織田裕樹
義人からの連絡
俺は今、会社近くの居酒屋で幸田さんと飲みに来ている。
実は今日、製薬会社から記憶喪失の治療薬が届くと連絡が入っていた。本来は歓迎すべき事なのだが、俺は素直に喜べなかった。友里の記憶が戻る事で、俺達は本当に離婚へ向かうかも知れないと思うと怖かったのだ。せっかく定時で仕事が終わったのに、真っ直ぐ家に帰りたくなく、偶然仕事で俺の会社に来ていた幸田さんを誘ったのだ。
友里との離婚を恐れているのに、女性と二人っきりで飲みに来る。矛盾した行為だが、この娘と一緒に居ると不思議と心が安らぐ。ただ、現実から逃げているだけだとは分かっているのだが。
俺は少しブルーな気分になり、ため息を吐いた。
「どうしたんですか? 少しお疲れですか?」
幸田さんが心配そうに俺の顔を見る。
「ああ、悪い。こちらから誘ったのに、ため息とは失礼したね」
「いいえ、それは良いんですが、なんだか疲れているように見えます……」
「疲れているか……ちょっと家庭の問題でいろいろあるからな……」
「奥さん記憶を失っているんですよね……」
俺は無言で頷いた。
「そう言えば今日、記憶喪失の治療薬が届いたと、夫から連絡がありました」
「君もか。俺の方も配送されたと連絡があったよ」
薬が送られて来る事を、俺は友里に伝えてはいない。気が重くて連絡していないのだ。
「早く帰って、奥さんの記憶を取り戻さなくて良いんですか?」
「いや、妻から今日は残業で遅くなると連絡があったんだよ。だから、俺だけが帰っても仕方ないのさ。君の方はどうなんだい? 帰らなくて良いのか?」
「うちも夫は仕事で遅くなるそうです。まあ、時間に関係なく、今日、夫のアパートに行くかは決めていませんけど……」
そう言って幸田さんは寂しそうに笑った。
「記憶を取り戻したくないのかい?」
彼女は俺の質問にすぐ答えず、ウーロン茶のグラスを口に運ぶ。
「……何を迷っているんでしょうね、私は……」
「いきなり三年間の記憶が戻るのって、怖い気持ちなのかも知れないな」
友里はどう思っているんだろうか……。
「決めました。私、今日夫の元に帰ります」
幸田さんは吹っ切れたような笑顔を浮かべた。
「そう、怖かったんですよ。義人は幸せだったと言ってましたけど、本当に好きな人じゃない義人と結婚して、私は妥協して生活していたんじゃないかって。でも、知るのを怖がってちゃ前に進みませんよね。だから薬を飲みます。記憶を取り戻します」
「そうだな。その方が良い」
そうだ、結局はそうするしかない。記憶を取り戻さないと前に進まないからな。もしそれで離婚する事になったとしても、今の中途半端な状態より良い。昨日の言い争いを考えると、このままズルズル引き延ばしたとしても、俺達は破局を迎えるだろう。なら、前に進まないと。
「もし、妥協で結婚生活を送っていたのが分かったらどうするの?」
「その時は……その時は離婚します。義人にとってはいきなりで申し訳ないけど」
「君は強いな。でも、本当に幸せな生活を送っていた可能性もあるしな。案外、案ずるより産むが易しかも知れない」
「そうですね。義人も幸せだったって言ってましたから。情熱的なプロポーズで気持ちが動いて、結婚する気になったのかも知れませんしね」
「情熱的なプロポーズか……あっ!」
そうだ、そうだったんだ……。もしかして友里は……。
俺はプロポーズと言う言葉で、大変な事実を思い出した。
「どうしたんですか?」
幸田さんが俺にそう尋ねた瞬間、彼女のスマホの呼び出し音が鳴る。
「すみません、義人から電話です」
彼女はそう言って、電話に出た。
「はい……えっ? 嘘っ、愛佳ちゃんが……浩司君には? うん……わかった。私からも連絡してみるわ」
途中から深刻そうな表情で話し出し、彼女は通話を終えた。
「どうかしたの?」
「愛佳ちゃんが行方不明なんです」
幸田さんは連絡を取ろうとしているのか、スマホを操作しながらそう話す。
「愛佳ちゃんって、津川の嫁さんの?」
「既読にならない……」
幸田さんの表情が深刻さを増す。
「そうです。自殺をほのめかす書置きを残して、義人のアパートから出て行ったみたいで……義人も既読にならず、行方が分からないんです」
そう言い終えると、今度は電話を掛けだしたが、しばらくすると諦めたようにスマホを耳から離した。彼女はすぐにまた電話を掛ける。
「私も既読にならないし、電話にも出ないわ。浩司君の方はどうだった? えっ? まだ連絡してない? どうしてよ? 連絡しなさいよ!」
幸田さんは強い口調で言い放つと、通話を終えた。恐らく相手は義人なのだろう。
「すみません、こんな事になって……」
「いや、君が悪いんじゃ無いから、気にしなくて良いよ。で、連絡は付かないの?」
「ええ……あとは浩司君しか……私からも浩司君に聞いてみます」
そう言って、彼女はスマホを操作しだした。
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