第9話……エピソード13……中国への旅(イスファハーン編)

1373年1月上旬の日曜日朝7時……ディヤルバクル砦

 アドリアンはアドルフに交易費用として金塊1万トン分の塩引手形をくれた。

アドリアン「ダニエルには承諾させた。ジェベにも連絡してスサンナを后に迎えるよう指示した。行き方は自由だが俺の希望は内陸部を回ってタブリーズ→イスファハーン→カーブル→バルフ→ケルフ→サマルカンドから天山北路または天山南路を行って欲しいのだ。内政の成果を報告して欲しい」

アドルフ「分かりました。それなら私も気が楽です。てっきり中国から日本を攻めろと言われると思っていましたから」

アドリアン「そんなことは中国に行ってから決める。安心するな」

アドルフ「………」

 アドルフは例によって10万人の部隊を100の小部隊に分け、99の部隊を順番にしかもばらばらに分かれて先行させた。目的地はイスファハーンである。タブリーズ→イスファハーンの部隊も有れば、バクダッド→イスファハーンの部隊もある。やはり10万人の部隊を率いていくと先々の住民が動揺して要らぬ憶測や不安を生むのである。1,000人なら交易部隊として不自然ではない。各部隊には緊急連絡用の人員が10名いて、互いに報告しあっている。アドリアンはペルシャの首都をイスファハーンに置き、相当の年月をかけて大都市を築き上げた。

 アドルフ率いる偽装交易隊1,000人は突兀とっこつたる岩山と乾いた土くれの荒野が果てしなく続くイラン高原を一路南へと向かった。この頃のペルシャの街道は、ヨーロッパからの旅人も驚くほどに治安がよく保たれ、旅人が無料で一夜を過ごせるキャラバンサライ隊商宿の整備も行き届いていた。アドルフたちは無事にイスファハーンに到着した。他の部隊には三々五々イスファハーン→カンダハール→カーブル→バルフ→ケルフ→サマルカンドへと進ませ。サマルカンドに滞在するよう告げた。

1373年2月上旬の日曜日朝7時……イスファハーン

 イスファハーンは海抜1600mのイラン高原の西部にあたり、今日の首都テヘランとシーラーズとの中間にある。

 奈良の正倉院の御物のなかには、数多くのペルシャ美術工芸品が、あるいはシルク・ロードを経て、あるいは南海をわたって渡来し、千年の年月を越えて眠っている。織物や、更紗模様や唐草模様、有名なガラス器、鳥首型の水瓶、陶器などは、正倉院だけでなく、平安、鎌倉時代を通じて、日本人の生活に深く浸透している。

 当時のアジア世界は、国際的に開かれていた。唐の長安の都の遊里では、碧眼紅毛の白人女が胡弓を弾き、ダンスを踊っていたと、李白の詩に唱われている。世界を統一したササン朝ペルシャのころである。以来、ペルシャの首都として古都のたたずまいを、歴史の栄光の中で保ち続けてきた。人は、この都をオリエントの心臓、世界の半分と呼んだのである。

 年間を通じてほとんど雨の降らないこの都は、やはり、この地をとりまくアジアの砂漠を抜きにしては語ることが出来ない。砂漠とは、まさに極端な光と闇の対決の舞台であった。空は、雲ひとつなく、抜けるように明るい。空気が乾燥しきっているので、物の形や輪郭ははっきりとしている。そんな空に、まるで奇跡のように、碧いペルシアン・ブルーのタイルをはった、巨大なドームが輝いて、影のように浮かんでいる。

 イスファハーンは「水と緑の街」であり、「イランの京都」である。赤茶けたイラン高原の「乾燥大地、あるいは白っぽい砂地」が続き、ゆるやかな河川があり、緑の木陰が迎えてくれる。ペルシアン・ブルーの空の下、その空よりも鮮やかなブルー・モスク。

 アドリアンはイスファハーンに新しい広場を建設した。旧来のコフネ広場の町の南西の馬場と青空市に使われる広場を新市街の中心地に選定し、王の広場(後世のイマーム広場)を建設した。王宮地域の西側には、ザーヤンデルードの南岸と北岸を結ぶチャハール・バーグ大通りが建造され、通りの始点と終点、側面に庭園が造られた。

 イスファハーンの市域の主要部分は、イラン高原の川としては例外的に水量の豊かな、ザーヤンデルード「命の川」と呼ばれる川の北側に広がっていた。

 街全体は、すでに存在していた旧市街と、アドリアンが建設した新市街という二つの部分に分けて把握すると分かりやすい。地図上で、北東側の破線で囲まれた地域がほぼ旧市街にあたる。破線は10世紀後半に建設された市壁の位置を示している。この地区にはたくさんの折れ曲がった道や袋小路がみてとれる。それだけ多くの住居が密集していたことを示している。

 これに対して、南側から南西側が新市街である。チャハールバーグと呼ばれる大通りが川の南まで一直線に延びている。この通りが新市街の中心である。新市街には直線の道が多く、道と道の間隔が開いている。これはこの地域の住宅の規模が大きいこと、住宅以外に庭園などの緑地も多かったことを示している。

 旧市街と新市街の接点にあたる場所に長方形の広場がある。これが「王の広場」で、街全体の「へそ」にあたる。

 アドリアンの王族の居住する王宮地域は、この広場の西側にあり、塀に囲まれていた。

 新市街は一部、川の南まで広がっていた。

 チャハールバーグ大通り沿いには王や貴族たちの庭園が並んでいた。また、川の北側のムスリム居住区から隔離された形で、ジョルファーと呼ばれる地区には、キリスト教徒のアルメニア人、そのさらに西のゲブラーバード地区には古代ペルシャ以来の宗教であるゾロアスター教を信じる人々が集まって住んでいた。

 アドルフたちはイスファハーンにしばらく滞在することを決めた。次回はイスファハーンのバザールについて語りましょう。

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