第7話 胸を突く衝動、塔の上にて。
王子の目が完全に覚めたのは翌朝のこと。身支度を終えて部屋を出ると、王子が白いシャツと黒いズボンという簡素な服装でソファに座り、書類を手にしていた。
「ジュディット、おはよう。昨日は眠ったままでごめん」
「おはようございます。私に謝罪の必要はありません」
王子が眠り続けていたのも、すべては私の責任。魔術師ユベールの話によれば、魔力を使い過ぎると激しい頭痛が起きたり、耐えがたい程に眠くなることがあるらしい。
詳細は話さなかったものの転移魔法でここから王城まで二往復したと言っただけで、ユベールは王子の魔力の強大さに唸り声を上げた。普通は往復するだけで魔力が枯渇しても不思議はない。その魔力を吸いつくすことができる魔具を作ると張り切って帰って行った。
「朝食は書類を確認するまで待ってもらえないかな」
「はい」
勧められるままに、王子の隣へと座る。何の書類か疑問に思っても貴人に対して聞くことはできない。書類箱には手紙と思しき封筒と巻き紙、書類が数枚入っていた。
王子は素早く目を通し、書類を二つに分けた。恐らくは片方は返答しなくても良い書類、片方は返事が必要な書類だろう。
一枚の書類を取り上げ、王子が私の顔を見る。青く優しい瞳と視線が合うと、後ろめたさと申し訳なさと、よくわからない複雑な気持ちが渦巻く。
「ジュディット、休暇の後って何か予定ある?」
「ありません」
先のことは一切わからない。なるべく早く作ると言っていたユベールの魔具が、いつ完成するのかも不明な状況。
「十八日後に、ケイツ村を視察する公務が入った。本当は兄王子と妃が行く予定だったんだけど、妃の体調が良くないらしい。同行してもらえないかな」
「はい。出発はいつになりますか」
「本当は馬車で六日の行程だけど、王城の転移
「転移門……ですか?」
初めて聞く言葉に混乱する。そんな門はあっただろうかと思い返してみてもわからない。王城で十年務めていたのに、存在すら知らない。
「門は王城の最深部にある。僕も一度しか使ったことはないよ。王族しか知らない秘密の一つだ」
それなら私が見る事は絶対にない。王女の護衛をしていても王族が住む部屋の奥、最深部と呼ばれる場所は王族以外の誰も入ることはできない。噂では清掃すらも王族自身が行っていると聞いていた。
「これはガストンも知らないよ。ということで、ジュディットも王族の一員だね」
「後程、木に頭をぶつけて忘れることにします」
王家の秘密を知っているからという理由で、逃走後に捕縛されてはたまらない。
「痛そうなことはしなくていいよ」
ほわほわとした笑顔にほだされてはいけないと、背筋を伸ばす。聞いておくべきことを思い出して口を開く。
「恐れ入りますが、この先の公務の予定をお聞きしておきたいのですが」
王女が公務を完全に休むことができたのは、夏の避暑期を除くと月に二、三日。王子も似たようなものと考えれば、もう公務に復帰する予定のはず。
「ジュディットと同じ十日間の休みを取ってるよ。この休みを認めてもらうのに、三年間頑張ったからね」
さらりとした一言で、三年間休みを取っていないということを知る。……どうしてとは聞いてはいけない。一方的に向けられた好意に応える覚悟はない。
目の前で明るく微笑む王子は、これまでどれだけの見えない努力を重ねてきたのだろう。ユベールだけでなく、きっと他の人間の命も救ってきたのではないだろうか。
……アリシアが婚約者でなければよかったのに。ふとよぎった身勝手な思いに愕然とする。いくら王子が私を手に入れる為に努力していたからと言っても、アリシアを巻き込んだ時点でその努力を評価することはできない。
今後、婚約を解消されたアリシアが幸せになることは難しい。私が消えれば王子も諦めてアリシアと結婚するしかない。王子の長年の努力が無駄になるかもしれないけれど、四年間アリシアを精神的に虐げてきたことの報いでしかない。
おそらくは王子を愛しているアリシアと過ごしてみれば、きっと王子も心替わりするだろう。十年間女であることを捨てていた私より、女性らしいアリシアの方が王子妃として相応しい。
「休暇の最後の日から、王城まで視察がてら馬車での移動だ。それまではゆっくりしようよ」
「はい」
ここから王城まで馬車で五日。残り日数を確認しながら、私は作り笑顔で答えた。
◆
朝食の後、鍛冶屋に誘う王子を断り、一日休む提案を行った。ロランの作る素晴らしい武器をもっと見たいという欲求はあっても、疲労している王子を外で連れまわすことはしたくない。
「そうだ。この隠れ家の案内をしてなかったね」
微笑む王子に手を引かれ、家の中を歩いていく。入り組んだ複雑な廊下は、敵が侵入してきた時の為の備えだと理解した。
図書室の隣は男性用の遊戯室。床はざらざらとした灰色の石で覆われていて、お決まりのゲーム用テーブルはなく、むき出しの岩壁には木で出来た丸い的や、抜き身の剣、槍、戦斧、短剣と武器がいくつも掛けられている。武器を見た途端にロランの作だとわかった。
ロランの作る武器には必ずと言っていい程、植物を連想させる
戦場や実戦では使い捨てにされることの多い武器は、量産が求められるが故に個性が埋没してしまいがちな中、見ただけで誰の作かわかる武器を作り続ける心意気が素晴らしい。
「遊戯室としては使ったことがないんだ。雨の日や夜は、ここで剣術の練習をすることも出来るよ」
王子が指さした場所には、人の大きさの丸太が五本転がり、丸太を立てる為の台座も置かれている。
「あの丸太は納屋で一、二年乾燥させてある。斬った後は庭の落ち葉やゴミ焼きに使われるから、いくらでも斬っていいよ」
王子が壁に掛けられていた短剣の一つを取り、木の的へと無造作に投げる。短剣は的の中央へと刺さった。短剣の投擲は騎士団一と言われた私の対抗心がむくりと頭をもたげる。
「ジュディットに負けないように練習したんだ。ジュディットも投げてみる?」
そう言って王子は私に一本の短剣を手渡し、私は王子と同じ的へと投げた。
「やっぱり、凄いなぁ」
私が投げた短剣は王子の短剣にぴったりと寄り添うように刺さった。騎士仲間にも、いつも驚かれたことを思い出す。短剣を回転させるのではなく、まっすぐに投げる方法は騎士であった父から習った。
「ありがとうございます。これはこの短剣の素晴らしさのお陰でもあります。ロランの作でしょうか」
大人二人分しか離れていない距離で的を外すことは無い。とはいえ均整の取れた短剣でなければ、望む軌道と威力は得られない。
「そう。ここにあるのはロランが作った武器ばかりだよ。これも」
棚に近づいた王子が木箱を手に取って開くと、ロランの店で見た五本の短剣が収められていた。美しい刃を思い出し、ぐらりと心が揺れる。
「これはジュディットの為に作ってもらったから、いつでも自由に使っていいよ」
「……ありがとうございます」
すぐに使ってみるかという王子の誘いを断り、誘惑に揺れる心を隠して、私は部屋の外へと出ることができた。
◆
いくつもの部屋を案内された後、建物の端にそびえる塔へと登った。隠れ家は内部が入り組んでいるものの、おおよそ三階建て。塔の高さはその倍。
塔内部の螺旋階段の途中には狭い部屋がある。小さなのぞき窓から見た内部は、暗くて見えなかった。
「ここは昔、牢として使っていたんだって。今では物置になってるけど」
最上階へとたどり着き、尖った屋根の天井を見上げると元は鐘が設置されていたとわかった。昔の領主の屋敷なのだろうか。それにしては内部の造りが複雑すぎる。
「ジュディット、おいで」
日光を浴びて輝く王子が、笑いながら私に手を伸ばす。何故か高鳴る鼓動は、階段を上がってきたからだと自分に言い聞かせる。
手を差し出せば強く握られた。崖で助けられた頼もしさと凛々しさを思い出して、何も言えなくなる。
無言で王子の隣に並び、塔から景色を見ると港町が一望できた。大小の船が停泊し、人々が忙しく荷を運ぶ。巨大な階段状になった街に目を向ければ色とりどりの天幕のすきまから、賑やかな市場の活気が溢れる。
「ここはね、この港町が出来る前から、もしかしたらこの国ができる前からある見張り砦だったんだ。代々の王子の隠れ家の一つとして改修を重ねながら受け継がれてきた」
「……他の皆様も隠れ家をお持ちなのですか?」
王女の隠れ家は無かった。その替わり、夏になると湖のほとりの館で過ごしていた。
「ああ。王子もたまには息抜きしないと身が持たないからね。ここでは公務を忘れて、くつろげる。何より国民の生活を直接感じられる良い場所だ。王都は比較的恵まれた者が多くて整い過ぎている。ここは何も飾らない素朴な者ばかりでおもしろい」
港町を見ながら微笑む横顔に、王族の凛々しさが見えてどきりとする。国民を導く者の堂々とした風貌には、騎士として付き従いたいという衝動が胸を突く。
許されるのなら剣を携えて騎士に戻りたい。王子妃ではなく、護衛騎士としてなら王子の側にいられる気がする。
塔の最上階には、手すりはなく石の柱しかない。これなら突き落として殺せるかもしれないと思いついても、実行する勇気はでなかった。きっとまた、王子に助けられるだけ。
「明日は港町を見に行こうか。ジュディットに見せたい物が沢山あるんだ」
きらきらと輝く青い瞳には逆らえない。王子が私に見せたい物とは一体何だろうと踊る心が抑えきれない。
「はい。楽しみにしています」
戸惑いと期待と、よくわからない様々な気持ちを抱えながら、私は微笑みを返した。
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