徒然田舎医者讒言

詞連

第1話 患わない患者を診る

 患者とはわずらう者である。paintientの語源がラテン語のpatiens(忍耐、苦しみに耐える)に求められることからも、この認識、定義は洋の東西を関わらずに普遍的なものだと言えた。

 ところが、その普遍性はここ最近―――といってもすでに半世紀ほど経過しているが――—覆されている。我々が実臨床、特に診療所の外来で見ている患者の多くは、特に痛みも苦しみも感じていないのだ。


 私は臨床医だ。田舎の診療所で日々顔を見知った患者さん相手に診察をして、時に検査を行い、処方箋を発行している。

 さて、この患者さん達なのだが、その多くが生活習慣病――つまり高血圧、高脂血症、糖尿病等の診断名の下で薬を飲んでいる。心房細動や冠動脈疾患、脳梗塞の既往などで抗血小板剤、抗凝固剤を飲んでいる人も多い。医学的に見て、それらの処方は彼らの健康、ひいてはQOLの維持の為に必要不可欠なものである。それは揺るぎのない事実だ。だが、時たま患者さん方から、こんな疑問を得る。


 「先生、なんで薬飲まねばなんねぇんだ?痛くもなんともねぇよ」


 この問いは極めて重大かつ、興味深いものだと私は思う。

 古来より現代に至るまで、患者は「痛い」「苦しい」という訴えを持って医者を訪ね、医者はそれに対応してきた。

 洞窟に棲む原始のシャーマンは、腹痛を訴える子供に数種類の薬草を煎じた薬を飲ませたかもしれない。中世ヨーロッパの床屋は戦で負傷した騎士の足を見て包帯を巻くか、化膿しているならば四肢の切除に踏み切った。現代の医師は鼻水と咳、そして鼻水を主訴とする患者に対し、季節性の上気道炎の診断の上で、去痰剤と抗ヒスタミン薬に漢方薬、そして屯用の解熱剤を処方する。

 これは非常に分かりやすい図式だ。痛みや苦しみ、外傷に対して、それを和らげたり、原因を取り除くための処方や処置を行う。それが科学的に正しいか(シャーマンの薬草に本当に薬効はあるのか?床屋は四肢切断以外にもすべき処置があったのではないか?医者が診た症例は本当にただの季節性上気道炎か?コロナ感染じゃないか?)は兎も角、『患者を患わせる苦痛を取り除くよう試みる』という点では変わらない。


 ところが科学の進歩がこのシンプルな関係性にチャチャを入れてきた。検査技術と統計学だ。

 X線によるレントゲン検査やCT。超音波やMRI,内視鏡などの画像診断。血液の生化学、免疫、はては遺伝子診療まで。これらにより、患者本人が症状を訴える前に疾病の存在を明らかにし、早期治療を施せるようになった。

 そしてさらに、それらの技術により定数化定量化が可能となり、大規模なトライアルが行われるようになった。HbA1cを利用した糖尿病、血糖管理の、腎症抑制への有用性を証明した半面、主要な大血管障害や死亡のリスク減少を認めないという結果を出したADVANCE。

 幅広い異なるタイプの冠動脈心疾患高リスク患者において,脂質低下療法および抗酸化ビタミンの補充が,死亡率および主要な合併症の発生にどのような効果を及ぼすかを調査したHPS。

 その他多くの大規模トライアルに基づき、いくつものガイドラインが整備され、私たちはそれを用いて患者の診察、治療を行っている。

 これらが疾患管理、予防に有用であり、患者の、ひいては全人類の福利厚生に寄与していることは疑う余地もない。

 だが、我々医師は思い出さねばならない。

 治療されている患者当人―――とくに生活習慣病の治療をしている彼らの大半は、別にその疾患によって『患わされている』わけではないのだ。


 もちろん、検査結果においては違う。高血圧は動脈硬化や危険な動脈瘤を引き起こし、高血糖は微小血管や大血管を侵し、様々な合併症の原因となる。脳梗塞や心筋梗塞、腎不全や腫瘍。患者本人は気付かずとも、あらゆる疾患がその背後に、静かにひたひたと迫ってきている。

 だが、それでも患者としては 『今、別に痛くもなんともない』 のだ。


 これを『医学的に啓蒙されていない故の無知』と断じるのは簡単だ。種々のエビデンスと引っ張り出し、様々な資料(映像や画像、パンフレット)を持ち出して、その危険性を教育し、治療の必要性を説明することも、医療者の義務だろう。

 だがそれでも、私たちは忘れてはならない。


 『今、目の前にいる患者は、別段何かにわずらわされていない』ということを。

 『むしろ、医療費や生活指導の苦痛、そして私達が話す「疾患によって引き起こされる不幸な未来予想」こそが彼らをわずらわせている』ということを。


 誤解のないように明言するが、別に私は、現在の一次予防、二次予防を念頭に置いたガイドラインや、数々の検査技術の進歩、素晴らしいトライアルの成果を否定するつもりも、非難するつもりもない。

 ただ一点。以下のような患者さんたちの気持ちを忘れるべきではない、と言いたい。すなわち

「私は今、わずらう者ではない」

という主観だ。

 治療を開始するにしても、患者教育のため合併症やそのリスクについて説明するにしても、まずその 「今別に痛くもなんともない」 という事実に寄り添わないと始まらない。

 何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、その当たり前の事こそが、今の生活習慣病をはじめとする「疾患の予防を目的とした医療」には大切なのではないだろうか?


 患者がわずらわないこの時代。あるいは患者がわずらわずに済むように治療をするこの時代。わずらわない者に、わずらわしい治療を施さねばならいこの時代。

 そのことを面倒とわずらわず、むしろ楽しみであると思えるようになりたいと思いながら、今日も私は、『別に薬は飲まなくてもいいべ、痛くないし』とDOACを怠薬する心房細動の患者さんに、禁煙と内服の指示を守ってもらうにはどうすればいいか、頭を悩ませるのだ。

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