MONSTER④
少し親馬鹿気味ではあるが強く頼り甲斐のある父。
厳しくもあるが、それ以上に優しい母。
兄弟姉妹との仲はあまりよろしくなかったけれど、総じて幸福な家庭だった。
今日ある幸せが明日も続くのだと、何の疑いもなく信じていた。
ただそこに在るだけの幸福なぞ脆く儚いものなのに。
幸福を持たぬ者はそれを得るために努力しなければいけない。
幸福を得た者はそれを護るために努力しなければいけない。
でなくば、幸福というものは硝子細工のように呆気なく砕け散ってしまうのだ。
だから――――次はもう、間違えない。
「ん……」
目を覚ましたアンヘルの視界に飛び込んできたのは見知らぬ天井だった。
自身が暮らす屋敷とは似ても似つかぬ粗末な造り。
なのに、この上ない安らぎを感じるのはきっと……。
「起きたか」
起き上がり声が聞こえた方を見やると、
ベッドの縁に腰掛読書をしていたカールと視線が交わる。
ただそれだけ、ただそれだけのことなのに胸が温かくなった。
「何を、読んでたの?」
「ん? 帝都の風俗案内」
じんわりと胸を温めていた熱が嫉妬の劫火に早代わりする。
だが、それは悟らせない。望まざることではあったが、これまでも多くを欺いてきたのだ。
であれば今更、内心の一つ二つを隠すことぐらい何するものか。
「……女の子の前でそういうのはどうかと思うな」
激情を苦笑の裏にひた隠し苦言を呈する。
だが、こういうちょっとダメなところも好き。アンヘルの好感度が上昇した。
「ああ、確かにデリカシーがなかったわ。まだ酒が残ってるらしい」
言いつつもカールの視線は再度、風俗雑誌に向けられていた。
最初は自分が目覚めるまでの暇潰しだったのだろう。
だが予想外に劣情を掻き立てられたらしく、今の彼はかなりムラムラしているように見えた。
ある意味好都合だと発想の転換をし、アンヘルは自身の嫉妬の劫火を鎮める。
「ところでさ、気になってたんだけど」
「ん?」
「何かベッドだけ、この部屋に不釣合いなレベルで豪華じゃない?」
何が何でも聞いておきたい疑問ではない。
ただ、もう少しだけ心の準備をする時間が欲しかったのだ。
「戦利品、だからな」
「戦利品?」
「ああ、親父との賭けに俺が勝利した証さ。クフフ、あの中年。もう半年は禁酒しなきゃダメだろうなあ!」
悪戯小僧のように――いや、事実その通りなのだろう。
稚気を隠すこともなく前面に押し出し含み笑いをするその姿にアンヘルの好感度が上昇した。
「カールくんのお父さんってどんな人?」
「普通の父親さ。一般的な父親像からそうズレてもいない、有り触れた父親」
だが、と一度言葉を区切りカールは楽しげに笑い、こう言った。
「俺にとっては最高の父親だ」
アンヘルの好感度が上昇した。
「良いお父さんだったんだね。でも、私のお父さんも負けてないよ?」
ほんの少しの嘘を織り交ぜて、切っ掛けを作る。
「ううん、お父さんだけじゃない。お母さんも最高のお母さんだった。
そんな最高の両親と一緒の幸せな日々が、いつまでも続くんだって、小さな私はそう思っていた」
生まれながらに栄光を約束された者、それが自分だったとアンヘルは語る。
だがその瞳に昔日の栄光を惜しむ色は一切ない。
「それが壊れたのが七歳の誕生日」
誰が仕掛けたのかは今を以ってしても定かではない。
「魔法生命体、って知ってるかな?」
「知らん」
知らないことを素直に知らないと言える。
それはとても素晴らしいことではなかろうか? アンヘルの好感度が上昇した。
「なら説明は省こうか。寄生虫は知ってる?」
「それぐらいは」
「私ね、身体じゃなく精神に寄生する寄生虫みたいなものに取り憑かれたんだ」
精神寄生体と名付けられたそれの餌は人間の”人格”だった。
精神寄生体は一息に喰らい尽くさず嬲るように自分を喰らった。
日々欠落してく己に恐怖し、夜毎涙した。いっそ殺してくれと叫んだ。
だけど、誰一人としてそれを聞き入れてはくれなかった。
きっと救える手段があるはずだと、希望に縋りつく者ばかり。
アンヘルも自分を想うがゆえだと理解はしている。
だが事はあまりに複雑で重過ぎた、到底割り切れるものではない。
「……うちは魔法大国だろ?
その、精神寄生体? ってやつは魔法の産物なんだろ? 研究はしてなかったのか?」
「そういう発想がまずなかったんだよ。あれは完全なオリジナル」
あれを創造した人間は正真正銘の鬼才だ。
今を以ってして帝国の優秀な魔道士らが再現できていないのだから根本的な対処は難しい。
しかし、帝国には精神寄生体を創った者とはまた異なる鬼才が存在していた。
「けど、もうダメだって時にね。ある人が独断で私にとある魔法を施したの」
残された時間は少なく、だからこそロクに実験をしている暇もなかった。
完全なる博打――人格の植え付けだ。
「ああ違うね。植え付けるってより生やす……かな?」
何にせよ術者は別の餌を与えることでアンヘルの人格を護ろうとしたのだ。
「それは半分成功で半分失敗だった」
術者の目論見通り、精神寄生体は新たな餌に飛びついてくれた。
しかし、新たな問題が発生したのだ。
アンヘルに刻まれた術式が暴走し際限なく人格が製造されるようになってしまった。
「ん? オートで人格が誕生するようにしたのか?
その都度、外部から植え付ける方が安全じゃね?
出来るかどうかは魔法に詳しくないから分からんが、オートで人格生み出せる魔法があるなら……」
良い着眼点だ、アンヘルの好感度が上昇した。
「うん。その方が安全だよ。でもね、それじゃ間に合わなかったの」
精神寄生体、それは形なき存在だが生命なのだ。
生命である以上、当然”成長”する。
子供と大人、どちらが一度により多くのものを口にできるかなど考えるまでもない話だろう。
「現に精神寄生体が完全に成長し切った今だと大体三十秒に一つのペースで人格が食べられてるしね」
もっとも、生成されるペースはそれよりも遥かに速いのだが。
暴走の原因は何だったのか。術式が不完全だったからか。
アンヘルが身に宿す魔力が莫大過ぎたのか。これもまた、今を以ってしても不明だ。
「今度こそ、もうダメだと思うでしょ?」
精神寄生体の魔の手からは逃れられた。
だが今度は別の問題が生まれた。暴走によって生じた大量の人格だ。
人工的に作り出したからなのか何なのか、通常の多重人格のように切り替わることがなかった。
全てが主人格なのだ。仮に本物の主人格が無事ならまた話は違ったのかもしれないがそれは仮定の話だ。
死に体としか言いようがないアンヘル本来の人格に他人格の制御なぞ出来るはずがなかった。
「もう、十分だよね? 手は尽くしたよね?」
「……」
「やっぱり、私、終わらなかった」
廃人化寸前で深い昏睡状態にさせられたアンヘルに新しい人格が植え付けられたのだ。
無数の主人格の上に位置し、問題なく営みを送れるようにプログラムした擬似人格。
そのせいで――いや、今となってはそのお陰と言うべきか。
廃人になることもなく、今日までを生きてこられた。
「私を繋ぎとめた人たちは何を考えていたんだろうね?」
アンヘル本来の人格は風前の灯で意思表示などできやしない。
際限なく沸き出す人格と、それらを制する擬似人格に支配された肉体。
それは最早、アンヘルという人間の形をした別の何かではないのか?
「カールくんはどう思う?」
「知らんよ。本気で知りたいのなら、それは俺に問うべきものじゃないだろう」
厳しい言葉だ。
しかし、その裏には優しさがある。アンヘルの好感度が上昇した。
「ふふ、そうだね。正論だ」
この上ない正論だ。
だがまあ、アンヘルは別に本気で知りたいとは思っていなかった。
父も、母も、どうでも良い。かつての幸せを構成していた欠片は最早ただのガラクタでしかないから。
「…………恨んでるのか?」
「どうなのかな、わかんないや」
主人格と言っても最早、燃え滓のようなもの。
無数の人格に追いやられ心の奥底で揺蕩っていた時はロクに思考もできない状態だった。
「私に許されていたのは叫ぶことだけ」
自分が何者かも分からず、どんな状態にあるかすらも理解できていない白痴のような有様。
それでも本能に近い願いだけが辛うじて消えかけていた自分を繋ぎ止めていた。
だが、それにしたっていつまでも続くわけじゃない。遠からず完全に消滅する定めにあった。
最早、アンヘルの運命は誰にも覆せない――その、はずだった。
「君が、君が変えてくれたの」
その奇跡を何と喩えよう。
「私の”声”を君だけが拾い上げてくれた」
どんな言葉で飾っても足りない。
「もう誰の目にも映らなかった本当の私を見つけてくれた」
万の言葉でも伝え切れない。
「私はここに居るんだって言ってくれた」
想いだけが、溢れ出す。
「ありがとう……ありがとう……」
零れ落ちる涙を拭うこともなくアンヘルは何度も何度も感謝の言葉を繰り返した。
「君のお陰で、私、今、ここに居るよ……」
衝動のままカールの胸に飛び込む。
彼はそれを拒絶することもなく、少し困ったような顔で受け止めてくれた。
「好き、大好き」
「え」
「愛してる」
「え」
「もう、君しか見えないよ」
擬似人格を利用してどうにか会話を成立させていたが、もう限界だった。
溢れ出る想いを抑え切れない。
こんなんじゃダメだと分かっているのに、想う気持ちが言葉になってしまう。
「ま、待て待て待て。落ち着け、今の君は冷静じゃない」
焦ったような声、彼の言い分も理解できなくはない。
吊橋効果による一時の激情だと受け取られるのも無理はない。
だけど、
「君じゃなくても良かったのかもしれない」
遠からず消えていたとはいえまだ猶予はあった。
ひょっとしたら、この先別の誰かが自分を見つけてくれたのかもしれない。
――――けどそれは
声にならない声を聞いてくれたのは、ここに居るのだと言ってくれたのは、カールだ、カール・ベルンシュタインだけなのだ。
虫食いだらけで今にも朽ち果てそうだった心、その欠落を埋めたのはカールへの愛だ。
これを否定するのは自分自身を否定することに他ならない。
「私にとっての真実は君だけなんだよ」
そう言って圧し掛かるようにしてその唇を奪う。
体格差はかなりのものだが、身体に力が入ってなかったのだろう。
カールを押し倒すような形になってしまった。
「うお!?」
「愛します、君の嘘も、真実も。何もかもを」
都合の良い女になります。
約束します、君が望むならどんなことでもやります、従います。
でも今は、今だけは許してください。
君を想う気持ちに歯止めが利かないんです。
だから今宵は、今宵だけは――どうか、どうか最初で最後のワガママを受け止めてください。
アンヘルは嵐のように吹き荒ぶ愛情のまま、もう一度唇を奪った。
「ん、ふぅ……ッ」
縺れ合う舌と舌。
混ざり合う唾液と唾液。
知識では知っていた。
ただ、この行為に何の意味があるのか甚だ疑問だった。
だけど理解した、これは理屈じゃない。本能だ。
「ッ――はぁ……!!」
酸素を求め一度、離れる。
生命活動を滞りなく行うために必要な判断だった。
なのに、心はこんなにも寂しがっている。
この切なさがもっと強くなった時、多分、人は命を捨てられる――――
(ああ、これが愛なんだね)
恍惚の中、アンヘルは一つの真理を見つけた。
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