天国と屁泥
羽暮/はぐれ
天国と屁泥
アパート一階、角部屋の私を起こしたのは電動ドリルの轟音であった。
ちくしょう角部屋で隣人トラブルかよと思ったが、どうもおかしい。というのも、よくよく耳を澄ましてみると、そのドリル音がするのは隣室の反対、つまり何もないはずの空間から生じているのであった。
すわ、朝ぱらから怪談に出くわしたもうた、と思い恐々としながら私はドアを開けるか開けぬか悩み、さしあたってまずハムエッグを焼いて食った。
トーストも焼いて食った。馬鹿みたいなドリルの音が止まなかった。
コーヒーを飲みながら私は段々イライラしてきて、もう、ある程度かんかんというか、恐怖よりも
私はドアを開けて左を睨んだ。
人が居て男であった。男は白い清らかなバスローブに身を
壁を見ればなるほど、そこを
と思って私は声を掛ける。
「ちょっとアナタ、何を狂ったことをなされているのですか」
私が問うと、男はドリルを即時に停止させ、玄妙な仕草でそれを床に置いた。そして深々と一礼。顔を上げて話し始めた。
「ご迷惑をおかけしております。担当の成田誠一と申します。私は壁を掘削して住居を作ろうとしておるのです。おはようございます」
「あ、どうも」
思いのほか男の所作、受け答えが真っ当だったので私は面を食らった。しかしすぐに気を戻して、
「そうじゃなくて困りますよ。こんなことされたら」
「それは何故?」
「何故ってのはね」
そこまで言って私はいったん悩んだ。
「まず私は大家からそんな話を聞いていない。それは当たり前で、こんな事に許可が出る訳もなく、となるとアナタは無許可でこんな事をしてることになる。法律はよく分からないが先ず
と言った。
すると男はおほほと笑った。よく見ると無精ヒゲが生えていて小汚く、脇の辺りからは酸っぱい臭いがしていた。
「なんですか、何を笑っておられるのですか」
「おもろいから笑っているのです。と言うのも、俺はまず神の使いというか、まあ、一口に言えばあなたがたに天使と呼ばれているもので、その我々が人の子に許可を取り求めること、これがまず無いのですね。したがって私は無許可でここを掘る」
と
私は片手で目や鼻を覆いながら絶叫した。
「やめろ! やめろ!」
男はもう、腹の底から面倒やなあ、という口調で「なんなんすか?」と言ってドリルを止めた。なんすか? ではなく なんなんすか? と言った所に、私を完全な厄介者として処分する気概があって腹が立つ。
「もういい、いい。大家と警察に通報させてもらう」
「ああ、はい」
そんな事ですか、みたいな口振りであった。私は怒りに床を踏み鳴らし、部屋に取って返してスマートフォンと財布を握り部屋を出た。爆轟のような掘削音が
通報するにも音が聞こえないので、私はアパートのエントランスを出て外へと向かった。ついでにコンビニでも寄ろうかしら、と考えて、はたと止まる。そういえば、これだけ
スマホの画面を見るに今は朝7時で、このアパートの全住民が出払っているということはまずない。となれば、この異状は私にしか知覚されてないのではないか。思えばあの男は様子がおかしいし、私の頭は狂ったのではないか。
そう思って私はアパートの方を振り返り、パシャ、写真を撮った。男の潔白なバスローブが風を孕み揺れる様子が確かに映っている。この画像を誰かに見てもらい、何の変哲もないアパートの写真だと言われればもう、論じるまでもなく発狂が確定する。
私は妹に写真を送り、『なんか見えますか?』と添えて画面を消した。
その後コンビニに寄って、ジャンプと濃縮コーヒーとワンタンスープとボトルガムを買った。ああ、セブンスターも買い足そかな、と思ってこれも買った。
手近な公園に乗り込んでベンチに座り、気ままにワンタンを啜る。妹からの返信はない。そういえば、天使という男は部屋を作っていったい何を始める気なのだろうか。天国かなんかの経営だろうか。なぜ人家に? 疑問は尽きない。
ワンタンは尽きた。私は取るに足らない味の醤油スープを飲み干して、既に容量の限界を見せているゴミ箱にカップを押し込んだ。
煙草を吸った。妹の返信が来た。
『うんこ』
うんこが無いのにうんこが見えているというのもまた病的であり、このアパートは何かしら人を狂わせるのかも知らん、と思って私は警察への通報をやめた。家に帰ると、角部屋の隣ではドアの建付けが済んでいた。無機的なアイデンティティが損なわれていた。
バスローブの男は、外部からドアノブを開け閉めしてその具合いを確かめていたが、やがて接近する私に気付き、
「おおきに」
と挨拶した。「おおきに」と私も返す。
爽やかな風が吹いていた。
「で、この部屋はなんなんですか」「や、ままま、一般に言われるのだと天国すね」「あーやっぱ」「ええ」「天国ってどんな感じすか?」「入ります?」
となって、私は生前に天国へと入室することになった。と言うかもう死んでいるのかもしれなかった。
天国は六畳ほどだった。意外と手狭な空間のそこここに、十五人からの老爺と老婆がぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、廊下までみっちり隙が無かった。我々は無理やり間隙を縫って奥へと潜入した。誰も我々に文句を言わず、なんというかアホのような面構えをしていた。
居間にはソファがあって、テレビがあって、食卓があって、新聞が散乱している。台所ではきままにうどんが茹でられ、皆が自由にそれを食んでいた。
ソファに座る人たちを見ると、なぜかみんな食卓に向かって原稿用紙を書いていた。私は頭が痛くなった。小説の締め切りがそろそろ迫っているのだ。
「何をしているんですか、彼らは」
「小説を書いているのです。彼らは」
「なぜ?」「なぜなら彼らは生前に腐るほど小説を書いて、それでもまったく売れなかったのです」
私は、なんと悪趣味な、と思った。そのような人々は死後、小説からきっちりと足を洗って、なんというか通常我々が想起し得る天国のイメージ、美酒美肴と美男美女、ブドウなんかも摘まみながらワイワイやる、みたいなことをすればよいのではないか。
この思念をキャッチしたのか男は、
「いや、これは彼らの望みなのです」
と言った。
はて、どういうことか。
「どういうことかと言うと、彼らは生前売れっ子作家になりたかった人たちで、それを天国で叶えさせているのです」
「となると彼らはみな売れっ子?」
「そうです。全員が売れっ子です。皆が
「もういい、いいです。なんで売れなかったかちょっと
「左様で御座いますか」
老爺たちは我々の談をものともせず、ああでもないこうでもないと、しきりに呟き目をギラギラさせて原稿を書いている。
ちょっとだけ羨ましく思い、私は彼らの原稿を覗いた。するとこれが激烈に面白くなく、基礎的な体調を失して私は吐いた。下痢をした猫でももうちょっとマシなものが書けると思った。私の吐瀉物で原稿がメタクソになった老人は激怒する、と思いきや先ほどと変わらずにやにやしている。うどんを啜っている。気が触れているようだった。
私は遠慮せず男に言った。
「全っ然、面白くない」
「そりゃそうです、才能が無いんだから。がしかし、我々が文才を付与させてみてもこれは意味が無い。と言うのは、彼らはありのまま、労せず売れたいと思い、才もないのに
「馬鹿の集まりじゃないか!」
私は叫んだ。
老人や男は
「馬鹿を救うのが天国な訳です。彼らは馬鹿ですが馬鹿なりに悪をしなかったのでここに招かれた。そして馬鹿な理想を叶えるのです。彼らは皆、自分に埋もれた才覚と魅力とカリスマがあると思いながら死んでいった」
なにかとんでもない打撃を心に受けて、私は閉口した。
彼らと私は、何か根本的なところで同じものを有してはいないだろうか。私に才能はあるのだろうか。どこかで一路を間違えると私もここに落ちるのではないか。
いや、この場合落ちると言うのは正しくない。上昇、そして停滞。一生どころか無限遠に続く無様な恍惚の中で私は停滞するのだ。
私は恐怖して部屋を出た。確かな生命を感じさせる汗が全身を濡らしていた。
「どうでした?」「最悪でした」
「私もそう思います」
男はドアを閉ざした。それで何も聞こえなくなった。ドア自体が消滅していた。
「頑張ってください、原稿」
「ありがとうございます」
男は臭い屁のような臭気とともに宙に浮かび、やがて完全に透明となって見えなくなった。
スマートフォンのバイブレーションが、フェイクレザーのパンツを揺らしていた。
私は自室に戻り、ノートPCを立ち上げてWordを開いた。
画面に、妹からの通知がある。
『猛烈うんこ』
私も『うんこ』と返した。なんてことない日。
天国と屁泥 羽暮/はぐれ @tonnura123
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