1-8. 授業が煉獄
『10Gbt』
のぞみにとって初めての、ハイニオスでの授業が始まった。教科は教養。教卓のディスプレイには謎の数値と単位が投影されている。担当教諭は細身で丸い老眼鏡をかけ、羊のように髭を伸ばした老翁だ。
今日の授業では、フェイトアンファルス連邦にある49国のうちの一つ、ホトムルスの地理文化について学ぶらしい。教諭がテキストの朗読をしている。
遠い昔から、タヌーモンス人は、カイロウトス大陸東部を集中的に開拓し、領地を広げてきた。彼らの領地であるフェイトアンファルス連邦は、49の連邦国から成り、ホトムルスはその一国である。
フミンモントルで一年生の時に学んだことの復習に近い内容だったおかげで、のぞみもすんなりとついていくことができる。
「ホトムルスは、連邦の心臓と呼べるティマイオルスの南に臨む、山々に囲まれる国。国面積は897.2平方ペード。農林業と鉱業が盛えており、フェイトアンファルス連邦の五大鉱脈の一つに数えられる。『ムルス』原石の原産国」
1ペードは24キロメートル。『ムルス』は天然クラムが付いている水晶石だ。エネルギーの核さねを作る材料となるため、タヌーモンス人にとっては、金や銀といった希少鉱物よりも価値を持つ。
テキストに書かれている人口や経済交易情報のデータは時々刻々と移ろっていくため、十分に一度、内容が自動更新されるようになっている。
のぞみはテキストを開き、授業を聞いていたが、先ほどから頭痛と発汗の症状に悩まされていた。何千キロもある鋼鉄拘束服でも着せられているように体が重い。板書をノートに書き写そうとするのだが、腕が上がらないので文字がうまく書けない。
少し我慢すれば治ると思っていた体の異変は、時間の経過とともに酷くなり、頭痛のために呼吸も浅くなってきていた。
(体が重い……、何で……?)
左隣に座っていた藍ランがのぞみの異変に気付き、囁くように声をかける。
「神崎さん、その体の状態で授業を受け続けるんですか?」
声は聞こえていても、何を言われているかよくわからず、のぞみは曖昧な返事をする。
「あ、えっと、なんでしょう?」
「授業が始まると、教室内の重力が倍増するんです。平時より多めに
「えっ?重力、倍増……?」
のぞみは誤ってペンを落とす。床に落ちたペンを拾うのは、今ののぞみには至難の業だ。
のぞみは重い首を少しだけ動かし、周りの様子を窺う。思い思いの席に座る心苗たちは皆、源を発している。
心苗たちはそれぞれ、自分なりに源を調整し、自分に合った強化状態の感覚を覚えていく。席と席の間には一定の空間が空いていたが、それは左右前後同士、気配を衝突させずに源の調整を学ぶための計らいだった。安全領域があることで、心苗同士の揉め事は減る。
修二は源を出したまま、椅子にもたれかかって居眠りしている。コミルは重力の影響を受けているとは思えない軽やかな手さばきで、ペン回しならぬ、ナイフ回しをしている。ヌティオスも欠伸をしながら、上の二本の腕のストレッチをしていた。源を調整しながらの授業は、闘士たちにとっては当然の鍛錬方法なのだ。
今さらになってのぞみは、入学証明書に書かれていた注意喚起を思い出す。
そこには、「日常静態の身体訓練をせざる者は、思いがけず傷害を負う可能性がある」とあった。
忠告をくれた藍自身も、よく見れば体が
異変の原因に気付いたところで、それはもう、のぞみには意味のないことだった。
ペンを拾った藍の声も、藍の顔も、だんだんと遠のいていく。のぞみはドサリと横に落ち、床に体を打ちつけた。
のぞみが倒れたことに気付かない者はいなかったが、半数程度の
「大丈夫ですか?神崎さん?!」
藍の叫び声を聞いて、ティフニーが席を立つ。
のぞみと藍が席を取っている段まで跳んでくると、二人が重力に耐えうるだけの量を調節し、のぞみにも源を注ぐ。
「しっかりしてください、カンザキさん。ライ君、少し協力をお願いできますか?」
「仕方ないね」
涼しげな表情のまま、ライは席を外し、三秒数える間もなくのぞみの元に駆けつける。
数瞬、のぞみを見ると、呆れたように言う。
「世話の焼けるお嬢さんだな」
「ライ君、私がカンザキさん注いだ源、あなたの技で塞いでいただけません?」
「ああ、任せて」
ライはティフニーの考えていることを理解したのか、すぐに取りかかる。
横たわるのぞみのそばで屈み、右手の人差し指と中指を伸ばして合わせ、残りの三本は軽く握る。二本の指の先端に源を集めると、のぞみの体のツボに狙いすまして指を差した。ティフニーが注いだ源は塞がれ、のぞみの体内に留まる。これは、重力訓練で倒れた者への応急処置の一つだった。
一連の騒動を授業の邪魔としか捉えず冷たい視線を寄越す心苗もいれば、助けたいと思っていても、自身の重力訓練で精一杯の者もいる。ティフニーやライの不審な動きでようやく教室で何かが起きていると気付いた教諭は、板書の手を止めて訊ねた。
「何かあったのかい?」
藍が声を張りあげる。
「先生、神崎さんが倒れました!」
「そうかい、カンザキは10倍重力に耐えられなかったか」
冷徹に言いながらも、教諭はモニターを操作し、重力倍増システムを自然界の重力まで戻すよう調節する。
藍が重ねて訊ねる。
「神崎さんはこのままで大丈夫でしょうか?」
「いや、早めに医療室へ搬送しなければならん。この授業を止めるわけにはいかんが、誰か連れていってもらえないかい?」
すっと手が伸び、一人の心苗が起立する。
「先生!私がカンザキさんを連れていきますわ」
猫を被ったようなクリアに追随するように、蛍も立ち上がって言う。
「先生!私にも手伝わせてください」
「Ms.ヒタンシリカ、Ms.森島。二人で大丈夫かい?」
心得たとばかり、クリアが言う。
「ええ、私たち二人で問題ありませんわ。医療室へ連れていったらすぐに戻ります」
「よかろう。では頼んだよ」
クリアは教室に備えつけられている担架を持ち出し、蛍ほたるとともに運ぶ。
藍がのぞみを運び、担架に乗せると、蛍が前、クリアが後ろを持ち、息を揃えて声を発した。その声と顔に、藍は邪悪なものを感じた。
「よし!行くわよ!クリア」
「うん。藍、邪魔よ、どいてちょうだい!」
藍は通路を塞ぐように立っていたため、そっと離れる。ティフニーは蛍とクリアが教室から出やすいように、入り口の扉を開いた。二人が担架に乗せたのぞみを運び出す。上方の席からそれを見ていた綾は、つまらなさそうに頬杖をついた。
何事もなかったかのように授業は再開し、教室内の重力もまた調節される。しばらくは板書を書き写していた藍だが、クリアと蛍の様子がどうしても気になり、手を挙げる。
「先生、すみません!」
「Ms.ラン。今度は何だい?」
「お手洗いに……」
「すぐに戻りなさい」
「はい」
藍はいそいそと階段を降り、両手で扉を開閉し、足早に教室を離れる。二階の医療室へやってきた藍は、のぞみがいないことを確かめた。蛍とクリアの源を探してみても、この建物の中には残っていない。
* * *
わずかな気配を手繰るように一階へ降り、東の小門から出てみる。念のため、藍は自分の気配があまりおおっぴらに気付かれないよう最小限に抑えてから、校舎裏の廊下へと進む。クリアと蛍の気配が突然、濃くなったことに気付き、藍はさっと回廊の柱に身を隠す。
蛍の声が聞こえてきた。
「あそこの壁の上は?」
「ふふ、蛍、良い発想ね」
二人はのぞみを二階ほどの高さのある壁の上に運ぶ。
蛍はそこにのぞみを置いて眺め、さらに意地悪い目つきで言う。
「たしかこの先にゴミ回収箱があったよね?」
「あの箱は生徒会の幹部がよく巡回してるのよ。見つかると面倒だわ。ここなら誰も見つけないんじゃない?」
「あは、そっか、気付いてもらえないまま、ずっとここでおねんねかもね」
二人はのぞみがまだ意識を取り戻していないことを確認すると、床に寝かせたまま、担架を回収した。壁の上から廊下に飛び降りると、蛍はふと、後ろを振り向く。
藍は蛍の感の鋭さにドキリとしながらも、両手で自分の口を塞ぎ、柱の後ろでじっとしていた。
蛍が柱の方へと近付いてくる。ぐるりと柱の周りを回るが、そこには誰もいない。
藍は気配を消すように廊下から離れ、校舎の外に植わっている樹木に身を隠していた。
クリアが問いかける。
「蛍、どうしたの?」
「さっきから、誰かが見てる気がする」
「さすがに勘違いじゃない?授業中にこんな場所に来る人なんていないわよ。人間の発する気配も感じ取れないし」
「そう……?」
「酷いです……。あの二人はまた自分より下位のクラスメイトを虐めて……。待っていてくださいね、神崎さん」
藍は壁を仰ぎ見て、飛びあがる。のぞみは壁の上で、風に吹かれて横たわっていた。藍はきっと目に力を込めると、のぞみを背負い、運びだす。
つづく
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