復讐の終わりと、神殺しの始まり①
1.予兆
清洲城付近の川辺に一人の女が佇んでいた。
百八十はあろうかという女性にしては珍しい長身と、
出るとこは出て引き締まるところはキュっと引き締まった見事な体型。
風にそよぐ長く美しい黒の御髪と相まって美姫という形容がピッタリだ――服装がまともなら。
女が纏っているのは草鞋に粗末な男物の着物。
それでもちゃんと着ているのならまだマシだが肌蹴て大胆に肩を出している。
サラシを巻いているので胸が丸出しになっているわけではないが、お行儀が悪過ぎる。
羞恥心の一つや二つは感じそうな装いだが当人はどこ吹く風。
だがそれも当然のこと。そんな真っ当な感性があれば”尾張のうつけ姫”などと呼ばれはしない。
女の名は織田信長――どこまでも我が道を往く人間である。
「…………分からんな」
もう何度目か、数えるのも馬鹿らしくなるほどの自問。
「何故、こんなに息苦しい?」
物心ついた時から感じていた疑問。
どこに居ても、何をしていても感じる息苦しさ――今だってそう。
空は遠く高く、雲ひとつない快晴。
季節ゆえ肌寒くはあるが吹き抜けていく風が心地良い。
なのに、息苦しさを感じる。
これは一体どこから来るものなのか。
「負うた荷の重さか」
皆無というわけではないが女が当主を務めるというのは珍しいことだ。
優秀な娘と凡庸な息子のどちらを後継者に選ぶか。
そう問われたとすれば大概の者は後者を選ぶだろう。
当人の不足は部下に補わせることが出来るし、女の身では人心も集め難い。
だが信長の父、信秀はかなり早くから信長を当主にすると公言していた。
娘可愛さ――などという理由ではない。
自らが繋いだ次の織田家に必要な者が信長だと確信していたからだ。
そのせいで随分苦労させられたが、
「違うな」
別段それを苦に思うことはなかった。
女だからと舐められ多くの者に背かれたこともある。
中には筆頭家臣や、弟や弟を当主にしようと目論む母らも居た。
だがそれに関してはむしろ感謝しているぐらいだ。
背いた者らを完膚なきまでに叩きのめし、支配体制を確固たるものに出来たのだから。
弟――信勝を助命し利用するため、全ての責を母に押し付け首を刎ねた時も何ら痛痒はなかった。
親子であろうと関係ない。
殺し殺されの関係に踏み込むのなら覚悟を決めて然るべきだ。
まあ母はそれさえ理解出来ていない愚物だったが、
それはそれで粗大ゴミを片付けられたので悪いことではないと心底から思う。
「最近も色々と煩わしい事もあるが……」
怪しい今川の動き。
鬱陶しい斎藤のこと。
織田家の舵取りをする者として頭を悩ませる事柄は多々ある。
だがそれらも“息苦しさ”に比べれば何てことはない。
「やれやれ、何時までこれと付き合っていかねば……――んん?」
何となしに上流を見た。
何やら妙なものがこちらに向かって流れて来ている。
近付くにつれハッキリと見えるようになったそれは、
「…………骸か」
何があったかは知らないがこのまま見過ごすのも寝覚めが悪い。
こうして見つけたのも何かの縁。
近くの寺にでも放り込んでやろうと決め、信長は川の中に入った。
そして流れて来る死体を待ち受けていたのだが、
「んな!?」
数メートルほどの距離に来たところで急に死体が沈む。
かと思えば水底を影が蠢く。
刺客か!? と川を出ようとするが時既に遅し。
(ッ、足を掴まれ――――)
信長は咄嗟に水中の影に拳を落とそうとする。
しかし、それよりも早く足を思いっきり掬い上げられてしまい背中から川の中に倒れこんでしまう。
(まったく……己の間抜けさに反吐が出る!!)
自らの不甲斐なさを罵りながら太股に装着してあった短刀を引き抜き立ち上がる。
しかし、眼前に男の姿はない。
どこに、と考えたのも束の間、底抜けに明るい笑い声が響き渡った。
「ハッハッハ! どうだい? 少しはスッキリしたかよ」
男は何時の間に移動したのか既に川を出ていた。
川辺に立ちケラケラと笑うその姿に常ならば怒りを抱いただろうが、
「…………異人か。珍しいな。存在自体は知っていたが見るのは初めてだ」
男が異人であると知った途端に好奇心が勝った。
海の向こうの大陸には異なる人種が収める国が幾つも存在することは知っている。
だが所詮は書物で得た知識であり実際に異人と対面するのはこれが初めてだった。
「あれ? 普通に顔を出すだけでも気分転換になったんじゃねえかこれ?」
「んむ? ……ひょっとして、貴様、おれのことをどこからか見ておったのか?」
口ぶりからそう察して問うたのだが、
「俺ッ娘だと……? ありかなしかで言えば――――ありやな!」
目の前の異人は何やらよく分からないことを言い始めた。
おれっことは何なのだろうか。
よく分からないが気になるので説明して欲しい。
「っと、失敬失敬。ああそうだ。遠目でアンタを見つけたんだが、どうにも難しい顔をしてたんでな」
上流まで行って流されて来たんだと異人は笑った。
「それと、俺は異人なんて名前じゃねえ。俺の名はカール、カール・ベルンシュタインだ」
「かーる……かーる……カールか。おれは……あー、三郎とでも呼ぶが良い」
「三郎、ね。男みてえな名前だが――逆にありだな」
うんうんと満足げに頷く異人――カール。
やっぱり何を言っているか分からないが、それでも何となくこの男とはウマが合いそうだと思った。
「それで三郎、アンタ一体何だってあんな辛気臭い面ァしてたんだい?」
「ふむ……」
「あ、いや。無理に話してくれとは言わんけど」
「いや、話すこと自体に抵抗はない。だが、ただ話すのもつまらんと思ってな」
ポンと手を叩く。
「貴様の話も聞かせよ。それで対等だ」
「へえ、良いね。そういう考え方は嫌いじゃないぜ。よし分かった、何でも聞いてくれや」
互いに胡坐をかいて向かい合う。
仕事……もあったが、今はそんな気分ではない。
誰かが探しに来るかもしれないが、その時までは好きにするとしよう。
「では早速だが、カールよ。貴様は何のために葦原へやって来た?」
貿易、というわけではなかろう。
商人特有の空気というものがカールからは感じられない。
「観光、というわけでもなかろう?」
排他的な葦原の空気は異人にとってはさぞ居心地が悪いはずだし、
そもそもからして観るべきものもあんまりない。
「復讐のため」
「……ほう」
復讐、目の前の陽気な男には似つかわしくない言葉だ。
なのに何故だろう、この上なく“しっくりくる”言葉に思えてしまう。
「実行犯は既に海の向こうで殺してるんだがな。黒幕がまだ残ってるんだわ」
「順調なのか?」
「今のところはな。奴らは気付いちゃいねえだろうが殆ど詰みだよ」
ケラケラと笑うカールを見て信長は二人の男を思い出した。
一人は尾張の虎と呼ばれた父、信秀。
もう一人は虎と凌ぎを削っていた美濃の蝮、道三。
(ただ、何と言うべきか……)
似てはいるが、決定的な部分が異なっているような気もする。
面白い、信長は我知らず口元を緩めていた。
「復讐とは言うが、その者らは一体貴様に何をしたのだ?」
「俺が直接被害を受けたってわけではないよ。被害に遭ったのは俺の女だ。
俺の女は元々、葦原の出身だったんだがな。
母を生きたまま焼き殺され、自身も命からがら大陸へと脱出したのさ。
さっきも言ったが実行犯は既に殺して、一旦はそこで区切りがついたんだが……色々あってな」
ここまでの発言だけでも、引っ掛かるところは多々あった。
だが敢えてそこには目を瞑る。
聞いたところで素直に話してくれるとは思えないし、問い質して場の空気を悪くするのは面白くない。
「だからまあ、こうして海を越えケジメをつけさせに来たわけだ」
「……成るほど」
「そいじゃそろそろ、俺も質問して良いかい?」
「良いぞ――と言っても、何故おれが辛気臭い顔をしていたかだろう?」
カールが頷く。
信長は素直に“息苦しさ”について語って聞かせた。
「ほーん……物心ついた時から、ねえ……」
「おれが息苦しさ、貴様は何だと思う?」
葦原で生まれ葦原で育ち未だ葦原を出たことがない自分。
対してカールは異国の人間だ。
ひょっとしたら、何か新鮮な視点が得られるかもしれない。
「閉鎖的なお国柄が原因……じゃないのか?」
「それはないな」
閉じられた国の在り方に思うところは当然、ある。
鬱屈を嫌って海を渡る者が居ることも当然、知っている。
だが違う、違うのだ。
「おれはいずれ天下を獲り葦原を開かれた国に変えるつもりだ」
「へえ、それはそれは」
面白そうな表情。
こちらの発言を冗談と受け取っているわけではない。
むしろ真正面から受け止めているように見える。
「だが、それでこの息苦しさが晴れるかと言えば……どうにもそうとは思えんのだ」
根拠はない。理屈では語れない。
それでも、息苦しさをどうにか出来るとは思わなかった。
「成るほど。なら、俺にはとんと見当がつかんわ」
「そうか……」
長年の悩みがいきなり晴れるとは思っていなかったが、それでも少しガッカリした。
この男ならばと感じさせる何かがあったからだろう。
「だが、一つ。一つだけ分かることがある」
カールの纏う空気が一変する。
「――――“お前はその息苦しさに負けた”んだな」
「……何だと?」
信長の顔が剣呑なそれに変わる。
常人であれば気圧されるであろう彼女の視線に動じることもなくカールは語る。
「正道では拭えぬ涙があると、自らの正義を貫くため道を外れ闇に堕ちた者が居る。
当然、お天道様の下を堂々と歩ける身の上じゃなくなるだろうよ」
道を外れるとはそういうことなのだから。
カールは笑いながら更にこう続けた。
「でも、そいつは不自由なのか?
お天道様の下を普通に歩いている奴らよりも不自由だと思うのか?
俺はそうは思わないね。突き詰めていくなら物理的な枷なんてのは最終的にどうでも良い」
大事なのは、その言葉に被せるように信長が口を開く。
「心さえ天であったなら地獄も浄土と変わりなし――貴様はそう言いたいわけだ」
「ああ、違うか?」
「…………いいや、いいや。違わない。貴様の言う通りだカール」
信長の表情から険が取れ笑みが浮かぶ。
「まったく……ああ、おれとしたことが不甲斐ないにもほどがあるな」
そんな、そんな簡単なことを見落としていたとは。
恥ずかし過ぎて穴があるなら入りたいぐらいだ。
「息苦しさを意識し、そうと受け入れている時点で屈したも同じ」
成るほど、確かにその通りだ。
言い訳の余地なぞ一片もありはしない。
「理由が何であれ歯牙にもかけず、己が成すべきを成せば良い。
定かならぬ息苦しさに拘泥して満足に成すべきを成せぬなぞ愚の骨頂だ」
ふぅ、と大きく息を吐き出す。
今も息苦しさは感じているけれど話を始める前とは比べるべくもない。
「感謝するぞカール。貴様のお陰でおれは大切なことに気付けた」
「何、俺が何をせずともお前ならその内気付いていただろうぜ」
「だとしても、だ。この出会いはおれに善きものを齎してくれたよ」
ああそうだ、良いことを思いついた。
カールを家臣に誘うのはどうだろうか?
今は彼もやることが多くそれどころではないだろうが、全部終わった後なら問題はあるまい。
このような男が居てくれるならきっと――――
「ところで三郎よ」
「ん、ああ……何だ?」
己に埋没しかけていた信長がハッと我に返る。
「あれ、お前に用があるんじゃねえの?」
カールが指差した方向から一人の老人がこちらに向けて走って来ているのが見えた。
血相を変え、息を荒げるその老人は確かに信長の顔見知りだ。
彼の名は平手政秀。信長の守役にしてもう一人の父親のような存在である。
「……――――ぉぉおお」
叫びながら走るその姿が若干見苦しいものの、顔を見れば何かが起きたのは明白だ。
まだまだ話足りなかったが致し方ない。
「カール」
「分かってる」
「すまんな」
軽く頭を下げカールに背を向けたその瞬間、
「ああそうだ。一つ、俺も謝らなきゃいけないことがあった」
背中に声がかかった。
「――――“息苦しさ”の理由、本当は知ってるんだ」
驚き、振り向く。
だがそこにはもうカールの姿は無かった。
「…………カール、貴様は一体……」
答えは返って来ない。
「殿ォ! 大変に御座りまする!!」
「……チッ、考えている暇もなし、か。まずは落ち着けじいや。それでは話にならん」
やって来た政秀に落ち着くよう言い聞かせる。
一度、二度深呼吸をした政秀は神妙な表情を作りこう告げた。
「今川が上洛に向け、動き出したとのこと」
風雲急を告げる報せ、これが全ての始まりであった。
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