1-1. 始業日の朝 ①
意識が朦朧としているせいか、目に見えたもの全てが薄い色をしている。見えているのはとんでもなく巨大な鳥居と、樹齢数百年の神木に結界を張る縄、砂利道の庭、朱色をした神社らしき建物……。
小さい女の子の泣き声が耳に入った。7才くらいのその女の子は、神楽の装束を着て、両手で目を拭きながらわあわあ泣いている。
(お母さん……、どうしてお婆ちゃんは褒めてくれないの?踊りの練習、いっぱいしたのに……)
お母さんと呼ばれた女性はしゃがんで、女の子の頭をぽんぽん撫でながら、優しげな口調で言った。
(そうよね、のぞみちゃんはお婆ちゃんを喜ばせたいと思って、よく練習したのよね。お婆ちゃんが見てくれなかったから悔しいの?)
(うん……、だって一度ものぞみのこと見てなかったもん)
女性は慈愛に満ちた眼差しで女の子を見て、問いかける。
(のぞみちゃんが踊りの練習をするのは、お婆ちゃんのためだけなの?)
(ううん……。のぞみは踊りが好きだから練習するの。でも、みんなが喜んでくれたら、のぞみも楽しい)
女性は一方の手で頭を撫で、もう一方に持ったハンカチで女の子の顔に伝う涙の跡を拭いて言った。
(のぞみちゃんは良い子ね。母さんは嬉しいよ)
女の子は泣き声で言った。
(お母さん……)
(どうしたの?)
(どうして巫女のお姉ちゃんたちは遊んでくれないの?のぞみはいつも一人ぼっちで寂しい……)
(あのね、のぞみちゃんはちょっと、特別な子なのよ。だから、みんながのぞみちゃんのことが好きでも、一緒に遊べないの)
(とくべつって、みんなと遊べないの?……なら、のぞみはとくべつが嫌い……)
(そうじゃなくて、皆、似てるところもあれば、それぞれ特別なところもあるのよ。好きになってくれる人もいれば、嫌われてしまうこともあるの。それが人っていうことなのよ)
(のぞみは嫌われたくない、皆に好かれたいもん)
(のぞみちゃんは、自分と違って特別な人は嫌い?)
難しい質問に、女の子は目線を伏せ、少し考えてから言った。
(のぞみ、よくわからない……。でも、みんなと仲良くしたいの)
女性は温かい笑みを浮かべて言った。
(のぞみちゃんが心優しい子で、母さん嬉しい。世界中のどこかで、きっと
のぞみちゃんを大切にしてくれる人や、仲良しのお友だちに出会えるわ)
(ほんと?)
(のぞみちゃんがその思いをずっと守って、信じ続ければいつかきっと会えるよ)
視界や音がだんだんとぼやけ、優しくて、暖かくて、懐かしい気分の中でのぞみは目覚めた。
目を開けてまず見えるのは、3メートルの高さのある、白い石の天井。少し視線をずらすと、部屋のこちらの隅から向こうの隅まで、ハンモック式のベッドが吊られているのが見える。スースーという誰かのいびきとともに、外から聞こえてくる小さな獣の鋭い鳴き声と羽音が朝の訪れを告げていた。
薄いピンクのパジャマを着たのぞみは身を起こし、ベッドから足を下ろす。部屋の真ん中の低いテーブルの上には、立方体の水晶石が置かれており、現在の時刻が刻まれている。
《09:88:98》
アトランス界では、1日は36時間、1時間が90分、1分は120秒である。
面接審査が終わってから8日が過ぎた。今日は新学期が始まる日だ。のぞみは首を動かし、まだハンモックで寝ている少女に声をかける。
「ミナリちゃん、もう朝だよ!」
少女はのぞみの声を聞くと、銀髪から伸びる猫のような耳を小さく振って、か細い声で返事をした。
「もうちょっと……」
体をもぞもぞ動かし寝返りを打つと、また眠ってしまう。
「起きてっ!今朝の庭掃除当番はミナリちゃんだよ」
「う〜ん」
少女が指で水晶石に触ると、多くの選択ボタンが映る。その中の一つを押すと、窓につけられた遮光フィルターが下に向かったスライドし、収納されていく。続いて厚さ10センチある窓を開けると、澄んだ冬の空気と薄い日差しが室内に入りこんだ。
外にはいくつかの小さな島が浮かんでいる。空には蜥蜴の体に蝶々のような触覚を伸ばし、鳥類のように羽ばたく奇妙な生き物が複数、飛び交っていた。その風景を見ながら、少女は力をこめて伸びをし、深呼吸する。
強い寒気に耐えられず、ミナリはゆっくりと身体を起こす。彼女の周りには光る魚が宙を泳いでおり、ドクターフィッシュのように身体のケアをしている。
大きなあくびをしたミナリは、手でまぶたを擦りながらのぞみに挨拶をする。
「のぞみちゃん……おはようニャ〜」
のぞみは新しい制服に袖を通していた。朱色のブレザースカートに、セーラー服のようなブラウス。両手には二重構造になったアーマーのような袖を通し、赤色のスカーフを結んで、黒い金属製のベルトを締める。道着の帯がモチーフになっているバックルのスイッチを押すと、ブラウスの裏のボディスーツが身体をぴたりと包みこんだ。
最後に白のサイハイソックスを履いたのぞみは、自分の読書机に腰を下ろし、一枚の水晶札をスタンドに置いた。水晶札は鏡のようにのぞみの姿を映している。艶々の髪をヘアブラシできっちり整えると、ハーフアップに結んだ。
ミナリはハンモックからのぞみの姿を見下ろすと、まだ寝ぼけた表情で問いかけた。
「のぞみちゃんはどうして
「私は今日からハイニオス学院の
「ん?今日から学校ニャ?」
「冬休みは終わりです、新学期が始まりましたよ!」
のぞみの言葉にミナリはびっくりして目が覚めた。
「にゃに?!」
「ミナリちゃんは起きないと庭掃除の時間がなくなるよ!」
「待って!のぞみちゃん置いて行かにゃいで!」
「ダメだよ?私、今日は朝食当番だからね。ミナリちゃんも早く起きて起きて!」
のぞみが部屋の出入り口まで行くと、扉が自動的に開いた。部屋から廊下へ出て、階段を下りていく。軽快な足音が廊下に響いた。
のぞみはリビングへと入った。ここは6人の心苗が住む、シェアハウス型の学寮である。
ソファーには一人の女性が座っている。その隣に、執事服を着た男が立っている。髭のあるその男は、黒い頭髪から羊の角が伸びている。女性のために、ティーポットを高くかかげ、カップに紅茶を注いでいる。
「ミュラさん、おはよう!ロロタスも!」
女性は艶々の白髪に鋭く長い耳を持ち、頭から二本の細長い触角が肩まで伸びている。オリハルコン製のベルトと首飾りが白のドレスによく合っていた。女性の名は
ミュラー=レントニアステ=オオモンズッス=タララピトミン。淑やかな仕草のその女性は、ルビーのように赤い瞳でのぞみを見ると、声をかけた。
「のぞみちゃんおはよう、ミナリちゃんは起きた?」
「起きたばっかりです」
「まったくもう、あいつまた庭掃除の当番をサボったね」
のぞみが声のする方を振り向くと、彼女よりも若い女の子が立っている。深い紫色のミディアムショットの髪をしたその女の子は、深紅の瞳をしており、全身にスーツアーマーを着ている。スカートの両側には、まるで凍った炎のように不思議な形をした金属製の刀の柄が収納されていた。少女の名は、イリアス=ロリアム=アザゼール=ミリアー=ルンムルである。彼女は食卓に食器を並べている。
のぞみは柔らかい口調で言う。
「ミナリちゃんは寒さに弱いですね」
「あいつは冬の時期になると、いつも掃除当番をサボって!次の日に当番の私が皆よりも掃除に時間がかかるじゃない?!詰まった葉と枝!ひどいときは雪と氷!全部あいつのせいだわ!」
カップを手に取り、優雅に紅茶を啜りながら、ミュラが言う。
「あら、いいじゃない?あなた、バトルテリトリー系
「それとは違うの!『意のコントロール』と肉体の戦いは関係ないわよ!」
「どこが違うのかしら?あなたの戦いパターンならきちんと肉体を鍛錬しないと、バトルで相手に命中されたら一発で負けるでしょう?」
「そんなこと言わないでよ!」
「あら、私はイリアスのためにせっかくアドバイスをあげたのに、どうして素直に受け取れないのかしらね?」
「そもそも、掃除当番の話のはずなのに、どうして私があんたに説教されないといけないのよ?!」
「朝から騒がしいお子様は叱られて当然でしょう?」
「と、とにかく来月の掃除当番のくじ引きは、私が先に取るからね!」
「構いませんけど、いつもそうおしゃって、結局ミナリの後になっているのはあなたでしょう?」
「おかしいでしょ!今度から、私がくじを作るわ、良いわね!のぞみちゃん」
ミュラといがみあっていたイリアスは、味方を作るように、少し強引にのぞみに話を振った。
「いいですよ、私も異議ありません」
のぞみとの間で決まりかけた掃除当番の話を、ミュラは薄い笑みを浮かべた表情で責める。
「あら、前回くじを作ったのもあなたでしょう?お忘れですか?」
前回のくじ引きを思い出し、イリアスは頭を抱える。
「確かにそうだわ!どうしていつもそうなるの?まさか私……呪われたの……?」
のぞみは優しく言う。
「まあまあ、落ち着いてください、イリアスちゃん。誰でも不運の時期があるんですよ。今度のくじ引きでまたミナリちゃんのあとになったら、私のくじと交換すればいいでしょう?」
イリアスは自分が認めないと決めたなら、必ず誰かが譲らないと怒りだす。そんなワガママな態度に対してミュラは不満を感じていた。
「のぞみちゃん、こんなワガママの自己中を甘やかしておいたら、とんでもない駄々っ子になってしまいますよ?」
ミュラの言葉を聞いてイリアスは頭に血がのぼり、叫んだ。
「誰がワガママの自己中だって!?」
ミュラは平然と言う。
「あらあら、あなたのことだとはっきり言ったわけではないのに、まさか、自ら認めるなんて。あなたはセンサーが敏感すぎるんじゃないかしら?」
イリアスは地団駄を踏み、どうにもならない気持ちを叫ぶ。
「ミュラの意地悪!あんたなんかいつも掃除をロロタスにやらせてるくせに!ずるいずるい!」
右手で頬に触れ、ミュラは言い返す。
「あら、私は自分の能力を有効に使うだけよ。掃除って、ちゃんとできたら、別にいいでしょう?」
言い返す言葉もなく、イリアスは罵った。
「この怠惰女!手無し人間!」
紅茶を啜っていたミュラは軽く閉じていた目を開き、あまりの暴言に睨みをきかせた。
「何ですって?」
落ち着き払っているように見えるミュラだったが、手元のカップに割れ目が現れ、怒りのほどをその場にいる全員に伝えた。
「ミュラさん、イリアスちゃんのこと、許してあげてください。イリアスちゃんはまだ14才ですから」
「14才でも、二年生でしょう。あなた本当に自覚があるかしら?」
「それはエイジ差別ってやつでしょう!
「あら、私に勝つためだけに生きるなんて、なんてつまらない人生なんでしょうね」
「なによ!」
イリアスは短気さが仇になり、ミュラからのアドバイスをうまく受け取れないことがよくある。のぞみは苦笑いの表情になって言った。
「まあまあ、イリアスちゃん、落ち着いてください。ミュラさんはあなたのために言ったんですよ。彼女は学校であまり人に口出ししない人です」
イリアスは不愉快さを前面に出し、顔をあちらに向けて言った。
「余計なお世話よ!だいたい、同じ二年生なのに、あんな上からの言い方されたら、聞くだけで腹が立つわ!」
のぞみは言う。
「イリアスちゃん。冷静になって暫く頭を冷やしてはいかがですか?そうすれば、朝ごはんに特別の一品料理を追加しましょう」
「えっ!……本当?」
のぞみはにっこりして言う。
「本当ですよ!」
イリアスは少し黙っていたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「わかった、のぞみちゃんの美味しい料理が食べられるなら、私、我慢する〜」
「あら、私も怒りを鎮めることにするわ。のぞみちゃんが作った料理はこのシャビンアスタルト寮のセントルホール食堂のビュッフェより美味しいんですもの」
ミュラは淑やかな口調を言いながら、目線をのぞみに移す。
「でも、今日は適当に作ればいいのよ。今日からハイニオス学院へ入学院登録手続きでしょう?」
「はい。でも大丈夫ですよ。昨夜のうちに食材の処理は済んでいて、料理は時短料理法で作るので、そんなに時間かかりません。そういえば、ヨウ君とオリエンス君は?」
「外の庭でフリーバトルの手合い練習をしてるわ。タルモン人といい、地球アース人といい、あなた達は本当に戦いが好きね」
のぞみは返事をしてから話題を変える。
「すべての人間が戦いが好きとは思いませんけどね。さて、ミュラさんの料理はいつも通りでいいんですね?」
「ええ、何でもいいわよ。のぞみちゃんの料理の腕は信じてるから」
のぞみは広いシステムキッチン部屋に入った。
「さってと、そろそろ朝郵便の配送時間ね。外の二人も中に呼び入れるかしら」
ミュラがソファーから立ち上がると、ロロタスは使用人のように後ろから近寄り、厚みのある白地のマントを広げた。ミュラはそれを着ると、廊下を通り、玄関までたどり着くと、マントのフードを被った。
つづく
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