今生の酒
ブンカブ
今生の酒
JR赤羽駅から5分ほど歩いた場所にそのバーはあった。
古めかしいネオンサインを目印に階段を下り、幾重にもニスを塗り重ねられた古く重厚な扉を開けると、濃厚なスコッチの香りが鼻先をくすぐる。
この店は以前、取引先の営業マンに教えてもらった隠れ家的な場所だった。
客の数は少なめ、静かで落ち着き、グラスのウイスキーを傾けながら1日の仕事にピリオドを打つことができる場所だ。
僕自身、ここに来るのはまだ三度目だったが、それでも10年は通い続けているかと錯覚してしまうほど、この店の雰囲気は落ち着くものだった。
僕はカウンターの椅子に腰を落ち着けると、愛飲しているアードベッグをストレートでいただくことにした。
「これはまた、結構なご趣味で」
マスターが琥白色の液体をグラスに注ぐ傍ら、三つ隣の席に座っていた老紳士が寂しげな表情で笑う。
僕は差し出されたグラスを受け取ると、老人の方を向いて軽く会釈した。
「好きなんですよ。癖が強くてわかりやすい」
そのように答えると、老人は頬のシワをますます深くして微笑む。
「私の友人も同じものを飲んでいました。それで気になりましてね」
「そういうことですか。そのご友人とは?」
よくこの店に来るのだろうか。
「いえ、彼は脳梗塞で2年前に」
「そうですか……申し訳ありません」
知らなかったとはいえ、辛い話をさせてしまった。
「飲み過ぎだったんです。肝臓も患っていた。自分の歳を考えるべきでしたな」
彼はそのように苦笑すると、わずかばかりに残ったグラスの底の液体を、茜色の照明に透かして眺めた。
「私もこれを
「そういうことでしたか」
僕は注がれたばかりのグラスを持ち上げる。
「よければ最後のお酒、僕におごらせてください」
「いえいえ、そういうわけには……」
「これも何かの縁です。構いませんよ」
そうまで言うのであればということで、老人は申し訳なさそうにグラスを掲げた。
「今生最後の酒に」
「乾杯」
クイッと琥白色の液体を流し込むと、老人は軽く頭を下げてから店を出て行った。
それから一週間後の金曜日、僕は仕事を早めに切り上げると、この前のバーに向かった。
前と同じ席に腰を落ち着けてジャケットを脱ぎ、きついネクタイを緩めて一息つく。
「おや、あなたはこの間の?」
聞き覚えのある老人の声に視線を向けると、三つ隣の席にはやはりこの間の老人が腰をかけていた。しかも、あろうことかその手にはウイスキーの入ったグラスが握られている。
僕は唖然としながらたずねた。
「……えっ、あれ? たしかこの前、今生最後の酒だと」
「ええ、たしかに今生最後の酒でした」
「いやでも」
「ああ、これですか?」
老人はシワの多い顔をさらにしわくちゃにしながらニンマリとほくそ笑んだ。
「これは
そのように言うと、老人は満足げにウイスキーを飲み干すのだった。
〈終わり〉
今生の酒 ブンカブ @bunkabu
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