幸田瑠美

戻らない瑠美

 記憶を失くしてから、二週間目に入った。まだ私は義人のアパートには帰らず、実家で暮らしている。


 私は義人に連絡すら取っていない。義人が悪い訳じゃないのは分かっているけど、自分の気持ちの整理が付かないのだ。とにかく記憶が戻るまでは何も動かず、このまま過ごしていたい。


 仕事は何とかこなせてはいたが、全て織田さんのお陰だ。バイヤーへのプレゼンが終わった後も、私は何かと織田さんに連絡しては、仕事のサポートをしてもらっていた。正直甘えていると思うが、なりふり構っていられない程ピンチの連続だったのだ。織田さんはそんな私に、見返りを求めずアドバイスしてくれている。感謝しきれない気持ちだ。


 記憶を失くしてから二回目の週末。私は一回目と同じく、実家で仕事の勉強をしている。今は少しでも空いた時間があれば勉強する必要があった。



 土曜の午後、浩司君からラインが入った。


(こんにちは。浩司です。お願いがあるんだけど良いかな)


 ラインとは思えない程、相手を気遣いすぎる浩司君らしいメッセージだ。


(こんにちは。用件聞かないと、良いか悪いか分からないよ)

(実は今日の夜、僕と一緒に義人の家に行って欲しいんだ)

(どうして?)

(愛佳がまだ戻って来ていないんだ。瑠美が義人のところに戻れば、愛佳も諦めて僕のところに戻ってくると思う。今日は義人も家にいるらしいから、一緒に行って欲しいんだ)

(それって、義人の家に行くだけじゃなく、私に戻れって事じゃない)

(そうなんだ。瑠美もそろそろ義人の家に戻りたいだろ? ちょうど良いチャンスだと思うんだ)


 私の気持ちなど全然理解していない、浩司君に腹が立った。


(私はまだ義人の家に戻る気は無いよ。記憶が戻ったら、その時に判断しようと思っているの)

(記憶が戻るまでって、いつになるか分からないじゃないか。そんな時まで愛佳が義人のところに居るなんて耐えられないよ)

(そんな事私は知らないよ。だいたい、他所の男のところに行ったまま帰らない奥さんなんて捨ててやれば良いじゃない。そうやって甘やかすから付けあがるのよ)

(そんな事言わないでくれよ。ああ見えても、愛佳にも良いところは一杯あるんだ。別れたくないんだよ)


 分かっているとは言え、浩司君は本当に愛佳ちゃんを愛している。私が何か言っても全く届かない。


(分かった。一緒に行くよ。でも、義人の元に戻るかは分からないし、愛佳ちゃんを浩司君のところに戻せるか分からないよ)

(ありがとう! それで構わないよ。一緒に行ってくれれば、義人も愛佳を追いだしてくれるだろうし)


 そんな風に上手く行くとは思えなかったが、私は仕方ないと、それ以上何も言わなかった。人一倍優しくて、他人を優先しようとするのに、昔から浩司君は人の気持ちが分からない面があった。


 私達は義人の家の最寄り駅で待ち合わせして、一緒に向かう事になった。



 午後六時、駅で合流した私達は義人のアパートに向かっている。


 私も浩司君もラフな普段着。この四人で会うのに気を使う必要が無いのは二人とも分かっている。


「義人には今から行くのを言ってあるの?」

「ああ、義人には言ってある。瑠美が来ると聞いて、喜んでいたよ」


 義人は私が帰って来ると思って喜んでいるんだろうな。そう思うと気持ちが重い。まだ私は帰る気持ちの準備は出来ていないからだ。


 義人の部屋の前に着き、浩司君がインターフォンのボタンを押す。インターフォンから返事が聞こえる前に、ドアが開いて義人が顔を出した。


「おお、いらっしゃい。入ってくれよ」


 義人は前にいる浩司君にそう呼び掛け、次に後ろの私を見て笑顔になる。


「ありがとう。帰ってきてくれて、嬉しいよ」


 心配していた事が的中した。義人は私が帰って来たと思っているようだ。


「あの、私……」

「さあ、愛佳も居るよ。中に入れよ」


 私の言葉を遮り、義人が中に入るように勧める。今ここで言っても仕方ないかと、私は浩司君に続いて中に入った。


「あれ? 浩司君と瑠美ちゃん、どうしてここに来たの?」

「どうしてって事があるかよ。ここは瑠美の家だし、浩司はお前を迎えに来たんだよ」


 リビングに居た愛佳ちゃんが私と浩司君を見て驚いた。どうやら彼女は、私達の訪問を知らされていなかったようだ。


「そうだよ。こうして瑠美も帰ってきたんだから、愛佳も家に帰ってきておいでよ」

「そんなの聞いて無いよ。元々私はここに住んで居たんだから、浩司君の家に帰るなんて嫌だよ」


 浩司君の言葉を聞き、愛佳ちゃんは不機嫌になりごねだした。こうなると彼女の気持ちを変えるのは簡単ではないと私達三人は知っている。


「お前は記憶を失くして忘れてるけど、もうここからは出て行って、今は浩司と結婚して一緒に暮らしているんだよ」

「嫌っ! 私はずっと義人君と暮らしていたんだから、ここが私の家なの」

「ここは義人と瑠美の家なんだよ。二人は結婚してて、ここで暮らしているんだ」


 そうやって、二人が理屈で攻めても、愛佳ちゃんは納得しないだろう。私は説得に加わらず、横にいて冷めた目で見ていた。


「瑠美が帰って来たんだから、俺は瑠美と一緒に住む。だから愛佳は浩司のところに帰れよ」

「ちょ、ちょっと待ってよ」


 私は慌てて、愛佳ちゃんを説得する義人を止めた。


「なんだよ」

「誤解しているようなので言っておくけど、私はここに帰って来た訳じゃないの」

「ええっ?」

「浩司君が愛佳ちゃんを連れ戻しに行くから一緒に来て欲しいと言われて、付いてきただけなのよ」


 私がそう言うと義人は驚いて、気まずそうな顔をしている浩司君を見る。やはり、その辺の事情が上手く義人に伝わっていなかったようだ。


「なんでだよ。俺達結婚してるんだぜ。戻って来るのが当たり前だろ」

「ごめん。義人の言う事が正しいのは分かってる。でも、気持ちが付いて行かないの。記憶が戻ってから判断したいの」

「記憶が戻ってって、そんなの、何時になるか分からないじゃないか」


 そう言われると、返す言葉が無い

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