第四話・裏

 美悠は帰宅するとすぐ湯船に浸かった


 大きく深呼吸をすると入浴剤の香りが気持ちを落ち着けてくれる気がした


「変に思われてないといいな」


 幻一郎に孫の写真を見せられた瞬間に激しい吐き気に襲われた、脂汗が滲んでくるのが分かり、悟られないように必死に堪えた


 美悠は写真の中で自信なさげに微笑んでいる幸の事を知っていた


 あの夜の出来事は忘れられない


「・・・別に、彼女がいるって言ってくれればよかったのに」


 好意があったのは確かだが、人の恋人を奪おうだなんて考えない


 思い出したくもない事件


 その日も美悠は先輩と二人でアパートへ向かっていた


 いつもは酒を買い込みにコンビニへ立ち寄るのだが、泊まりにいくたびに酒を買っていたためストックが溜まっているので、まっすぐ部屋へ向かう事になった


 何を話していたのかは覚えていない、ちょっとおねだりすればなんでも買ってくれて、しかもイケメンな彼に文句なんて何もない


 お互い笑いながら歩いていると、一人の女の人が細い道の真ん中に立っていた


 その姿を見た瞬間、嫌な予感はしていた


 美悠は突然強い衝撃を受けて大きくよろける、先輩が突き飛ばしたのだ


 女の人はまっすぐ先輩に向かうと、迷うことなく手に持っていたナイフを先輩のお腹に突き刺した


 腹から足を伝い大量の血が地面を赤く染めてゆく


 悲鳴を上げる事は出来なかった、いや、気付かなかっただけで本当は悲鳴を上げていたかもしれない


 どちらかはわからないが、頭がパニックになりすぐにその場を去った事は覚えている


 駅前の広場にあるベンチに座りゆっくりと息を整える。余程真っ白な顔をしていたのか、見知らぬおばさんに大丈夫かと声をかけられた


 落ち着いたのを十分に確認してから意を決して電話をする


「人が、血をたくさん流している人がいました」


 後日ニュースで先輩が亡くなった事と、刺した女性も公園で自殺したのだという事、そしてその人が随分前から先輩と交際していた人だという事を知った


(もっと早く救急車を呼んでいれば先輩は助かったのだろうか、なぜ彼女がいるって教えてくれなかったのだろう、なぜ私は最後まで気付けなかったのだろう)


 当然のように先輩の事は大学やバイト先で噂の種になっていた


『大丈夫?』『一緒にいたんじゃないの?』『人の女を取るなんてねぇ』

『残念だったね』『まぁ遊んでそうだし、ほんとはあの子が刺したんじゃないの』


 笑いが混じった中傷の声が聞こえてくる


(うるさい うるさい どうでもいい 私は知らない 黙れ 黙れ 黙れ 黙れ)


 何かが弾ける音がする


 そんな中、祐源という男が声を掛けてきた


 いろいろ話しているがぼんやりとした頭には何も入ってこない


「・・・・・・だから、俺のとこにおいで」


 辛うじてそう聞こえた気がした


 美悠は祐源に向けていたずらっぽい笑みを浮かべた


「どうでもいいよ」


・・・・・・


 頭が痛い  吐き気が収まらない


 女の人が先輩を刺した様に見えた


 でも本当は


 ナイフを手に震えている女の人を


 先輩が自ら抱き締めたんだ


 徐々に 徐々に ゆっくりと


 深く深く突き刺さる刃ごと


 抱き締めたんだ


 

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