思考実験短編集成 Thought Experiment Short Story
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第1話 記憶に関する心理試験
川を流れる一輪の花を見た。
水面が揺れて、歪んだ空と水底の砂利が二重に見えた。
あれは小さくて白いアベリアで。
あれは大きくて真っ白なユリだった。
あるはずもない二重の記憶。
同じ時間同じ日の同じ場所で、全く別の白い花を見た。
ただの記憶違いだったのか。
あるいはもしかして。
わたしは。
あなただったりした?
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私は■■の小さい病院で産まれた。育て方が良かったのか悪かったのか、あるいは生まれつきか私は従順で手のかからない子どもだったという。私がよく聞かされた話では、食事を出された私は母親がすすめるまでずっとそれに手を出さなかったらしい。
らしい。伝聞であることを示す表現。あるいは不確かさを示す表現。例えば記憶の。
私はこの話を思い出すたびに、私はこの出来事を覚えているのかそれともこの出来事について母の語る話を覚えているのかよくわからなくなってしまう。でも多分、もしこれが私の記憶でも、これは私の一番古い記憶ではない。
私の一番最初の記憶は恐怖だ。
目前のこの私より大きくて髪の長い生き物は私の生命の一切を握っている。私がこの者に従順でなければこの者は私を容易に終わらせることができるのだ、となんとなくだがたしかにわかった。
私の二番目の記憶は大きくて長い生き物をガラスの向こうに、ベランダに閉じ込めた記憶だ。私は恐怖と勇気とスリルをいっぱいに感じた。そして大笑いした。これが私が最初に笑った記憶である。
だがどうだろう。母親の語る私の幼い頃の物語のすべてが真実なのだろうか。
あるいは私の思い出す記憶も果たして真実なのだろうか。
私は地方の公立大学に通っている。この時代には珍しく金にならない教養を教鞭する文学部が存在する総合大学である。私は更に珍しく古典心理学を中心とする心理学理論を専攻する学生だった。古典心理学というのは、フロイトやユングやビスワンガーやボウルヴィのことだ。そこから心理学の歴史を辿るようにしながら、行動主義心理学や認知心理学の理論を勉強する。
友だちはほとんどいなかった。心理学を勉強していると言うと、誰もがメンタリズムとか心理誘導とか催眠術とかカウンセリングが出来るものと決め込んで話しかけてきた。私の勉強はそんな応用やオカルトやデタラメとはかけ離れていた。結果として面白がって私に話しかけてきた人はみんな連絡先とすれ違いざまの挨拶だけを残して消えていった。いや、心理学のせいにすべきではなかった。問題の根本は私が口下手でみんなの話す速度についていけないことにあった。
口下手。というか口が私のものではない感じ。
考えてから、キーボードを打つようにしながら、あるいは筋肉の一本一本を針金で引っ張って操るようにしながら、出来事や単語を区切るようにコラージュするように話す。いや、吃りがあるわけではないはずだ。私は流暢にしゃべる。が、そのときの語りと思考にはいつもズレがあって、時々脈絡なく沈黙してしまう。ときには喋ってから考えているような感じがする。パロールとラングが時間軸の上で食い違って、声が遅れて聞こえる。語りと言葉がズレまくってゲシュタルト崩壊を起こす。
私は多分私をきちんと所有することができてない。
私はわたしの体をちゃんと持っていない。
身体所有感の異常。それは普通離人症とか、BIIDとか、コタール症候群とか、あるいは統合失調症として現れる。
人間の小脳のあたりには身体所有感(Sense of Agency)や運動イメージ(motor imagery)と言った、特定の運動や刺激を「自分のもの」として理解するためのフィードバック信号を司る機能がある。ここに異常をきたすと自分の身体や運動が自分のものとは感じられなくなって、「自分と自分の体がズレた感じ」や「自分の体を切り離したい強迫観念」「自分の体は死んでいるという強迫観念」などを訴えるようになる。こうした症状とは逆に存在しないはずの身体の感じが信号として発火し続けると幻肢や幻肢痛を発症する。
私は多分この小脳の機能にちょっとだけ異常がある。
物を持ったつもりが持っていなかったり、予期せず柱や壁にぶつかったりする。私の体のイメージと私の実際の体はプラスマイナス3センチほどズレている。球技ができない。飛んでくるボールをキャッチできない。バットで打ち返せない。投げると思ったときにはボールがあらぬ方向に飛んでいる、あるいは投げると思ってからボールがあらぬ方向に飛んでいく。
いつでも何をするときでも私は自分の体をまるでマリオネットを操るみたいに感じていて、動作と意思が一緒になることがない。話すと思うことと話す声には無限の距離が、無限の速度で遠ざかる距離が存在する。まるでアキレスが無限に亀に追いつけないみたいだ。私は有理数を1から数えつつ少しずつ亀に近づくアキレスを思い浮かべる。アキレスは手を伸ばしていて数を数えている。しかし数え終わらない。アキレスと亀の距離は無限だから、無限の数ある有理数を数え終わるまでアキレスの手が亀に届くことはない。私の声と言葉はこんなふうにズレている。
私は実家を離れてアパートに一人暮らしている。四角い座卓でお茶を飲みながら床中に散らかした論文のプリントアウトを拾って読む。が、私の意識はそこにはない。
私は考える。無限の速度で亀が遠ざかるのなら、無限より大きい速度でアキレスは走れば良い。対象より早いものが対象を追い越すのは道理だ。アレフ・ゼロで走る亀を追い越すアレフ・ワンで走るアキレス。すれ違いざまに亀を抱えあげるアキレスを想像してみる。ここで無限級数を勉強したゼノンなら、無限級数が現実に収束することは想像できないというところに味噌があるのだ、と割って入ってくるだろう。たしかにそうかも知れない。有理数を数えるアキレスはどこまでも亀に追いつかないで、無限の時間を経験するはずだ。けれど、実際にはアキレスは亀を抱えて走っていってしまうのだ。だったら、想像できないことが実際に起きているのなら、無限の時間より大きい時間を亀を抱くアキレスは生きてることになるんじゃないだろうか。そして多分飛ぶ矢が飛ぶ世界の私達も、目の前の誰かに追いつける私達も。
私は超弦理論を、11次元の宇宙を、コンパクト化された余剰6次元を想像してみる。地球からすごい速さでズームバックする映像が銀河系や泡構造の大規模宇宙を写してホワイト・アウトすると、画面いっぱいに黄色と紫とピンクのグラデーションで彩られた帯が幾重にも織り込まれたメビウスの輪の塊みたいなものが見える。後でいろいろ調べてみるとこれはカラビ・ヤウ空間というらしい。いや、理論物理学や多様体の理屈なんてよく知らないけれど。どこかで見たのだろう。
私はどこかで見えなくなっている6次元のことを考えながら、数種の米菓がミックスされた袋を開け、桜色で気泡いっぱいのえびせんを選んで6つ食べた。
余計な6次元は私が食べてしまったのだ、と思った。
私は別のものと別のものを一緒くたにして、たくさんのことをわかった気になった。
神話的解決と言うのだろうか。ホメロスの叙事詩が悲惨な戦争の出来事を神々の織りなす巨大な運命に投げ込んで昇華したみたいな。
あるいはソポクレス。オイディプス王。というかフロイト。いや、虚偽記憶。
虚偽記憶。あるいは過誤記憶。Fales Memory。1980年アメリカの出来事。イカサマな精神分析と催眠療法が流行して、存在しないはずの抑圧された記憶(Repressed Memory)がそこかしこで語られた。存在しない虐待の記憶。そして存在し得ない虐待を訴える裁判。
人間の記憶は曖昧だからそこに嘘を差し込むのは容易だ。同一タイムラインに帰れるタイムマシンが存在しない以上、検証不可能な過去はあらゆる都合のいい出来事で塗り替えられてしまう。というより、過去そのものが思い出すたびに作られると解釈したベルクソンのほうが本質をついているのかもしれない。
そうやって目の前の出来事を説明するのに都合のいい出来事や理論を用意してやる。人間はそれで納得した感じがする。私もそうやって、私の生まれとか余剰次元とか私の口下手とかを納得した。
そうやってわかった気になった私はもうずっと大学に行っていない。
私は私の異常を、口下手とかふさぎ込む暗い気持ちとかを、心理学の理論でわかった気になった。
口下手は小脳の異常。暗い私は幼少期の愛着形成の失敗。
メアリー・エインワース。1967年「ウガンダの幼児」。幼児の愛着タイプA-C。
幼児が扶養者を安全基地(Secure Base)としてみなせるかどうか、安全基地を獲得できるかどうかによって、A-Cの3つの愛着タイプを分類することが出来る。安全基地というのは幼児が外界と接触するとき、外敵やストレスから身を守れるところを言う。ゲームで言うところのセーブポイントとかセーフルームみたいなものだ。
愛着タイプA。不安定-回避型は扶養者が幼児に十分なリアクションを取らなかった場合に発生する。幼児は扶養者に関心を示さず、一人で遊ぶ。セーブ回復なしのソロプレイ。大人になると自律した人、孤高の人、ソロ充になるらしい。
愛着タイプB。安定型は扶養者が幼児に十分なリアクションを取った場合に発生する。幼児は扶養者のもとで安心を感じ、扶養者のもとから離れた場合多少の不安は感じつつも一人で探索することが出来る。セーブありの通常プレイ。大人になると普通の、健全な対人関係を築くことが出来る。ここで言う普通にどんなバイアスがかかっているのかとかパターナリズムの話はおいておくことにしよう。
愛着タイプC。不安定-アンビバレント型は扶養者が幼児の行動と関係なくアクションを取ったり取らなかったりした場合に発生する。扶養者が離れると非常に不安定になり、扶養者が戻った場合も身体接触を求めつつ怒りをぶつけるなどする。セーブができたりできなかったりするしいつデータが消えるかわからない感じ。というより、暴力を振るう彼氏と依存してる彼女みたいな。大人になるとまともな対人関係が築けない。他人に対する不安や猜疑心がいつも付きまとうことになるらしい。私だ。
私は私の恐怖の記憶が、母親のアンビバレントな行動に基づいたものだと解釈している。父親曰く、私は時々放置されたり叩かれたりしたことがあるらしい。確かに記憶がある幼少期にも、外でおいていかれたり無視されたりした記憶がある。かと思えば唐突に愛着を示したり大事にされたりした記憶もある。
だがどうだろう。私の口下手や私の暗さは全部エインズワースの愛着理論で説明できることにしていいのだろうか。私の持つ私の過去の記憶や、両親の持つ私の過去の記憶はどこまで正しい本当のことなのだろうか。
私はその夜布団に入ったまま2時間も3時間もそんな事を考えて眠れなかった。停車駅のない環状線を疾走する電車みたいに、ランナーズハイに陥ってハムスターホイールから出られない小動物みたいに、私の思考は同じニューロンの回路を何度も発火させた。想起される思考と現在進行系の思考が何重にもダブっってわけがわからなくなった頃から記憶がなく、昼過ぎに目覚めた私はあの後眠ったんだと解釈した。
2
あるとき教授からメールが届いた。なにやらいくつか課題や書類の提出を求められた。内容はよく覚えていないがそのときは状態が良くて全部提出した。はずだ。記憶が正しければ。
私は布団に横たわったまま考える。あのときのあれは卒業論文だったんじゃなかろうか。一個一個の課題が序論や各章に該当して組み合わせると2万字前後の論文になる。それが熱心に勉強していた私への教授の恩寵なのかはたまた留年者を出させまいとする文科省の圧力が徹底された結果なのか私には判断できない。結局それで私が卒業したことになったのか退学したことになったのかもよくわからず、私はひたすらアパートの天井を眺めるばかりの日々に浸っていた。
もうずっと論文も本も読んでいない。
プリントアウトして身につけた知識が結局何の役にも立たず、何も生み出さず、ただ納得するための方便になるのなら何の意味があるのだろう。印刷代や紙代よりも安くつく仕方で私は納得できる。自分にウソを付くのはそんなに難しくない。ただ世間よりちょっとルールにルーズなら誰でも出来ることだ。大学を無断欠席し続けた私は十分に条件を満たしていた。それで論文を読むのはやめた。
ポルトガルの詩人。フェルナンド・ペソアは、もうずっと本を読んでいない。私は小説よりももっと良い結末を夢見ることが出来るから、と言っていた。彼にとっていちばん重要なことは夢を見ることだった。あるいは少なくとも詩人としてのペソアはそう思い込んでいて、思い込んでいるということを忘れていた。
確かに。と思う。ただもうずっと夢を見られたらそれで十分ではないだろうか。眠っている間だけ王になる奴隷と、眠っている間だけ奴隷になる王とどちらが幸福かと言ったのはパスカルだったかペソアだったかあるいは中国の故事だったか。
学生の頃、というのは高校生の頃。私はよく百合の花をいっぱいに敷き詰めた部屋で窓もドアも換気扇も密封して、たっぷり睡眠薬を飲むことを夢想した。私は消えたかった。痛みや後悔といった世界との強いつながりなしに、眠るように自由にこの世界から去れたらどんなに良いか。まさしく眠りながら死ぬ方法をどこかで知った私は、その日の学校の帰り道でアスファルトを踏みしめる靴底のゴムの重さや摩擦を敏感に感じながら、こんなもの全部なければいいのにと歯噛みしながら夢に耽った。
引きこもりが随分続いた。元気になる気がしなかった。
なにかしようという気持ちがまるで最初から存在しなかったような。
空っぽを感じる。
眠れない時期はとうに過ぎていた。普段と比べて急激に運動量が減れば、体が十分な疲れを感じられず眠れなくなる。日中浴びる日の光の量とか、栄養状態とか、寝起きする時間も関係してくる。人間もあくまで動物、生き物だ。生体時間を乱す要因があれば眠れなかったり眠りすぎたり異常が現れるのはあたりまえだろう。
だが生活のリズムや運動量の基準が変わってしまえば、そうした反応はなくなる。全然運動しなくてもよく眠れるし、食欲もあってなんなら以前より健康かもしれない。
それでも生命力と言うべきか、生きようという気持ちというか、なにかしようという気持ちだけは全然湧いてこなかった。
意味も目的もなく動画サイトを放浪し、ぼんやり発光する画面を眺める。
そうじゃないときはただぼんやりと座っているか、横になっているか。
今はもう前みたいに昔のことを頻繁に思い出したり、意味なく反省や後悔を繰り返したり、頭の中が言葉で一杯になって精神病や心理学的な異常のこと、それと関連する私の体験や症状を繰り返し思い返すこと、その反芻思考そのものを反省すること。そういうことはなくなっていた。
ただただ空っぽを感じる。
ただ時々、自分を終了させよう。もう終わりにしようという観念がよぎった。
ガラストレイいっぱいの真っ白なインク液の上に、光を吸い込む真っ黒なインクが一滴落ちる。すると次第に細い糸のような黒色の集まりが次第に広がり、白いインクの上に黒いマーブルが出来る。
私はそういうイメージを夢想して、私の空っぽの頭を占めていく自殺の観念を、それを構成するニューロンの発火の群れを納得した。
私はガムテープと練炭と火鉢、ビニールシートを買って夜のホームセンターから帰った。背の高い小さな電灯たちに照らされた長い一本道はふだんトラックや貨物車がよく通る大きめの道路に面していて、近くにはたくさん工場があった。自転車で走りながら、ヘッドライトの明かりと工場施設のあちこちでちかちかする小さな電灯を交互に眺めてなんともいえない気持ちになった。郷愁というと安直すぎるし、ここは故郷ではない。多分私は夜中の人通りも車通りも殆どなくなったここで、工場の明かりと私だけが孤独を分かち合っているような気がして、懐かしいようなあったかい気持ちになったのだ。
くしゃくしゃのビニール袋から戦利品を取り出し、それらを包んでいるパリパリしたビニールの袋を開ける。青いビニールシートを敷いてその上に布団を敷く。気休めにしかならないか、と思いつつ「ビニール」ばかりだなと思う。そこで石油やエコロジーやマルクスのエコロジー論について思い出して、資本主義リアリズムに手を伸ばしかけたあたりで我に返る。でも、別に良かったかもしれないしそうじゃなかったかもしれないか、などと考えて、村上春樹が出てくる前に洗ったばかりの白いシーツの質感に触れて思考を中断した。睡眠薬の錠剤がおいてあるはずの机の方を向いて、いつもならこういう日はよく眠れないんだけど、と少し不安になった。
練炭自殺をする。練炭自殺というのは、密閉した部屋で炭を焚いて一酸化炭素を部屋に充満させることで一酸化炭素中毒を引き起こし心肺機能を停止させる自殺方法だ。
眠っていれば通常より呼吸は浅くなる。浅くなった呼吸で一酸化炭素中毒を起こすまでにどのくらい時間がかかるのだろうか。それまでに部屋を開けられてしまわないだろうか、などと考えながら換気扇に蓋をし、窓やドアの隙間をガムテープで塞いでいった。途中で目が冷めて苦しんでしまうのが一番悲惨かもな、などとも思った。
部屋を密封したので火鉢を用意し、炭を入れて火をつけた。
睡眠薬をいつもより多めに飲む。体がポカポカして全身の筋肉が弛緩するのを感じる。同時に頭はどんどん冷めてぼんやりとまっしろになっていく。船を漕ぎながら布団に入り、真っ白な雪を想像する。
雪が。目前に雪が近づいてくる。
雪、いや雨が降っている。ざーっという音が何重にも重なってズレあってたくさん聞こえる。豪雨の音だ。分厚く黒く立ち込めた雲を連想する。暗くて黒くてもやもやしてよく見えない。余白いっぱいの雲。
目前に雪が、いやアスファルトが迫っている。高校生の頃帰り道に踏みしめたアスファルトではない。きっと摩擦はない。摩擦は世界の真理だが、そんなものいらなかったから。
いや、いいや。ある。摩擦はある。私は、いや俺は、そうだ俺は。いや私は。
落ちている。
俺は飛び降りた。
マンションの外付け階段の欄干から身を乗り出し、無様に、落ちるように飛び降りた。俺はそう記憶している。私にはない記憶だ。私は飛び降り自殺をしてそのことを忘れてしまったのだろうか。俺はどう思う。俺は何を覚えている。
俺は飛び降りた。背中いっぱいに恐怖を感じて。
見えない何かが命よりも大事な何かを脅かすのだと確信して。
私はそれによく似た出来事を覚えている。夢を覚えている。
私は覚えている。夢を見た。私はベランダに居る。背中いっぱいに恐怖を感じて。引き返すことは出来ない。だんだん暑くなって暑さを感じないほど熱くなる。真っ青な空の向こうから真っ赤な星がやってくる。赤色巨星となった太陽なのかあるいは全く別の星が降ってきたのか。空はその星で真っ赤に埋め尽くされ、視界がホワイト・アウトする。私はベランダで死ぬ。
私は覚えている。飛び降りを試みた。私はベランダに居る。背中いっぱいに恐怖を感じて。引き返すことは出来ない。欄干に足をかけ、よじ登ろうとしながら、この高さで死ねるだろうかとか、真昼の明かりの中これを見上げる人はどう思うのだろうかとか、柄にもなく私が死んだ後の母親のこととかを考えた。無性に涙が出て、ああこの力の抜けた勢いで死んでしまおうかとも思ったが、自分の中にある迷いを感じてベランダにへたり込んだ。私はベランダで死ななかった。
俺も覚えている。
俺は更に覚えている。小学生の頃、学校の窓から飛び降りようと身を乗り出して道路を歩いていた中学生にからかわれたのを。俺の背後の教室で教員や同級生が何かを喋っていたことを。俺は飛び降りなかった。
俺は更に覚えている。もっと大きくなった頃。マンションの外付け階段の欄干から地面を眺めていたことを。豪雨の中傘もささず、ここで死ねたらどんなに良いかと思ったことを。それをただじっと父親に見られていたことを。俺は飛び降りなかった。
ではやっぱり私は飛び降りなかったのではないだろうか。
私は死ななかったことになるのではないだろうか。
いやそもそも、死んでいたなら私は何も覚えていないのではないか。
いいや、あるいは俺は何度も死んだのかもしれない。
何度も何度もいろんな仕方で死んでいて、それと同じ人生を歩みながら今度はその都度死ななかった場合を生きているのかもしれない。俺がアスファルトに頭を打って死んだ後には、豪雨の中飛び降りなかった俺が俺の人生のありえた続きを生きるのかもしれない。
しかしならどうして俺と俺が、俺と私が同じ私で、しかも同じ人生だと言えるのだろうか。俺は多分デジャブを、死を、神聖視しすぎている。私はそんなふうに神話を信じるのには抵抗を感じる。私はあんなにも神話的に納得してきたのに。
これはやっぱり私の夢ではなかろうか。練炭自殺をする私の夢なのでは。
私は体を信じた。摩擦を信じた。何を感じるかを信じてみることにした。
私は炭の匂いを、洗いたてのシーツの香りと肌触りを、重い体を、そして空を切る私の手と、雨粒と雨の匂いに、頬を切る風とその音を感じた。
私は思考する。体とズレて。いつものように。
私の体はどこにあるのだろう。
私はマンションの欄干から落ちながら、私は練炭自殺を試みている。
死を目前にして、すべての感覚が、摩擦が、出来事が収束しつつある。
真っ赤な星の暑さも、迫る一階の庭も、声を上げる中学生も、雷の鳴る豪雨の轟音と寒さも、迫るアスファルトも、一面のユリの花と香りも、炭の焼ける音も、全てが私の記憶で無限に引き伸ばされた私の現在だ。
私は無限の遅さで地面へと落下する。アスファルトと私の間には無限の距離があり、有理数を数え続けるあいだじゅうずっと私とアスファルトは出会うことがない。私はその間無限の回想を、走馬灯を、存在しない記憶群を生きる。
さて、私の一生はついにすべて記憶と化した。
私の思い出す記憶は、私の一生は果たして真実なのだろうか。
完全な記憶のなかで私は一生の一瞬一瞬を完全に感じる。だが、思い返してみればそれが果たして真実だったかついぞわからない。例えばそれが嘘の記憶であったとしても嘘を嘘と見抜けないならそれは存在することになるのではないだろうか。その一生の記憶が嘘の想起でも、私は記憶のなかで一生を生きることになるのではないだろうか。私はあらゆる私の一生が、死の瞬間へ向かう無限に引き伸ばされた進行のなかで幾重にも重なって、ただ一人の「私」の思い出として一つになることを、そして小脳の神経ネットワークと宇宙の泡構造が同じ座標に重なったりズレたりするのを思い浮かべる。マクロコスモスとミクロコスモスの一致という古い思想も、あらゆる人の一生が誰かの存在しない記憶だったりするのなら、あながち馬鹿にできないのかもしれない。すべての私の一生は一人の神様の思い出でした、という壮大なオチ。
さて、これを考えているあるいはこれを読んでいる私は果たして嘘の記憶を今まさに生きているのではないとどうして言えるのだろうか。
参考資料
アニル・アナンサスワーミー著、藤井留美訳『私はすでに死んでいる―ゆがんだ“自己”を生みだす脳』2018年、紀伊國屋書店
内藤栄一「運動制御と身体認知を支える脳内身体表現の神経基盤」『理学療法学Supplement』日本理学療法士協会、Vol.43 Suppl. No.3、2016年、pp.59-62、URL=<https://www.jstage.jst.go.jp/article/cjpt/43S3/0/43S3_59/_pdf>
追記
バートランド・ラッセルの『心の分析』。「世界五分前仮説」はご存知だろうか。例えば私は12歳で、私には10年と数ヶ月以上の記憶がある。しかしだからといって私の生きてきた12年間が実在すると言うべきだろうか。例えば私は人造人間で偽物の記憶を植え付けられたとしたら。例えば世界は5分前にできたばかりで、みんな実在しない出来事の記憶を持って作られたのだとしたら。
ラッセルは論理的な必然性のみから物事に特定の原因があることや、因果関係そのものがあることを証明することはできないという文脈でこれを語ったはずだが、この仮説は単体で一種の思考実験として広まった。直感から言えば世界が5分前にできたなんて考えもしないし信じられない。だからこの五分前仮設になんらかの反論をでっち上げることがこの思考実験の目標と言うか楽しみになるわけだ。
ところでもし本当に世界が5分前にできたとして、植え付けられた記憶の中の出来事や記憶の中の生きられた感じはどこへ行くのだろうか。どこにあることになるのだろうか。
この「第1話」は、そんな生きられた感じがもしも記憶や想起の中に確かにあるのだとしたらその記憶の中の生きられた感じや生きた感じは一体どのように感じられることになるのか?という疑問から産まれた。あるいは私の一生が今この瞬間も誰かの長い大きな、捏造された、記憶の中にあるとしたらどうか?という不思議な感じから産まれた。
なんとなくでもそんな疑問やその不思議な感じが共有できたらという思いで書き上げたが、技術的に不十分だったかもしれない。
この「思考実験短編集成」はこのような思考実験をもとにした短編や、思考実験そのもの、思弁的な会話劇などをときどき不定期に更新するつもりだ。
今回は心理学のお話など記憶に関する小話をたくさん詰め込んだので長くなったが、次回は相対性に関する短い会話を「第2話」にするつもりだ。
今後の更新を楽しみにしていただけると幸いである。
以上。最後までお読みいただきありがとうございました。
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