気付いた友里
責任云々は別にして、結局、書類の修正は私がする事になってしまった。上司と部下という立場上、命令されれば仕方ない。
「通常業務は僕がやりますよ。友里さんはそちらの方に専念してもらって大丈夫です」
「ありがとう。本当に助かるわ」
盆休み前で、通常業務も詰まっている。自分の分でも大変なのに津川君は笑顔でそう言ってくれた。
休憩もろくに取らずに頑張ったお陰で、定時内に二枚の修正は完了した。しかし後一枚残っている。三枚目はフォーマットの変更もあり、厄介だ。記憶を失くす前の私なら出来たのかも知れないが、今の私には荷が重すぎる。
終業時間のブザーがフロアに響き渡る。今日は終電も覚悟しなきゃ。
「あの、僕も残業して手伝いますよ」
終業のブザーが鳴っても、パソコンとにらめっこしている私に、津川君が声を掛けてくれた。彼も今日は休憩なしで勤務していたのに。
「本当に? 助かるけど、迷惑じゃないの?」
「迷惑だなんて、当然ですよ」
地獄に仏とはこの事だ。追い詰められていたので、本当にありがたい言葉だった。
「おい、津川」
私達二人の間に、高宮課長が割って入ってきた。
「この仕事は織田に指示したんだ。お前は余計な手助けするな」
「余計なって、このままじゃ終わりませんよ」
「おい、織田が俺に、このフォーマットじゃ使えないって言ったんだろ? じゃあ、上手く使える方法も分かっている筈だろ」
「いや、それは友里さんが記憶を失う前の事じゃないですか」
もちろん、課長もそんな事百も承知で言っている。仕事的には、津川君の助けを得た方が絶対に良いのだが、課長は感情的になり、私達に嫌がらせしているのだ。高宮課長がそういう人間だと記憶を失った私も知っている。
「お前の残業は認めん。人件費負担も考えろ」
「サービス残業でも構いません」
「今のご時世でそんな事やったら、会社がとぶぞ」
少しの残業を認めたところで影響など無いのだが、課長は難癖を付けて嫌がらせを続けるつもりだ。
「津川君ありがとう。大丈夫、私一人でなんとかするから」
なんとか出来る自信も無かったが、これ以上津川君を課長の矢面に立たせる訳にはいかない。
「織田もこう言っているんだ、お前は帰れ」
津川君は不満そうな表情を隠しもせず「分かりました」と言って、帰って行った。朝の抗議と言い、今のやり取りと言い、温和な津川君とは思えないくらい毅然としていた。
午後七時、もう残っている社員も少なくなってきた。この時間でもまだ苦戦している。残るは一枚だが、これは時間を掛ければ出来るという物でもない。とにかく記憶を失う前に私が作っていた資料の中からヒントを見つけ出すしかない。今日中に出来るのか? 終電どころか徹夜になるかも知れないな。
「お疲れ様です」
パソコンとにらめっこしている私のデスクに、良い香りの湯気が立つカップコーヒーが置かれた。
「津川君」
視線を声の方に移すと、自分の分のコーヒーを手に持つ津川君が、笑顔で立っていた。
「遅くなってすみません。課長が帰るのを待っていたんで」
「帰ってなかったんだ」
「この三枚目は、当時、怒った友里さんから話を聞いていたので、力になれると思います」
目の前の津川君からは、初めて会った時のひ弱な青年のイメーを感じなかった。私は初対面の印象で、目が曇っていたんだ。
「ありがとう。記憶を失う前の私に、津川君のような頼もしい後輩がいたのはラッキーだわ」
「えっ、いや……ありがとうございます。嬉しいです」
顔を赤くして照れる津川君を見て、私は大学生時代の事を思い出した。
大学時代、ゼミの課題レポートを提出したら、教授から盗作を指摘された。他の学生のレポートをほぼ丸写ししたと疑われたのだ。全く身に覚えが無かったので、否定したが、相手は教授のお気に入りの学生で信頼も厚く、私の方が疑われたのだ。
その時、まだ友達程度の間柄だった裕君が、立ち上がってくれた。教授に抗議し、どちらが盗作したのか公開の質問会を開いてくれと訴えたのだ。
結局、教授も裕君の抗議の勢いに折れ、レポートの関連内容の質問会を開いてくれた。私はレポート作成時に関連資料を調べていたので、苦も無く答えられたが、盗作していた相手はそうもいかない。結果はあっさり私に軍配が上がった。
「君は盗作を疑われた時にしっかりと否定したから。こういう事で嘘を言う人には見えない。だからちゃんとした決着を着けるべきだと思ったんだよ」
私が、どうして助けてくれたの? と質問した時の裕君の答えだ。
そんな裕君の真っ直ぐさが好きになり、私達は付き合いだし、やがて結婚するに至った。今でも裕君の事を尊敬しているし、愛情も変わらず持っている。
津川君の真っ直ぐな気持ちが、裕君との出会いを思い出させたのだ。
私はハッと気づいた。
どうして今まで、その可能性を考えなかったんだろう。自分でも不思議に感じる。
私の不倫相手は、津川君だ。
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