈夫』と『マスター』って単語は聞き取れた。それで私は訊いた。『Are you my master?』って。英語で。そうしたら、マスターは突然『恋愛マスター?』って言いだした」
おいおいおい。なにそれ。
「多分、私のネイティブな英語をそう聞き間違えたんだと思う」
アーユーマイマスター。
レ ン アイマスター。
どこをどう聞き間違えたんだよ! ガキの頃の俺! バカ! 無理があるだろ。
いや素早く言えばあるいは……いや聞こえねえ!
「そしてこう言った。『今日からお前は助手だ。マスターについて来い! そうすれば大丈夫。全てが上手くいくのだ! はははは!』って」
だから俺の真似なのそれ!? 恥ずかしいからやめて!
というか待てよ? 何か聞いたことのあるフレーズだ。
『マスターについて来い! そうすれば大丈夫。全てが上手くいくのだ!』
小さな頃、どこかで……。
「幼稚園の頃のマスターは、ずっとマントを着てた。真っ赤なマント」
瞬間、脳内に稲妻が走った。
赤いマント、マスター、助手。
俺が小さな頃流行っていたアニメ『
懐かしすぎる……そういえばそんなアニメがあった。そして良く真似をしていた。
日曜日の朝の時間帯にやっていた『
そいつが赤いマントの主人公のことをマスターと呼び、主人公の助けになっていた。
赤マントの主人公の決め台詞が『マスターについて来い! そうすれば大丈夫。全てが上手くいくのだ!』だった。
そして――。
奥底の記憶が滲むように浮き上がってくる。
確かに、金髪の女の子を助手にした記憶がある。
でもその子の名前は確か――。
「マスターはその時の私の名札の名前を見て、こう呼んだ」
凛堂はそういうと、前屈みになり砂浜に指で文字を書き始めた。
月・Evans――そして最初の文字を丸で囲んだ。
「
まるで蟻地獄が逆噴射したように、俺の頭の中で記憶が噴き出した。
間違いなく居た。幼稚園時代、月という名の金髪の女の子。
泣き虫で、よく他の子にからかわれていた、その小さな女の子。
確かに俺は、その子を助手にした記憶がある。
「凛堂……お前が、
「……そう。でも読み方はマスターの勘違い。私の名前は月って書いてルナって読む」
「そうだったのか……ってその時指摘してくれよ!」
「……でも、月も好きだから」
凛堂はそう言って顔を真上にあげた。
俺も倣うと、そこには細長い弓のような月が俺達を見下ろしていた。
◆ ◆ ◆
待て待て。
懐かしい記憶と、幼稚園時代に会っていたことがあったのは分かった。
だがこれと、凛堂の閉眼がどう結び付く?
折角念入りに準備した専門知識は不発で終わるのか? それならそれでいいのだが。
それともう一つ。
俺が会った『月ちゃん』は、俺の脆い記憶が確かなら、瞳の色は黒かった気がする。
今の凛堂のような綺麗な碧眼ではなかったはずだ。
それに名前も違うではないか、なんだよEvansって。某音楽ゲームのボス曲じゃあるまいし。
しかしながら、それらの疑問は全て繋がっていた。
「マスターは、私にとって全て。マスターと居ると本当に全部が大丈夫になった。他の子からもいじめられなくなった。全部、大丈夫になった」
それはきっと俺のお陰ではないと思う。
……幼いながら赤マントでマスターを名乗る痛めな俺が近くに居て近寄りがたかった為、そもそものからかいやいじめが発生しなくなった可能性もあるけど。
「でもしばらくして、両親が離婚することになった。母親に引き取られる形で、引っ越しをするにあたって幼稚園も転園になった。ちゃんとマスターに挨拶できなかった。最後に『忘れないでね』って英語であいさつしたけど、マスターは分かってなかったと思う」
そうだ。思い出した。
そして何故今まで思い出せなかったかも分かった。
当時、一方的に仲が良いと思いよく遊んでいた『月ちゃん』が、ある時突然俺によく分からない言葉を喋った日を境に、幼稚園に来なくなった。
それが当時の俺は悲しくてしょうがなかった。
もしかしたら俺がマスターなんていう子供染みた事を演じ続けたことに嫌気がさしてしまったのか。
それとも助手などと呼ばれることが嫌になったのか。
当時の俺は限りなく大きなショックを受け、それ以降『マスター』だの『助手』だの、バカみたいな事を言うのはやめにした。
マントを捨てて、何かを演じるのも辞めた。もう親しい誰かが居なくなる悲しい思いはしたくなかった。
そして――俺は嫌なことは忘れようと努力をした。
人間の脳は、精神的健康の為に嫌な記憶というものを忘れるようにできているらしい。
それは人間自身の防衛本能でもあり、場合によっては嫌悪記憶は意図的な忘却も鍛錬により可能になるらしい。
まあこれも
俺はこの意図的忘却をいつの間にかマスターしていたらしい。
それこそ、全く思い出せなくなっていたくらいには。
それからだな。
俺がこうしてニヒリスティックになったのは。
「母親に引き取られて、苗字も凛堂に変わった。違う土地で生活することになったけど、二の足は踏みたくなかったから髪の毛を黒く染めるようになった。一生懸命日本語も勉強した。これでしばらくは何も起こらなかった。でも小学校に上がってしばらくして、変化があった」
「変化?」
「そう。私の目の色」
凛堂は目を閉じたままそう言った。
「歳を重ねるにつれて、目の色が変わっていった。加齢による虹彩の色の変化は、日本ではほぼ聞かないけれど、イギリスではよくある事」
「……そうなの?」
聞いた事はない。
が事実、凛堂は確かに目が青い。
「そうなったら……同じことが起きた」
「同じこと……」
「そう。目の青い子なんて、格好の餌食」
いじめ……か。
凛堂は体育座りの膝に顎を乗せて、砂浜を見つめるようにして再び口を開いた。
「髪を黒くしても、日本語を勉強しても意味がない。私に『大丈夫』と言ってくれるマスターももういない。だから私は、目を隠すしかなかった」
「でも、今はもう周りも高校生や大人だろう? 流石に大丈夫なんじゃ」
「……分からない。あの時、先生にも相談したけど……先生も私の目を見て言った。『それはしょうがない』って」
は? 何だよその先生、正気か?
あのあんぽんたん霜平ですら、根は凛堂を心配する人なんだぞ。
「母親も私の目を見てすごく嫌な顔をする。きっと、父親の目と似ているからだと思う。壮絶な別れ方をしたって、兄から聞いた」
そうか。
愛されるべき親に、ましてや半分になってしまった親にすら嫌悪を向けられ、いじめの標的にすらなってしまった碧眼。
見せられなくなってしまうのも無理はないかもしれない。
「だから私は…………目を開けるのが、怖い。人前だと、目蓋が鉛のように重くなる。どうしても嫌な記憶が蘇る」
凛堂はいつもの口調のまま、砂浜を見つめたまま、閉じた目から静かに雫を垂らした。
「そうか……」
でも俺は知っている。
目を開けた凛堂が、驚く程綺麗な女の子であることを。それこそ見蕩れ、恋愛マスターなどという悲しい役職を続けることになる生返事をしてしまうくらいには。
「話してくれてありがとう。そうだな……」
姉貴よ。
専門知識をたくさんありがとう。
でもやっぱり使うことにはならなそうだ。
「持続エクスボージャー療法」も「認知処理療法」も「眼球運動脱感作療法」も必要ない。
というよりは俺にはそれを駆使できる自信がない。
となれば俺にできる事はこれしかない。
「凛堂、提案があるんだが」
「何」
凛堂は砂の付いた手で頬にできた涙の跡を拭いた。
水分に張り付くように、砂が凛堂の頬に残る。
「俺の助手になってくれ」
「?」
凛堂は眉を
「もうなってる」
「いや、そうなんだけどさ……」
こういうのガラではないし、やめたはずなんだけど。
まあたまにはいいよな。
俺は着ていた赤いティーシャツを脱ぎ、上半身裸になった。
若干身を引き気味の凛堂に見せつけるように、ティーシャツを背中にかけ、首の前で袖部分を結んだ。
――そう、まるでマントのように。
「何してるの?」
僅かに耳を赤くした凛堂が首を傾げて、俺は恥ずかしくなるのを誤魔化すように空咳をしてから立ち上がり、腰に手を当ててこう言った。
「今日からお前は助手だ。マスターについて来い! そうすれば大丈夫。全てが上手くいくのだ! はははは!」
「…………」
……。
あの、リアクションないとかなり恥ずかしいんですが。
「それって……」
「……ああ」
俺は赤マント状態のまま、口が半開きの凛堂の隣に座った。
今俺、世界一格好悪い高校生の自信があるね。
「俺は恋愛マスターなんだろ? 凛堂は俺の助手なんだろ?」
「……うん」
「そうしたら大丈夫、全てが上手くいく、そうだろ?」
「……う……ん」
嫌な記憶ってのは忘れられるんだ、凛堂。
人間はそういう風にできている。俺がその証拠だ。
「だから、心配することはない。怖ければゆっくりでいいから」
俺は凛堂の頬に着く砂を、指で優しく払った。
「…………わかった」
凛堂はゆっくりと目を開けて、涙の溜まるその瞳をしっかと俺に向けた。
やっぱり本当に綺麗な青い目だった。
「マスター、一つ訊いても良い?」
「何?」
「Are you my master?」
「えと、……い、イエス、アイアム。……合ってるか?」
「……発音が下手」
そう言って凛堂は目を細めて、目尻から顎に向けて涙が走った。
恋愛マスターでもなんでもやってやる、なんて考えてしまう俺はもしかしたら安直の権化なのかもしれないな。
友達でもなければましてや恋人でもなく、仲が良いのかも分からない謎の関係の女の子だけれど、まあそれでもいいかと思えた。
こうして笑ってくれるなら。
ん。
……待てよ?
「なあ凛堂、前に眼科に行ってなかった」
「……それが?」
「いや、てっきり俺はそれが何か目を閉じているのに関係あるのかなって」
「関係ない。ただのドライアイ」
「……」
――紛らわしいわ!!
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