幸田瑠美
意外な出会い
朝、目覚めるとそこは、住み慣れた実家の私の部屋だった。ベッドや学生時代から使っている机、小さな置物まで、全て私の記憶にある物で落ち着いた気分になる。
昨日義人の部屋を出た後、私は実家に帰っていた。休日で家に居た両親に驚かれたが、三年間の記憶を失った事と義人と喧嘩した事を話すと、詳しい事は聞かれずに受け入れてくれた。特に父は「もう二度と戻らんでいい」と喜んでさえいる。
「おはよう」
二階の部屋から一階のダイニングに降りると、母が朝食の用意をしていた。
「ああ、おはよう。もう起きたの、早いのね」
母は私の顔を見て、少し驚く。
「平日はこの時間でしょ」
「えっ、もしかして会社に行くの?」
「そりゃそうよ。会社は変わっていないし、休んでられないわ」
私は大手生活用品メーカー「月王」の代理店に勤めている。社員二十名程の、規模の小さいブラックな会社だ。大学を卒業して務めた会社は、人間関係に悩みすぐに退職していた。転職して入った今の会社は、中身はブラックだが人間関係は良好で働きやすい。記憶を失っても続けたいと思っている。
父も起きてきて私を見ると、しばらく会社は休めと言う。相変わらず一人娘の私に甘い両親だ。でも、こんな事になった今は、守ってくれる存在が嬉しく頼もしい。
少し様子の変わった通勤経路に驚き新鮮な気分を味わいながらも、少しも変わっていない雑居ビルの中にある自分の会社に安堵する。
出社するとすぐ、総務課長に記憶を失った事を報告した。とりあえず直属の上司に指示を仰げとの事だった。
昨日のうちに仲が良い会社の同僚に連絡して情報は仕入れている。部署の変更も無く、私の仕事内容は変わっていない。もっとも会社自体も、退社した数名の分新しい人が入ったのみであまり変化は無いらしい。
「ええっ……」
記憶を失った事を報告すると上司は絶句した。
「いや、ホントか? 記憶を失ったってお前……まいったな……」
上司は困惑した顔で呟いた。予想していたけど、未だに人員的に不足しているようだ。
「すみません」
「いや、お前の所為じゃ無いからな、仕方ないよ……でも、今日から販売店のバイヤー向けの、プレゼンに行って貰う事になってるんだよ。今日の午後から始まって、三日間な」
「大丈夫です。私、行きます」
「でも、新製品だぞ。三年間の記憶が無ければ商品説明も出来ないだろう」
「現地に移動する間にカタログ読みます」
「そんな泥縄じゃなあ……かと言って、代わりの人間も居ないしな……まあ、「月王」の営業が来てくれる予定にはなっているからな……詳しい説明はなんとかしてもらうか」
上司との話し合いが終わると、私は資料を用意して現地に向かった。
私が車で「月王」の本社に出向き、担当営業とプレゼン資料を乗せ、ドラッグストアやスーパーなど数社の本部を回り、バイヤー相手に新製品のプレゼンを行う予定になっている。
予定の時間に「月王」本社に着き、一階の受付で用件を話し、ロビーで担当者を待っていた。ロビーで来客用の椅子に座り、今回プレゼンする新商品のカタログに目を通す。ここに来る途中も信号待ちで読んではいたが、全然頭に入ってこなかった。詳しい説明は月王の担当者に任せれば良いが、会の進行は私の仕事だ。万が一にも商品名を間違えでもしたらシャレにならないし、スペック程度は暗記しておきたい。私はここぞとばかり、集中してカタログを読み続けた。
「……商事の幸田さんですか?」
集中していた私に、誰かが呼び掛けているような気がしたが、名前が違うので顔を上げなかった。
「幸田さんじゃないですか?」
今度はハッキリと私に向かって問い掛けているようなので顔を上げた。
「あっ、あなたは!」
三十歳くらいのスポーツマンっぽい男性が私を見て驚いていた。
「ああっ! あなたは昨日、浩司君と一緒に来た人……」
私も男性が誰だか思い出した。
「織田です。あなた、幸田さんですよね? たしか、幸田義人の奥さんで幸田瑠美さん」
そうだ。今は義人と結婚しているから、幸田姓を名乗っているんだった。
「あ、はい、そうです。幸田瑠美です」
私は慌てて名刺を取り出し、織田さんに差し出す。彼もそれを見て名刺を取り出し、私達は名刺交換をした。
彼の名刺の肩書は「営業第一部、第二課主任」となっている。
「しかし、偶然ですね。また今日仕事で会うとは思ってもいませんでした」
今日の織田さんは仕事モードなのか、言葉遣いが丁寧だ。
「本当に驚きました。でも、どうして織田さんがここに? 松山さんという女性の方とお聞きしていましたが」
「それがね、松山は例の薬害で記憶を失ってしまったんです。だから、急遽今回は私が同行する事になりました」
「ええっ? 松山さんも記憶を失ってしまったんですか?」
「ええ、そうなんです。でも、『も』と言う事は幸田さんの会社でも居るんですか?」
「あ、あの、実は……私も記憶を失ってしまったんです」
「ええっ? 記憶を失ったのに、出てきたんですか?」
「すみません。ご迷惑はお掛けしないようにしますので、目を瞑っていただけませんでしょうか」
織田さんの呆れたような驚き方を見て、私は恐縮してしまった。まあ、代役を立ててきた向こうからすれば当然の反応だろう。
「とりあえず、時間が無い。用意して出発しましょう。話は車の中で」
織田さんの言葉に従い、私達は資料を車に乗せ、会社を出発した。
「すみません。うちの会社は人手不足で代わりの人を出せなかったんです。でも、ご迷惑はお掛けしないように頑張ります」
私は車に乗るなり、織田さんに謝った。
「今日のプレゼンは私が全て行います。幸田さんは機器の設置や資料の配布などアシスタントに徹して貰えませんか」
「あの、それじゃあ、申し訳なくて……」
「プレゼンの形式にルールなんて無いんだから気にしなくて良いよ。バイヤーの方達に気に入って貰うのが一番の目的なんだから。私達はチームなんだから、遠慮も無しで」
私の気持ちを和らげようと思ったのか、織田さんは砕けた言い方だが、口調は柔らかで温かく話してくれた。
「ありがとうございます!」
私は運転しながら頭を下げた。正直、不安一杯だったので、安心して涙が出そうだった。
「今日は直帰するの?」
「あ、はい、その予定です」
「昨日のアパートに帰るの?」
「いえ、今日は実家から来ていますので、また実家に帰ります」
「じゃあ、食事に付き合ってくれない?」
「えっ……」
感謝の気持ちがいっぺんに冷めてしまった。これが目的だったんだろうか。
「三年間の商品の記憶が無ければ、これから仕事に困るだろ? 今日、明日、明後日と食事しながら商品の説明するよ。特約店の営業には頑張ってもらわないといけないからな」
「あ、ありがとうございます!」
私は下心を邪推した自分を恥じた。教えてもらえるなら、今後の仕事が楽になるだろう。
「でも、良いんですか? 家で夕飯食べなくて」
私がそう聞くと、織田さんは小さくため息を吐いて「今はその方が良いんだよ」と呟いた。私は意味が分からなかったが、深くは追及しなかった。
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