第14話  恋のはじまり


打ち上げ後の週末明け、出社した時から土門は口数も少なくずっと不機嫌だった。

仕事は、黙々とこなしていたが、機嫌が悪いオーラは誰が見ても明らかだった。

桂木は、むしろ静かに仕事が出来ると放置している。

岩橋は、昼休憩を取りに土門が外に出ていくと心配気に遥子の部屋にやってきた。


「土門君……何かあったんでしょうか?」

遥子は、コーヒーを手に納品書を確認していたが、肩を軽くすくめて岩橋を見た。

「……さぁ。何かあったのかもしれないし、ただ虫の居所が悪いだけかもしれないし。」

淡々とした遥子の返事に岩橋は片手を頬に当てた。

「あんな彼、初めてです。白岡先生とのカバー構想が上手くいかなかった時だって、あんなにイライラしてませんでしたのに……」

まるで姉のような心配の仕方に遥子は苦笑した。

「仕事に支障が出ているの?」

「いえ……健さんは静かでいいと言ってます。仕事のスピードはいつも通りです。むしろ少し早いくらいかも…」

「じゃぁ、いいじゃない!早いなら何よりだわ。機嫌ならそのうち直るでしょ?」

何となく納得いかない様子で退室する岩橋の背を見ながら、遥子はそっと唇を噛んだ。

何をそんなに怒っているのだろう?

不機嫌というより、何かを怒っているように感じていた。

あのキスが、よっぽど不快だったのか?

いや、それは考えられないし、キスをした立場としてはそうは思いたくない。

もちろん、後悔はしていた。

心に委せての衝動的なキスではあったが……冷静さを失った自分に後悔していた。

仕事とプライベートを分けて動けるだけの経験値はあったから、土門のあからさまな変化を、見て見ぬ振りを決め込んだが、内心混乱していた遥子だった。


「小僧、まだ帰らんのか?そんな急ぎの仕事じゃないだろう?」

桂木が五時半で仕事を置くと、土門に声を掛けた。

「……キリがついたら帰りますよ。お疲れ様でした。」

最後まで変わらなかった不機嫌なテンションに桂木はやれやれと肩をすくめ、帰路についた。

岩橋も、戸締まりはするから帰っていいと遥子に言われ、最後まで土門を気に掛けながら事務所を出た。


桂木、岩橋が帰れば、待ち構えていたかのように土門が部屋に飛び込んできて怒りをぶちまけるだろうと踏んでいた遥子だったが、彼のキーボードを叩く音が止まることはなく、その後も暫くは奇妙な静寂が続いた。

今か今かと待っている心境では、手元にある次の営業の為の見積書も気がそぞろで頭に入ってこない。

とうとう遥子は痺れを切らし、隣の部屋に向かった。


「ねぇ!いつまでだんまりを続けるつもり?」

ドア口に立つと、苛立ちを隠さずに声をかける。

土門は、ややあってからゆっくりとこちらを見た。

相変わらず怒りを湛えた眼差しのままだ。

「……だんまり?誰がだんまりですか?僕ですか?貴女ですか?」

その嫌味な言い方に、遥子の苛立ちは募る。

「周りを巻き込む程のその不機嫌さで1日過ごした理由を聞いているのよ!」

遥子は両手を腰に当て、続ける。

「何をそんなに怒ってるの!?間違いなく私に対してよね?何が気に入らないの?」

土門は目の前のパソコンを睨み付けながら閉じると、立ち上がった。

そして遥子の方へ歩み寄った。

「……何を怒っている?何が気に入らない?それ本気で言ってますか?」

「わからないから、聞いているの!」

遥子は自分より少し高い土門の顔を見上げ、睨むように見つめた。

土門はすーっと人差し指を遥子の唇に当てた。

「……あんなキスを突然投げて、貴女は僕をもてあそんでいるのかな?それとも僕の気持ちを知っていてからかって楽しんだんですか?」

唇に指を当てられ、遥子は口を開けなかった。

「大人のキスって何ですか?自分に好意を抱く男を弄ぶキスですか?……じゃぁ、これは?」

土門はそう言うなり、遥子を左腕で抱き寄せ、右手で頭ごと引き寄せ覆い被さるように唇を奪った。

いきなり唇をこじ開けられ、舌を絡め取られる激しく熱い燃えるようなキスに、遥子の全身はざわめき立った。

怒り、苛立ち、恋しさ、愛しさ、彼の中にあるそういった感情がキスから伝わってきて、遥子は目眩と共に思わず土門にしがみついた。

こうなることはわかっていた。

心のままにあんなキスをすればこうなることはわかっていた。

そしてそうなることを望んでいた自分の心もわかっていた。

遥子の中の何かが弾け、同じような激しさでキスを返す。


激しく貪り合うようなキスは、二人の呼吸を奪い、息苦しさで唇を離した。

おでこを密着させながら、目を閉じ息を整える。

土門の温かい両手は遥子の頬を包んだままだ。

そして少し顔を離すと、熱に浮かされたような潤んだ眼差しで遥子を見つめた。

「………これは、僕の貴女への想いの丈のキスです。」

「…………伝わってるわ。貴方の想いは初めから……伝わってる。」

遥子の声はどうしようもなく震えた。

「僕の想いを受け入れてくれたと……理解していいですか?」

遥子は土門の言葉に頷くことが出来ずに、目を閉じて彼の胸におでこを預けた。

「………少し……時間をちょうだい……」

「何のための時間ですか?」

遥子は冷静になるために、土門の腕の中から1歩下がって距離を空けた。

「貴方の気持ちは、女としてとても嬉しいわ。何の感情も持てない人とこんな風にキスを交わせる程、私は軽い女でもない。」

遥子は辛そうに続ける。

「でもね……貴方が想ってくれている私は、あくまでも私の一部であって、全てではないの。」

「……どういう意味ですか?」

土門は訝しげに遥子を見た。

遥子はつと顔を上げて、土門を真っ直ぐ見て微笑んだ。

「例えばね……私が元犯罪者だったら?私が、かつて人を殺そうとした女だとしたら?私が実はストーカー女だったら?貴方はどう思うの?それでも私を好きだと言える?」

敢えて明るく、世間話のように言ったつもりだった。

だが遥子の顔は苦痛に歪み、その瞳には涙が滲んでいた。


土門が知る、いつもの凛とした彼女からは想像もしたことがないような表情だった。

ショックだった。

かつて、誰かがこんな表情をさせるほど彼女を傷つけたのだとしたら……そう考えただけで土門は体中が怒りに震えた。

だがそれが遥子に対する怒りではないことを自覚すると、固く目を閉じて抑え込む。


土門はゆっくりと目を開けて、優しさをたたえて、遥子に微笑みかけた。

「今の遥子さんの質問に、僕は全部答えられますよ。」

土門は自分のデスクの端にちょこっと腰を掛けた。

「まず、最初に伝えておきたいことは、僕の貴女への信頼が絶対的であること。その根拠は、貴女の仕事への向き合い方や考え方、部下に対する寄り添い方。」

遥子はまるで何かの審判でも受けるかのように立ち尽くしていた。

「元犯罪者だったら、でしたっけ?……元ならいいんじゃないですか?だって、ちゃんと償っているから元なんでしょうし。」

淡々と、だが説得力のある土門の言葉に遥子の呼吸は浅くなる。

「えーと、次は……人を殺したいと思うような女だったら、でしたっけ?」

土門は腕組みをして軽く頷いて見せた。

「誰にでもあるんじゃないですか?僕にも二人ほどいますよ。実際に殺しはしませんでしたけど。遥子さんの経歴から考えても殺したりしてないのはわかるので、心情としてですよね?」

そこで土門は軽快に笑った。

「頭の中でなら殺したいほど最低の奴なんて、っちゃってください!」

土門の明るい言い方とは逆に、遥子の唇は小さく震え、その瞳には今にも零れそうな涙で潤んだ。

「最後は……ストーカー女でしたよね?これは、逆に僕なら大歓迎なので!」

とうとう、遥子の瞳からポロポロと涙が零れた。

土門は机から腰を外すと、遥子に近づき、そっと優しく抱き止めた。

「こんなに愛しい人にストーカーされるなんて、どれだけ幸せだろうか……」

遥子は土門の溢れる優しさに触れ、その腕の中で泣き出した。

仕事柄プライドが高く、人に弱味を見せることを嫌い、滅多に泣いたりしない自分が、誰かの腕の中で泣く……そのあまりにも非日常的な出来事に遥子は混乱した。

かつて、江上との感情のすれ違いを対峙した際、はっきりと振られた時に、彼の前で涙が溢れることを止められなかったが……それは、あくまでも不覚の涙だった。


「遥子さん……」

遥子の涙が落ち着くのを待って、土門が尋ねた。

遥子は涙を指で払いながら、顔を上げた。

土門は遥子の頬にまだ残っている涙の跡を優しく親指で拭きながら、困ったような切なそうな顔で笑った。

「僕は……まだまだ未熟者です。本来なら、このまま黙っているべきなんでしょうが……」

珍しく途中で口ごもった土門の続きの言葉は容易に想像出来た。

遥子は、少し迷いながら口を開く。

「……土門君が知りたいのは……私の過去でしょ?昔、何があったか……何をトラウマのように持ち続けているのか……よね?」

「……器のちっちゃい男だと、思いますよね…」

土門はちょっと苦しそうな笑を浮かべた。

「こんな悲しそうな顔をしなければならなかった……貴女の過去も全部欲しいと思うのは……我が儘過ぎますか?それこそ、遥子さんの1部ではなく全てを共有したいと望むのは、余りに図々しいですか?」

遥子は涙の収まった瞳で土門の真っ直ぐで正直な瞳を見つめた。

逆の立場だったら……

やはり、本心では相手の過去も知りたいと願うかもしれない。

過去の痛みも共有したいと望むかもしれない。

「土門君……時間が欲しいと言ったのは……私に度胸がないからよ。自分の醜い部分をさらけ出す勇気も覚悟もないから……」

土門の表情は遥子の言葉を受けて、辛そうに歪んだ。

だが、遥子はニッコリ微笑む。

「ドライブに、行きましょう。ご褒美に行きたいと言っていたドライブに近々行きましょ?」

その日までに、全てを打ち明ける勇気が持てるかどうかもわからなかったが……とりあえず時間が欲しかった。

土門への気持ちですらきちんと把握出来ていない。

彼の想いはわかっている。全身で求め、守ろうとしてくれているのも伝わってくる。

ここまで誰かに大切に想われたことがないのだと、今更ながら思い知る。


「行きましょう!」

土門は何かを振り切るように大きく頷いて笑顔を見せた。

「遥子さんと一緒に行きたい所があるんです。」

「どこに連れて行ってくれるの?」

遥子が興味津々に尋ねると、土門はいつものようにいたずらっぽくウインクをした。

「教えるわけないでしょう!?当日のお楽しみですよ!」

いつもの土門らしい笑顔を見て、内心ほっとした遥子はニッコリ笑った。

「楽しみにしているわ。」

土門が人差し指を立てながら、

「遥子さんのタイミングで僕を誘って下さい。待っていますから……」

彼の思いやりある配慮に、遥子はまた泣きたくなった。

「……ありがとう。」

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