第32話
コツコツと、微かな音が放課後の廊下に木霊する。
誰もいない冬の廊下は見た目以上に肌寒く、リノリウムの床からも冷えた硬い反響音が耳に届いた。
「…………」
ひとりで歩く夕方の廊下というのは、どうしてこうも物哀しく感じるんだろう。
外の景色が薄暗く、木の葉も散り切っているからだろうか。
あるいは校内にいつもの喧騒が消え失せ、この世界には自分しかいないと錯覚してしまいそうになるからか。
もしくはこうして一人だけでいるから、余計なことをつい考えてしまうからなのかもしれない。
隣に誰かがいたのなら、こんな考えにはきっと至らないはずだ。
事実、少し前までの僕はそうだった。
隣にはいつも美織がいて、ふたり並んで歩いていたんだ。
その時は寂しさを感じたことなんてなかったはずなのに、今の僕はどうだろうか。
寂しさもそうだけど、胸が締め付けられるような痛みがあるんだ。
この痛みは、これから起こることへの拒否感からくるものなのかもしれない。
もう美織への連絡は済んでいて、とっくに賽は投げられているというのに、まだ覚悟が決まってないのだろうか。
「情けないな…」
本当に、自分のことが情けなくて仕方なかった。
こんなんで、僕は本当に美織に向き合えるのか。
そんな弱気な考えが脳裏によぎる。
―――逃げたっていいんですよ。辛いことに立ち向かう必要なんてないんですから
同時に浮かんでくるのはあの子の言葉。
あの時僕に勇気をくれた言葉が、今度は真逆の意味を持って心の弱い部分に囁いてきた。
(そうだよね、逃げたっていいんだ)
事実、僕は逃げようとしている。
好きだったはずの彼女に別れを告げて、もう関わりたくないと逃げようとしているんだ。
だからここで引き返したって、結果はなにも変わらないだろう。
面と向かって向き合わなくても、別れることを伝える手段なんていくらでもある。
美織の顔を見ながら別れようなんて言う必要なんて―――
「あるに決まってるだろ」
傾きかけた心の天秤。
それを僕は思い切り蹴飛ばした。
ガッという硬質な音が、靴底を叩く。
「ここで逃げてどうするんだよ。好きな子に別れようっていうのに、向き合わなくてどうケリをつけるっていうんだ」
いい加減にしろよ、自分。
今逃げるのは変わりたくないとか、そういう以前の問題だろう。
この寂しさを、これからずっと抱えて生きていくのか?
今逃げ出したらこの罪悪感を、きっと一生抱えてることになるんだぞ。
なにより、一番大切に想ってた彼女を、この放課後の学校にひとり置き去りにするっていうのかよ。
「そんなのは駄目だ」
美織ならきっと僕が来るまでずっと待つ。
そんなことくらい、ずっと一緒だった僕が一番よく知っているじゃないのかよ。
美織は変わってしまった。
あの教室にいるのは、もう僕の知っている美織じゃない。
だけど、変わらない部分もあるかもしれない。
そう思うと、僕は立ち止まるわけにはいかないんだ。
「行こう」
そう呟いて、僕は目的の場所へと向かう。
帰りもひとりで歩くことになる廊下を迷わないよう、一歩づつ踏みしめながら。
「あ、コウくん」
教室に入ると、美織が既にそこにいた。
「ごめん、遅れたね。僕が呼び出したのに、ごめん」
「ううん、いいよ。嬉しかったから」
そう言うと、美織は本当に嬉しそうに笑った。
窓から夕日が差込み、彼女の端正な顔に影を落とすも、逆にそれが儚く感じられて、まるで美術の絵画のようだ。
「そっか。ありがとう」
来てくれて。そう続けると、美織はゆっくり口角をあげてはにかんだ。
顔色はよくわからない。夕日の色が強すぎて、どうにも判別がつきそうにない。
「こっちこそ。あのね、私、コウくんに話したいことがあったんだ」
美織がゆっくりと息を吸い込んだ。
深呼吸をしているんだろうか。自分を落ち着けているのかもしれない。
やがて大きく息を吐き出して、僕をじっと見つめてきた。
「あのね、コウくん!私ね、これから…」
「ごめん。先に僕の話を聞いてもらっていいかな」
なにかを言おうとした美織の言葉を、僕は遮った。
美織からも話があったことに少し驚いたけど、呼び出したのは僕のほうだ。
話の優先権はこっちにある。それを譲るわけにはいかなかった。
「あ、うん。ごめんね。私ちょっと急いじゃって…」
「いや、いいよ」
謝るのは、むしろ僕の方なんだから。
「美織。聞いて欲しいことがあるんだ」
夕暮れの空き教室。
他に誰もいない、本当に二人きりの世界で、僕は好きだった女の子と向き合った。
ガキンと、なにかがひび割れるような音が、耳の奥から聞こえてくる。
それはきっと、僕と美織の関係が完全に壊れ始めた音だった。
それでも、僕は―――言わなくちゃいけないんだ。
「―――僕達、もう別れよう」
弱弱しく震えた声。
情けなくても格好悪くても、確かにその言葉だけはようやく口にすることができた。
「…どうして?」
震えている声で、美織が問いかけてくる。
本当に、どうしてなんだろう。
もう止まることも、引き返すこともできはしない。
撤回なんて、できない。
僕らの終わりが、始まった。
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