ハートに火をつけて⑨
1.新しい朝
身体に纏わりつく鉛のような倦怠感とそれ以上の充足と共に庵は目を覚ました。
ぼんやりとした視界、もやがかった頭。
(わた、しは……)
何時も眠り、目を覚ます路地裏ではない。
背中にふかふかの感触がある。天井が見える。
そして何よりも、
(あたたかい)
肌を通して感じる他人の温もり。
胸の奥がぽかぽかして、泉のように幸せな気持ちが沸いてくる。
庵は衝動のまま、その逞しい胸板へと頬をすり寄せた。
(兄様……)
むにゃむにゃとだらしない顔で眠るカールが愛しくて愛しくてしょうがない。
自分の中にこんな感情があるなんて思いもしなかった。
恥ずかしい、でも誇らしい、喜ばしい。
胸の裡から溢れ出る感情の一つ一つが宝物のように感じる。
(優しかったな……温かかったな……)
涙が出るぐらい、満たされた。
最愛の母を喪ったあの日から、ずっとずっと感じていた欠落。
欠けた心で闇の中を歩いていた。
だが、終わりの見えない暗がりの日々はもう……終わったのだ。
(兄様が、朝を連れて来てくれた)
夜明け前の一番暗い時間を抜け、ようやく心に朝陽が昇った。
差し込む曙光が心と体を温めてくれる。
それは何よりも幸せなことなのだと思う。
だから、感謝を。どれだけ伝えても伝え足りないけれど。
「…………ありがとうございます、兄様」
ふわりと、少し開いた窓の隙間から柔らかな春風が吹き込む。
その気持ちよさに目を細める庵だが、
「んぐぅ……じ、ジジイ……テメェ……!
も、もう許さん……総入れ歯に……総入れ歯にしてやるぅ……」
物騒な寝言で空気はぶち壊し。
ギリギリと歯軋りをしているカールを見て、庵は小さく溜め息を吐く。
「……もう、台無しですよ」
白く細い指でカールの額を弾く。
少し、くすぐったそうな顔になった。
面白くって、可愛くって、また笑った。
「兄様、大好きです」
そっと唇を重ねる。
恥ずかしいが、昨夜、何度もしたことだ。
(ずっと、こうしていたいな)
名残惜しげに唇を離そうとしたところで、
「!?」
カールのがパチリと開く。
ギョッと唇を重ねたまま固まる庵。
「???」
寝起きゆえか、カールは現状を把握できていないのだろう。
その瞳には疑問符が浮かんでいる。
だが、
「むぐ!?」
とりあえず舌でも入れとくか。
多分、それぐらいの軽い気持ちで触れるだけの口付けを深いものへと変えた。
「んちゅ……あぁ……っ……」
突然のことに驚きながらも、
庵は直ぐに受け入れ小さく幼い舌をたどたどしくカールのそれに絡め始めた。
互いの唾液が行き交う。
息も忘れて、愛する男の求めに応える。
「ぷはぁッ」
やがて、庵の息が限界を迎えるのを見計らいカールは唇を離した。
「……おはよう庵」
「お、おは……おはよう……ござい、ますぅ……」
少し息を荒げつつも、笑顔で挨拶。
カールがぽんぽんと頭を撫でてくれる。
でも、物足りない。
もっともっとと強請るように庵はぐりぐりと頭を押し付けた。
「甘えん坊だな」
「だ、駄目です……か?」
「いや、良い。むしろ、好き」
そう言ってカールはひとしきり、庵を構い倒し甘やかしまくった。
庵は最初こそ恥ずかしそうだったが、やがてカールに身を委ね存分に甘えまくった。
第三者が見ていれば唾を吐き捨てるであろうイチャつきっぷりである。
「さて、と。庵、出かけるから着替えな」
ひとしきりイチャついた後、カールはそう切り出した。
どこに? と首を傾げつつも庵は言われるがまま着替えを始める。
(アンヘルさんは、私のことをどう思っているのでしょうか)
手の中にある着物はアンヘルが用立ててくれたものだ。
天覧試合の場に行くのだからとカールが頼んでくれたらしい。
アンヘル、あの人は自分のことをどう思っているのか。
恐らく、こうなることは気付いていたはずだが……。
(……いえ、詮なきことですね)
小さく首を振り考えを追い出す。
例えどう思われていようと胸の中にある情の炎は消えやしないのだ。
カールから離れるつもりなんて、さらさらない。
であれば考えるだけ無駄というもの。
「んー、時間帯的にゃまだ早いか……どっかで飯でも……」
連れ立って朝の帝都を歩く。
何やら思案顔のカールだが、そろそろ何処に行くのかを教えて欲しい。
クイクイと服の裾を引っ張ると、ようやく気付いてくれた。
「ああ、すまんすまん。ちっと不動産屋にな」
「ふどうさんや、ですか?」
そんなところに何の用事があるのだろうと小首を傾げる。
「庵の住む家をな、探さにゃいかんだろ」
「え」
「え……って。流石に、自分の女をスラムで暮らさせるほど俺は鬼畜野郎じゃねえぞ」
少し唇を尖らせカールは抗議した。
だけど、ごめんなさい。
それよりも何よりも”自分の女”と言ってくれたことが嬉しくて。
あなたの顔を直視できないんです。
「まあ俺の給料じゃな。アパートぐらいしか借りれんだろうが、何か希望はあるか?」
「……」
「庵?」
もし、もしもワガママを言って良いのなら、
「に、兄様と一緒ではいけませんか?」
「え、いや……屋根裏部屋だぞ? それに……」
だめ、ですか?
じわりと滲む瞳でカールを見上げる。
すると、
「いや全然問題ねえわ」
即答だった。
「OK、同棲しよう同棲。もう、これっきゃねえな」
鼻血を垂らしながらうんうん頷くカールは……少し、怖かった。
一体どうしたというのか。
「……伯父さんにゲザって……うん、一生のお願いを……」
「兄様、あの……鼻血が……」
「鼻血じゃないよ、情熱だよ」
「は? あ、あの……ひょっとして、昨日の戦いの怪我が……」
「大丈夫、これは情熱だから。迸るロ愛情の発露だから」
意味不明な供述であった。
「しかしまあ、俺の部屋に住むなら伯父さんに言わなきゃな。
ただ、伯父さんが店に顔を出すのは昼過ぎだからなあ。うーん、それまでどうするか」
何処か行きたいところはあるか?
カールがそう聞いてくるが、
「……えっと、兄様と一緒ならどこでも」
そうとしか答えようがなかった。
「可愛いことを言いやがる……!」
「わ、わ、わ!?」
持ち上げられて片手でクルクルと回転させられてしまう。
庵自身、発育不良だという自覚はある。
だが十二歳(数え)の子供をこうも軽々と扱えるものなのか。
元々スラムでも大暴れしていたし非常識な身体能力は目にしてきた。
昨日も、散々強さを見せつけられはしたが驚愕を禁じ得ない。
と同時に、
(……兄様は、どこであれほどの強さを……)
疑問に思う。
天覧試合で優勝した、それはすなわち帝国で一番強い武芸者を名乗れるということ。
無論、大会などに興味がないだけで在野には強い人は他にも居るだろう。
だが、帝国一を名乗れるだけの資格はカールも持っているはずだ。
だからこそ、分からない。
これだけの強さがあれば栄光など掴み放題なのに何故、酒場で勤め人をしているのか。
「……ふぅむ。なあ、庵」
「何でしょう? というか、この格好、恥ずかしいんですけど」
両脇に手を入れ抱き上げられたまま真正面から向き合う。
ちょっと……いや、かなり恥ずかしい体勢だ。
「庵は、帝都が好きか? そこに住まう人じゃなく、帝都そのものだ」
「それ、は」
スラムで苦楽を共にする友人たち。
明けない夜を終わらせてくれたカール。
帝都に住まう人間は好きだと、胸を張って言える。
無論、全員が大好きというわけではない。醜い人間も大勢見てきたから。
だが帝都そのものが好きかと問われたら……返答に窮する。
「正直に答えろ」
「…………帝都に住まう人々を含めないのであれば……」
「あれば?」
「正直、嫌いです」
異国の地というのもあるが、それ以上に辛い思い出や醜いものが多過ぎるから。
そう素直に告げるとカールはそうかと一つ、頷いた。
そして、
「じゃあ、行くとこは決まったな」
「え」
「ホントは夕方が一番なんだが、この時間帯もまあ……中々のもんだし」
困惑する庵を姫抱きにし、カールは跳び上がった。
道行く人々の視線が屋根伝いに駆けて行くカールに集中する。
しかし、それらを一顧だにすることなく駆けて駆けて、駆け続けて行く。
「ああそうだ、庵。俺が良いと言うまで目を瞑ってな」
「え? あ、はい。分かりました」
言われるがまま、目を閉じる。
視覚を閉じたからだろうか。
風の音、街の喧騒、聴覚が研ぎ済まれていくのが分かる。
ふと、空気が変わった。
(……どこか、建物の中……? 油の臭い、何かが動く……歯車?)
一体自分はどこに居るのだろうか。
首を傾げていると、カールが足を止める。
同時にそっと、庵の身体が地面に下ろされた。
「目を開けて良いぞ」
言われるがまま目を開ける。
飛び込んで来たのは……カールの逞しい身体だった。
視界いっぱいに広がる想い人の肉体に困惑する庵。
そんな彼女を見てカールはクスリと笑う。
「さあ、準備は良いか?」
「え、あ、はい」
よく分からないまま頷く。
すると、視界を埋め尽くしていたカールの身体がゆっくりと横にずれていく。
「ッ」
風が吹き付け、一瞬、目を閉じる。
再度、目を開けるとそこには――――
「ぁ」
空の蒼、雲の白。
眼下には遠く広がる街並みと、そこに生きる人々。
言葉にしてみればそれだけ。
なのに、ああ、何故だろう。
心が受け取ったものは、もっと、もっと、多かった気がする。
「「……」」
無言で時計台の淵に佇み無言で景色を眺める二人。
ふと、庵があることに気付く。
自分の頬が濡れているのだ。
「あ、あれ……何で……」
悲しくはない。
なのに、どうしてか、はらはらと涙が零れ落ちていく。
「なあ庵」
腰を下ろし、胡坐をかいたカールは膝に庵を抱き寄せる。
後ろから抱き付くように、同じ景色を見つめながら語り掛ける。
「庵の境遇考えたらよ、こっちに来てからも嫌なことや辛いことのが多かったろうさ。
当たり前だ。世の中全部が嫌いになっちまっても無理はない」
でも、とカールは言う。
「嫌いなものが多いってのは疲れると思うんだ。
だからよ、ちょっとずつで良いから好きなものを増やしてこうぜ。
俺はお前には、ずっと幸せな気持ちで笑ってて欲しいんだよ」
穏やかな声色が耳を通って、心に染み渡っていく。
「庵、ここから見える景色はどうだ?」
「……生きている、生きる力が……ごめんなさい、何て、言えば良いのか……」
「難しいことを言わなくて良い。シンプルに好きだとか嫌いだとか、綺麗だとかそういうので良いんだ」
「……好き、です。綺麗だと、思います。もっと、ずっと見ていたいと……」
庵がそう答えるとカールは笑った。
「そっか」
「はい」
「帝都も、そう悪くねえだろ?」
「はい」
「無理に好きになれとは言わねえよ。でも、好きになれたら良いな」
胸が、胸がいっぱいになる。
温かくて、柔らかくて、優しいもので満たされていく。
「――――はい!!」
やっぱりこの人は、私の幸いなのだ。
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