シャワーの音に揶揄われた気がした
扉の向こうからは微かな水音。それに混じって唸るような鼻歌が聞こえて、工藤はゴミ袋を抱えたままひっそりとため息をついた。
ゴミ袋の中には血みどろのアロハシャツを手始めとして、満遍なく血に汚れた衣類が詰めてある。エンと二人で脱衣場に着いた時には既に扉の前に血の染み渡った衣類と飛沫が斑模様になった紙包みが積まれていて、とりあえず衣類をゴミ袋に詰めたはいいが一応着ていた人間の許可を取ってから捨てるべきだろうと――普通に考えれば廃棄するはずだろうが――他人の所有物を無断で捨てることへの罪悪感に負けた結果、工藤は血なまぐさいゴミ袋を片手に脱衣所の戸前に案山子のように突っ立っている。何故こんなことをする必要があるのかは工藤にはさっぱり見当もつかない。所長から指示された通りに着替えやなんやの支度を終えたあと、当然のようにエンは扉の前に立って動こうとしなくなってしまった。工藤としてはあんなよく分からない人物の入浴を律義に待つ理由もないのだけども、馬鹿でヤンキーであるとはいえ先輩である彼を放って怖い
「風呂長いんだよなオトの兄貴。たまに銭湯行くとさあいっつも待つの。奢ってくれるけどさコーヒー牛乳」
「オトさんっていうんですかあの人」
エンは一瞬だけ怪訝そうな顔をしてから、合点がいったように数度頭を揺らしてから答えた。
「そういや意識あるときに会ったの初めてかクドー。そうオトさん」
「意識ないときに会ってるんですか……?」
「初日事務所でぶっ倒れてたお前を部屋まで運んだのオトさんだよ」
あれから会ってなかったのかと驚いたように言うエンに、工藤は曖昧な笑顔を浮かべて微かに頷く。そういえばこの間、エンが辻斬りの被害にあって首をもがれていたにも関わらず食堂を案内してくれたときにそんなことを言っていたなと工藤は記憶を引きずり出す。ついでに皿の上にごろりと転がったエンの頭という衝撃的な画を思い出して、ひどく嫌な気分になった。
「あのときは俺の首もまだちゃんとくっついてたしなあ。あの直後だもん首取れたの」
事情を知らない人間が聞いたら正気を疑うようなことをしみじみと言いながら、エンはずるりと自分の首を撫でる。工藤が恐る恐る首筋に視線を向けると、黒々とした見慣れない文字の描かれた札がぐるりと取り巻くように貼られているのが見えた。
「それ……くっついてるんですか」
「こないだ一緒に医者行ったろ。完璧にはくっついてねえけど、前ほど雑でもねえからそこそこって具合だな」
エンが言っているのが辻斬り事件の後に所長の車で連れて行ってもらった医者のことだと思い当たって、工藤は思い出しそうになる思考を無理矢理逸らす。
「クドーは特に何にもなかったんだろ。よかったじゃん」
「一応血とか抜かれたりはしたんですけどね。エンさんは結局首どうしたんですか」
「とりあえず色々やったけど、古傷のせいもあって完全にはくっつかねえのよ。くっついてるように見えるけどなんか……中身が駄目なんだって」
「じゃあまた取れたりするんですか」
工藤の顔に怯えが走る。エンは荒れた声で短く笑って、
「前ほどぼろぼろ取れたりはしねえよ。そーだな、子供が適当に打った釘ぐらいには取れやすいってさ」
「結構際どい強度ですね」
「お姉さんにじゃれつかれるくらいなら平気だけどな。野性のレスラーにラリアットかまされたら間違いなくもげるよ」
なら大丈夫ですねと答えようとして、この辺りではその程度の危険ならそこそこの頻度で起きるのではと不穏なことを思いつく。だがそれを会ってそれほど経っていない相手に不用意に口に出すのは躊躇われて、工藤は黙って頷くだけにした。
相変わらずシャワーの水音は鳴り止まず、鼻歌は心なしか盛り上がっているようにすら聞こえる。陽気な人なんだろうかと至極単純な連想をしてから、事務所に現れたときの血まみれの相貌を思い出して、陽気かもしれないが真っ当な人ではないのだろうなと工藤は救いのない予測を立てて溜息をついた。
「……エンさん、お聞きしてもいいですか」
「何」
「オトさんってのは、あの――どういった方なんですか」
「兄貴分」
怖々と発した問いに端的な答えが返ってきて、工藤はあっけにとられてエンを見る。エンはいつもと同じ調子で、ざらりとした鴉声で続けた。
「古株なんじゃねえの多分。カガさんより古いんじゃねえかな。少なくとも俺よか先にカシラの手下やってるよ」
「カガさんとはその……仲、悪いんですか」
初っ端の言い争いを思い出して工藤はエンに問いを投げる。カガと関わってまだ日は浅いが、その短い記憶の中でも気は短く乱暴で比較的すぐ手が出る類の典型的なチンピラらしい振る舞いのあれこれを見たことはあっても、あんな風に積極的に挑発にかかるような姿には覚えがなかった。
「良くはねえな。カガさんは容赦ないしオトさんは気ぃ荒いし」
「荒いんですかオトさん」
「短気ってわけじゃねえよ。ただ何だ、あー……猛獣みてーなところあるからな。加減がねえの」
言ってエンは工藤に向かって歯を剥いてみせる。行為の意図が掴めずに、工藤はうろうろと視線をあちこちに移してから、
「あの……何ですかその、威嚇とかですかそれ」
「歯」
「は?」
「歯。綺麗だろ」
確かに初めて会ったときから異様に白くて見事な歯並びだとは思っていたので、工藤は黙って頷く。満足げにエンはがちがちと二三度歯を鳴らしてから、
「なんせ一回叩き折られて入れ直したからな。容赦ねえんだものオトの兄貴」
「おられた」
「まー初対面のときに色々あってさあ。退院して事務所来てまた病院にとんぼ返り。医者がウケんの通り越して激怒してんの」
「新人にいきなり何吹き込んでんだお前」
突然に脱衣所の戸が開いて、ぼたぼたと雫を垂らしながら人の頭が突き出された。
「ちゃんと半額出したろ。あんまり人の悪口言うんじゃないよ」
第一印象最悪じゃんなあとずぶ濡れの顔でオトが笑う。工藤は口の端を引き攣らせながら、ぎこちなく一礼した。
「風呂済んだんすか兄貴。着替えとタオル置いといたはずですけど」
「いや使おうとしたら悪口聞こえんだもんそりゃ出てくるよ。新人さんに怯えられちゃ悲しいものおじさん」
「悪口じゃないですよ、世間話みてえなもんですもん……服どうします、一応まだ捨ててねえすけど洗ったりします?」
エンがゴミ袋を無造作に指す。オトはゴミ袋と工藤に順繰りに視線をやってから、首を左右に振った。
「あー、捨てといてくれる? けだものの血とちっとだけ人の血だからさすがにもう無理だろ。着れねえ。包みだけ置いといてくれ」
「いいですけど何やってきたんですか兄貴」
「いやまあ野暮用だったんだけど……世の中の話ってどう転がるか分かんねえから楽しいもんなあ」
よく分からないことを呟くように零してから、オトはがしがしと濡れたままの髪を掻き回す。やたらと強いミントの香りに混ざって微かな血臭がしたような気がして、工藤はほんの少しだけ眉を寄せた。
「とりあえずすぐ着替えるからちょっとだけ待っててくれや。そんときにまとめて説明するからよ」
新人さんもあとでなと不意討ちのように呼びかけられて、工藤はびくりと身を強張らせる。オトは一瞬だけ片目を細めてから、べたりと大きな手で濡れた額を拭った。
「本当にさあ、思いもしねえもんにぶち当たるんだもん。せっかくご縁ができたんなら大事にしねえとさ、バチも当たるってもんだ」
なんせ今回のはなかなか面白いからなと言って笑った口元に獰猛そうな八重歯が覗いて、ひどく野蛮なけだもののようだなと工藤は思った。
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