三年前も愛してる
滝田タイシン
織田裕樹
愛する妻、友里の不倫
織田祐樹
「もう終わりね。別れましょう」
友里(ゆり)は何の感情も籠らない声で、俺にそう言う。結婚して五年目、俺達夫婦は初めて離婚の危機を迎えていた。
俺達は自宅マンションのダイニングテーブルで向かい合って話し合いをしている。テーブルの上の新婚旅行で買ったお揃いのマグカップには、どちらにもたっぷりとコーヒーが残っているが、すでに冷めきっていた。
「その言葉の前に何か言う事はないのか?」
俺は怒鳴りたい気持ちを押し殺し、出来るだけ落ち着いた声でそう言った。だが、友里は俺の配慮もお構いなしで、「何かってなに?」と顔色一つ変えずにそう返してくる。
「浮気しておいて、ごめんなさいの一言も無いのか? 罪悪感はないのかよ。他にも言い訳ぐらいはあるだろ」
抑えるつもりでも段々俺の声が荒立ってくる。話し合いを始めて三十分は経つが、浮気の経緯が分かっただけで、その間、友里からは謝罪も言い訳も、その理由すらも一切言及が無い。
話し合いとは名ばかりで、俺が一方的に浮気の証拠を示し問い掛けるのに対して、友里は「はい」「いいえ」で返答するのみだった。そして初めて出た言葉が別れましょうでは、はいそうですかと納得出来るものでは無い。
「私の謝罪や言い訳に何か意味があるの? 私は許しを求めていないし、あなたが提示した証拠は全て認めているわ。後は離婚の話し合いをするだけでしょ? 共有財産で慰謝料を相殺してくれるなら、今すぐにでも荷物を纏めて出て行くわ」
こんな冷たい表情が出来る女だったのかと友里の顔を見て驚いた。
誰からも中性的な美人と言われる友里は、黙っていればクールビューティーと言う言葉通り、冷たい印象を持たれるかも知れない。でも俺と居る時の友里は、あどけない表情で笑ったり、ドジな面があったり、子供っぽさを感じさせる可愛い女だった。目の前の女は本当に俺が愛した友里なんだろうか。結婚して五年経つが俺達はいつも笑顔で過ごしていたのに……。
そう考えていて、ふっと最後に友里の笑顔を見たのは何時だったか覚えていない事に気が付いた。
新婚当初の俺達は本当に仲が良かった。お互い仕事をしているが、休みには一緒に出掛けたり、十分にコミュニケーションが取れていた。それが変わったのは二年ぐらい前か。俺が出世を意識しだし、仕事が忙しくなってきた頃だ。毎晩帰宅が遅くなり、休日出勤も増えた。休みも疲れを取るだけで、夫婦で過ごす時間など無い。それが今も続いている。
それでも友里は俺を支えてくれていた。自分も正社員なのに家事の全てを引き受け、おまけに俺の体調まで気遣って。俺はそれに感謝する余裕すらなく、前だけを向いて走り続けている。
そう言えば、最近は体の調子を聞かれる事も無かった。もしかして、友里はずっと前から俺の前でこんな冷たい表情をしていたんじゃないか……。
俺がそんな風に考え続けている間も、友里は冷たい目をして黙っている。
思えば今回浮気が発覚したのも俺が友里の変化に気付いたからじゃない。深夜に帰宅すると、男との体の関係を思わせるやり取りが表示されている、友里のスマホがテーブルの上に置かれていたのだ。ロックもスリープ機能も使わず、ラインの画面のままの状態で、読めと言わんばかりにだ。
俺はスマホを持って自分の部屋に行き、全てをチェックした。男と友里の関係は三回あった。その行為の誘いは全て男の方からだったが、友里も拒否はしなかったようだ。むしろ最初の行為のきっかけとなった二人だけの飲み会は、友里の方から相談したい事があると誘っていたのだ。男の方から見れば浮気も友里から誘った、と言われても仕方ない状況だった。
浮気の証拠が全て残っているスマホを無造作に置いている。それから考えても、もう友里は俺との夫婦生活を終わらせたいのだろう。でも、俺には何とか修復したい気持ちが残っている。まだ友里を愛しているのだ。
ずっと冷たい目で俺を見続ける友里。彼女が何を考えているのか、今の俺には全く分からない。すぐ目の前にいるのに気が遠くなるほど友里との距離を感じた。
謝らないといけないのは俺の方なのか? 友里が黙っているのはそれを待っているからなのか? 確かに俺にも悪いところはあった。でも、だからと言って浮気をしても良いものなのか? いや、やはり友里から謝るべきだ。友里が本気で謝ってくれれば、まだ俺達は夫婦を続けていけるのに……。
俺がずっと考え続けているので、二人の間に重苦しい沈黙が流れ続けた。
「ねえ、早く離婚の条件を話し合わない?」
長い沈黙に耐えかねて友里が口を開いた。もう離婚が決定事項のように話す友里を見て悲しい気持ちになった。
「そいつの事が好きなのか?」
俺がそう質問すると、友里は少し驚いたような顔をした後に小さくため息を吐いた。
「どっちだと思う?」
「馬鹿にしてるのか? 分からないから聞いているんだろ」
「好きに思ってくれて良いわ」
話にならない。離婚するしかないのか。だとしても友里の気持ちは聞いておきたい。何も分からないまま別れられる程、浅い関係ではない。
「もし離婚したら、そいつと付き合うのか?」
「いや、それは無いわ。相手も結婚しているし、もう関係は終わらせるつもりよ」
「じゃあ、なんで浮気したんだ」
俺は友里の投げやりな態度にイラついた。
「なぜ私が浮気したのか? 本当に思い当たる事は無いの? いや、無いのよね。こんな事聞いてくるくらいだから」
「俺が仕事ばかりしていたから浮気したと言いたいのか?」
友里は俺の返事を聞き、またため息を吐いた。
「やっぱり分かってない。あなたが理由を分かっていないから、私は離婚しようと言っているの」
友里の言葉にも棘が混ざってくる。
「何なんだよ、俺の所為だって言いたいんだろ? 理由なんて知るかよ。どうせ俺が悪いから浮気したんだろ」
「そんな事言ってない。私が悪いから、相手の分も含めて私が慰謝料を払うし、離婚しようと言ってるでしょ。あなたが悪いなんて言ってないわ」
「言ったのと同じだろ!」
友里は困ったなと言いたそうに、三度目のため息を吐いた。
「私の髪がいつから短くなったか知ってる?」
俺はそう聞かれてハッとした。昔の友里は長い黒髪をしていた。今は肩に掛からない程度の短さになっている。
結婚した時には長かった。それは良く憶えている。このマンションを買ったのが三年と少し前。その時も長かった。だからそれ以降だと言う事は分かるが、正確な時期は記憶に無い。
「もう良いでしょ。罵り合いながら別れたくは無いわ。馬鹿な浮気女をあなたが捨てる。それで良いじゃない」
投げやりな友里の言葉に、俺は何も言えなかったが、凄く悲しい気持ちになった。
と、その時、友里のスマホの呼び出し音が鳴る。
「はい、どうしたの? 電話なんて珍しいね」
友里が電話を取って話し出す。その口振りから知り合いのようだった。
「えっ? うん、使ってるよ。あなたが勧めてくれたんじゃない。ええっ、何がヤバイの?」
友里は電話をしながら、慌てた様子でリビングに行き、リモコンでテレビのスイッチを入れた。
テレビでは何やらアナウンサーが慌てた様子で話をしている。臨時ニュースのようだ。
「うん、やってる。観終わったら電話する」
友里は電話を切ってリビングのソファに座る。
「おい、どうしたんだ? 何かあったのか?」
事情が分からず、俺もリビングに入って訊ねる。
「ごめん、ちょっとこれを見終わってから説明するわ」
友里にそう言われて、俺は仕方なくソファの横に立ってテレビを観た。
『繰り返しになりますが、美容サプリ『スキンクリア』を購入された方は直ちに使用をお止めください。この製品は重大な副作用が判明しました』
テレビでは男性アナウンサーが深刻な表情で原稿を読み上げている。急に用意したような簡易なセットで、緊急速報ニュースらしい。
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