第3話 『ロマネスコ』

『ロマネスコ』をご存知だろうか。

存在しない小説「ロマネスコ」を紹介しつつ、なぜ「ロマネスコ」が存在しないのか、そしてなぜ『ロマネスコ』も存在しないのかを語る存在しない小説である。


読者はここで二手に分かれるだろう。「存在しないものを知っているはずがない」と私の語りを否定する読者。「『存在しない本を知っていると語る人たち』を私は知っている」だからとりあえず話を聞いてみようと思った読者。


おや?ここに分類されない?「何を言っているかわからない」から?ハハハ御冗談を。わからないからなんだと言うんです。わかっているものを読む意味なんて無いじゃないですか。おや、それでも納得いただけませんか。ではあなたは読者ではない?


では、どうでもいい話は置いておいて『ロマネスコ』について語ろう。

読者諸兄は、特にボルヘスやレムを連想した読者には、想像しないお話を語ることが出来ると自負している。


『ロマネスコ』は1995年に京都のある印刷屋で印刷され、2005年に河原町のある古本屋で発見された。個人の自費出版だったようで100刷ほどされたうち5刷が発見されている。著者は廣島学。当時の京都大学理学研究科数学科に同姓同名の学生が存在したことは確認されているが、本人の消息が不明であり確認が取れないでいる。

『ロマネスコ』本体は深緑の表紙に白字でロマネスコと記されているのみのシンプルなもので、背表紙は無地、裏面には書店の値段を示すシールが貼られているのみの簡素な作りであった。


ちなみに発見者は私ではなく、私の知人である。実物も手元には存在しない。私はその知人から『ロマネスコ』本体の画像と多少の外延情報、そしてこれはおそらく違法だが、『ロマネスコ』本文をスキャンしたPDFデータを頂いただけである。『ロマネスコ』の外縁情報は全てその知人からの受け売りであり、また本文の内容についても読者はその知人の創作を疑うことが許されている。


ただし、私はあくまで彼から受け取った情報は基本的に本物であると信じて語ることにする。私が受け取った画像も、外縁情報も創作にしては手が込みすぎているし、何より彼はさほど暇ではない。本当に河原町で『ロマネスコ』を偶々発見して購入したと信じておくのが無難であろう。そして、もし彼が発見した時点で『ロマネスコ』がなんらかの偽物、書店員と印刷屋の気まぐれと共謀によって生まれた偽物だったのだとしても、それはそれで一つの作品の出自として十分箔のつくものだろう。


『ロマネスコ』は140ページほどの非常に短い文章である。私は冒頭でこれを簡単のため小説と紹介したが、実のところ論文ともエッセイとも小説とも判別できぬ奇妙なもので、その半分近くがマンデルブロの『フラクタル幾何学』に言及するものとなっている。私は数学の知識がないためそのあたりの論証や計算については理解しかねるのだが、どうやらなんらかの数学的事実を敷衍してさらに飛躍した論理を語ろうと試みたようだ。とにかく私はそのように読んでいる。


『ロマネスコ』は架空の文書「ロマネスコ」を廣島学が屋根裏から発見するところから始まる。1994年の夏。田舎に帰省していた廣島は行きしの電車で読んだ乱歩の『屋根裏の散歩者』に非常に興奮し、実家の屋根裏を覗いてみたくなった。彼は屋根裏に潜り込むため入り口の天井板を外すのだが、その時天井裏からゴトッと物が落ちてきた。ホコリを被ってカビやら湿気やらで変色した深緑のハードカバーに包まれた本。これが「ロマネスコ」であった。

廣島曰く「ロマネスコ」奥付けには、「著者アレキサンド・ライト、松本悟郎訳、初版1975年」と書かれていたらしい。廣島は「ロマネスコ」が次元と存在に関するある種の哲学書であり、数学的論証は無いものの数学的直観を非常に刺激する内容であったとしている。彼はこれに感銘を受け、「ロマネスコ」を紹介するとともにこれに数学的論証を付加することを試みようと考えた。ちょうどよく彼は最近広中平祐訳の『フラクタル幾何学』を読み始めたところであり、これはこの挑戦にうってつけだった。


廣島曰く「ロマネスコ」はアブラナ科の野菜であるロマネスコの持つ自己相似形の構造をモチーフとし、自己言及文のパラドクスを解消するためにフラクタル構造を用いるという斬新なアプローチを取る非常に奇妙な本だったという。

廣島は「ロマネスコ」の要約で次のように説明している。


「嘘つきのパラドクスをご存知か。次のようなものである。/クレタ島の哲学者エピメニデスは「クレタ人はいつも嘘を付く」と言った。ところでエピメニデスはクレタ人である。クレタ人は嘘つきということだからエピメニデスも嘘つきだ。では「クレタ人はいつも嘘を付く」というのは嘘なのだろうか。とするとエピメニデスは「いつも嘘を付くクレタ人」でありながら嘘をついていないことになる。矛盾している。/こうした自己言及によって生じるパラドクスを自己言及のパラドクスという。アレキサンド・ライトはこの自己言及のパラドクスを解消することを目論んだ数学者的な哲学者だ。/「この文は偽である」という自己言及文は嘘つきのパラドクス同様に真偽で無限に反転を起こして真理値が決定しない。「この文は偽である」が真である場合、文は真ではなく偽であり、偽である場合真であり……以下同様に続く。「この文は偽である」が偽である場合、文は偽ではなく真であり、真である場合偽であり……以下同様に続く。「この文は偽である」の真偽は決定しないのだ。/ライトは一部の哲学者たちと「ある文が真であるということは存在することである」「ある文が偽であるということは存在しないことである」という命題を共有していた。ライトはこれを利用して「この文は偽である」という文が偽になる場合を探すことにした。つまり「この文は偽である」という命題が非存在であることを論証することで、「この文は偽である」が偽であることを論証しようと考えたのだ。/そういうわけでライトは「存在しない存在」や「存在しない文」の探求に乗り出す。ライトは自己言及のパラドクスの一種であるラッセルのパラドックスを念頭に集合論に目をつけるのだが、そこでシェルビンスキーのカーペットに出会う。すぐさま執筆を開始し、1973年頃に最初の論考が完成したらしい。/おおまかに言えばライトは自己相似形の図形の表面積が0になることに注目し、「存在しない存在」の一例としてこれを紹介したのだ。そしてライトは最終的にこれを応用することで「この文は偽である」という文が非存在であることを論証する。そしてここから「この文は偽である」が偽であると結論づけたのだ」(pp.7-8)


また、この本が奇妙なのはその論証の発想だけでなかった。「ロマネスコ」自身が(『ロマネスコ』同様に)架空の図書「ロマネスコ」に言及しているのだ。


アレキサンド・ライトは思考実験の一つとして仮想の本「ロマネスコ」に言及する。曰く「ロマネスコ」は架空の図書「小ロマネスコ」を紹介する図書であり、「小ロマネスコ」は「極小ロマネスコ」を紹介する本なのだという。以下同様にして架空の本で紹介される架空の本は同様に架空の本を紹介する架空の本を紹介している。これはちょうど植物であるロマネスコが持つフラクタル構造とよく似ており、「ロマネスコ」の著者アレキサンド・ライトはこれを「ロマネスコ構造」と呼んでいる。


ライト曰く「ロマネスコ構造」はある次元での存在を非整形にする。三次元であれば体積が0となり、二次元であれば面積が0になる。

植物であるロマネスコは、近似値であるが、その表面積が無限大になる。またライトはロマネスコが内向きに相似形を作ればメンガーのスポンジのように次元が縮減されて体積が0になることから存在が極小になると指摘し、架空の図書「ロマネスコ」はこれと同様に無限に架空になり存在が極小になるという。

またライトはシェルビンスキーのカーペットに言及しており、これが2次元以下となり面積が0になることから、架空の本を紹介する架空の本である「ロマネスコ」は無限に架空となって存在しなくなるのだと結論している。


一体どんな論証をすればこれが哲学的に真になるのか私には皆目検討つかないのだが、少なくとも廣島はこれがなにか重大な真理を提示するものと感じたらしく、ライトが言及する「ロマネスコ構造」を『フラクタル幾何学』の観点から再検証し、よりもっともらしいものにしようとしたらしい。


さて、私には2つの目論見があった。

一つは奇妙な小説『ロマネスコ』を紹介することであり、これは達成された。

もう一つは読者に問いかけることである。


架空の小説『ロマネスコ』を詳説するこの小説は存在しているだろうか?


私の読みでは『ロマネスコ』にはある目論見がある。目論見というのは「ロマネスコ」を利用して、『ロマネスコ』自体が架空の図書へと近づくことである。


まず「ロマネスコ」は思考実験の過程とはいえ、無限後退する「ロマネスコ」群を紹介する非存在の図書「ロマネスコ」を紹介している。「ロマネスコ」の思考実験に従えば「ロマネスコ」群を紹介する図書はそれ自体非存在の図書への仲間入りを果たすことになる。

廣島はこれに着目したのではなかろうか。

「ロマネスコ」に言及するなりこれを批評することによって『ロマネスコ』自身が非存在の図書へと仲間入りを果たすのだ。廣島はあらゆる文章をより架空により非存在にするシェルビンスキーのカーペットを見つけたのだ。

いや、もしかすると廣島その人がこれを開発したのかも知れない。


「ロマネスコ」はアブラナ科の植物であるロマネスコに言及しているが、ロマネスコが大規模に栽培され流通を始めるのは1990年代であり、冷凍運送で一般に広まるのは1903年頃である。要するに「ロマネスコ」が書かれたとされる1973年の、少なくとも読者はロマネスコを知らない。よって恐らく「ロマネスコ」自体が架空の図書であるかもっと1995年に近い時代に書かれた偽物であることになる。


もし本当に「ロマネスコ」が廣島の創作であったならば、一体どうしてこのような手のかかる創作を行ったのだろうか。廣島が実際にそのような創作をしたのかも定かではないし、動機をなんらかのかたちでハッキリ語るところもなかった。だが考えられる理由がまったくないわけではない。


小説というものはどんなものであれ作り物である。「ロマネスコ」に限らずあらゆる創作が非現実であり非存在だ。そして人は往々にして非存在に建築する人たちを、作家を、漫画家を、アニメーターを憧れの目で見る。彼らは何もない所に何かを立て、何もないを確かになにかあると思わせてみせるのだ。

ただ現実に生きて現実的なことしか語れない人間というのは世間に必ず一定数存在し、そうした人種の中には必ず作家に憧れる人間がいる。

廣島もその一人だったのではなかったか。

彼に出来る最もスマートで複雑なやり方で、誰でも架空の文章を、誰でも小説を書けるような必殺の概念装置を作ること。そのことによって彼は現実に生きながら現実的な仕方を反対に捻じ曲げて、作家を作る作家になったのだ。


「ロマネスコ」を語れば、それはすべて小説になる。


「ロマネスコ」を語れば、必ず現実から抜け出すことが出来る。


現実的な仕方で、真面目な顔で、いつもどおりに議論するだけでいい。


そして、書き終えたものをもはや恥じたりする必要もない。


「ロマネスコ」を語れば、その文章は消えてなくなるから。


存在しない本について語ることに意味はあるのだろうか。

読者は二手に分かれるだろう。「そんなものに意味はない。存在しないものを知ったところで役に立たなければ知ったことにはならないのだ」という読者。「意味はある。存在しない本について語る本は売り買いされているし読者は確かにそれを楽しむことが出来るから」という読者。


おや?またハブられましたか。なになに。「わからない」?

あなた何もわからないままここまで来たんですか。

ああいや、コイツは凄い。それが正解かもしれませんね。


本というのはあれば誰でも読めるものだと思いこんでいた。だからこそ私は『ロマネスコ』をワケのわかるようになんとか読み込んだのだ。

けれど、別に何もわからないという結論もあるわけだ。そこにはフィクションとそうではない図書の間で貴賤はない。どちらも無価値というか、価値と無縁のままなんだ。フラクタル図形も整形式の平面も未だ存在しない次元以前の次元でどうやら人は生きられるらしい。


参考文献

https://www.youtube.com/watch?v=ZBPVzKPxL6I

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%82%B3

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%AB

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AD

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E4%B8%AD%E5%B9%B3%E7%A5%90

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%83%E3%83%88

https://en.wikipedia.org/wiki/Menger_sponge

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E8%A8%80%E5%8F%8A%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9#%E5%98%98%E3%81%A4%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%AB%96%E7%90%86%E6%A7%8B%E9%80%A0

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

https://www.kosho.or.jp/abouts/?id=32010170

http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/creator/41485.html

https://researchmap.jp/read0188712


追記

まずは数学関連の方に謝っておきます。本当にごめんなさい。

ここで扱われる数学関連の用語は正確性が担保されていません。またフラクタル構造に関するお話は(ほぼ)フィクションです。数学でも論理学でもありえません。

読者諸兄はそのあたり勘違いしないようご承知ください。


さて、そんな際どい今回の短編を書いてしまったのはしょうもないことがきっかけでアレキサンド・ライト(これまたふざけた名前だな)のアイデアが降ってきたのが原因です。

私、あまりに勉強したくなくて普段見ないQuizKnockの動画を見ていまして、「ふくらPの食レポだけで野菜の名前を当てるクイズ」という動画だったのですが、そこで初めて「ロマネスコ」なる野菜を目撃します。いや、正確にはフラクタル構造の一例としてロマネスコの画像自体は目撃しているのですが、食べられる野菜だとは知りませんでした。てっきり数学的にシュミレーションしたCGだとばかり思っていました。

そこでメンガーのスポンジを思い出しまして、どういうわけか自己言及のパラドクスをこれで解消できるぞ!と思いました。まじで意味がわからない。

しかし思いついたら書いておかないとしょうがないので、書きました。

アレキサンド・ライトのアイデアはそのときのほぼそのまんまです。


余談ですが、自己言及のパラドクスのアレキサンド・ライトの解法は論証コストが高い割に、非常に有名でシンプルなアーサー・プライアの解決と結局同じ結論(「この文は偽である」は偽)になるという残念なやつです。このお話で自己言及のパラドクスに関心が向いた人はプライアを調べてみると良いかもですね。


そんなこんなで「自己言及のパラドクス」と「フラクタル構造」に言及しながら無茶苦茶に合体させた怪文書ができたわけです。

僕は基本的にティピカルでつまらないものよりは怪文書のほうがよっぽどオモシロイと思っているので、読者もそういう感じに育ってくれると嬉しいです。


ではまた、次の怪文書で会いましょう。

ありがとうございました。

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