5th Chart:永倉永雫

 


 呉鎮守府の長官公室を辞して約2時間。市電とバスを乗り継いで目的地の周辺に歩を進めるころになると、周囲は既にとっぷりと日が暮れてしまい、微かに西の空に紫紺が残る程度になってしまった。頭上には満天の星が輝き、薄ぼんやりとした天の川が横たわっている。

 目的地は小高い丘の頂上付近。咥え煙草の紫煙をなびかせ、夏の夜風が草木をざわめかせる音や鈴虫の旋律に耳を澄ませながら、緩やかな傾斜路を登っていく。

 坂の中ほどでふと足を止め、後ろを振り返れば、それなりの光量の呉市内の夜景を眺めることができた。

 街道沿いでは仕事を終えた工廠の職人が冷えたビールに喉を潤し、半舷上陸を許可された乗員たちが束の間のシャバを味わっているのだろう。そして、そんな呉市内の慣れ親しんだ輝きの更に遠くの方には、近未来的な――悪い言い方をすれば場違いな――遺産工廠の姿が有った。

 高層建築など早々無い市街地の向こうに聳え立つ、灰色の巨大な箱の群れ。鈍い金属光沢を持つのっぺりとした外観はモノリスを連想させる。

 あれらこそ有史以来からこの星の各地に点在し、産業革命が起こるまでどのような存在かすら理解される事の無かった、パンドラの箱。

 現物か、詳細な設計図と原材料、大量の重油さえあれば瞬く間に同じものを組み上げてしまう機械仕掛けのデウス・エクス理不尽・マキナ。遺産工廠だ。


 ――あの工廠が無ければ、我々の歩みはより遅かったのだろうか。それとも、この記録の様に同じ程度の進歩を見せていたのだろうか。


 ふわりと浮かんだ【自分のモノでは無い異世界の記録】――個人的に前世のモノと解釈している記憶に意識を向ける。


 日本と欧州の重要な交易路であるシルク洋が全て陸地と化しており、『フラグレス』では無く人類同士が血で血を洗う大戦争を二回も引き起こした世界。

 幼いころから自分の中に根付いていた、ここでは無い何処か、異世界と表現するのが適当とすら思える世界の一個人の記憶だ。


 とはいえ、元より酷くおぼろげなモノであり、記憶というよりも記録の断片と称する方が正確だ。

 ふとした時に、今自分が生きている世界と対比するような情報が浮かび上がり、知的好奇心が満たされる程度の代物。

 年代は現在――1941年よりも数十年後のモノで技術も相当進んでいたが、記憶の持ち主自身が有能な技術者であったわけでもないらしく、これと言って役に立つことはなかった。


 ――記録によれば、確か今年の夏ごろに石油の供給が断たれ、勝ち目のない戦に突入するそうだが。


「ま、そうはならんだろう」と内心にわだかまる不安を紫煙と共に口に出し、歩みを再開する。

 思えば、今年に入って記録を思い出すことが一段と増えた様だ。事あるごとに浮かび上がる太平洋戦争の記録は、自分自身に警鐘を鳴らそうとしているのかもしれない。

 しかし、現状を見る限り、記録のような事態には発展しようが無いという結論が生まれてしまう。


 ――そもそも中部太平洋を失陥しているから米国との間に石油の交易は無いし、日中戦争どころか満州、朝鮮半島すら存在しない。国民党率いる中華諸島連合は金属資源の輸入先で関係も良好。ロシア内戦後のゴタゴタ以来、バクー油田からシルク洋経由で入ってくる石油は不十分だが、派手に海軍を動かさなければ十分やっていける。工廠の運用見直しによって国内産業発展を優先する華府ワシントン工廠条約の批准からこの方、国力の増進策は順調。国際社会においても、日本は極東方面における対フラグレスの防壁として各国から見られている。性懲りもなくシルクレーンに出没するフラグレスと損耗する海上護衛総隊以外は、平和に回っていると考えてよいだろう。


 何度目か数えるのも放棄したほど導き出される【杞憂】と言う結論。何度やればこの堂々巡りから抜け出せるのだろうと考えるのも毎度のことだと認識し、苦笑いが漏れた。

 それから数分歩き、ようやく目的地にたどり着く。

 元は武家屋敷だったらしく、白壁の塀も門も立派で、豪邸と称しても問題ないだろう屋敷。吸い殻を携帯灰皿へとねじ込み、壁に二枚並んだ表札の内、【永倉】と書き込まれた古びた方の表札を一瞥してから中へ足を踏み入れる。

 幾つかの石が傾き、足を引掻けそうな突起が出来ている短い石畳を渡って玄関へ。オレンジ色の白熱灯に照らされた引き戸に手を掛けようとした瞬間、視界の八割を占めていた戸がスライドし、伸ばした右手が空を切った。

 直後、引き戸の向こうから現れた妙齢――の様に見える使用人の女性がお辞儀し、有瀬も挙手の礼を返す。


「そろそろお戻りになるころかと思っておりました。おかえりなさいませ、中佐」

「ただ今戻りました、王さん」


 肩口で切りそろえられた髪は黒く艶やかで、鳶色の瞳が優し気な目の奥でこちらを見つめている。身長は女性にしては高い方で、こちらよりも拳一つ程度下なだけだ。細身の体を落ち着いた色の着物に包んでおり、微かに白檀の香りが宙を舞っていた。

 柔らかな笑みを浮かべている彼女は、自分が海軍兵学校に入ったころから住み込みで働きだした人物だ。元は台湾の出身だそうだが、紆余曲折有ってこの家の書類上の家主――自分の後見人でもある――に雇われたと聞いている。

 年齢は確実に自分ともう一人の同居人よりも上のはずだが、初めて会った時から若々しさは全く変わっていない。

 それと何時もの光景ではあるのだが、未だにこの人が自分の帰宅時刻を、ぴたりと当てるカラクリが未だに理解できなかった。

 知らぬ仲では無いはずの名のに、妙に謎めいているのがこの美人使用人――王玲ワン・リンの特徴だった。


「お土産です。お茶の時にでも召し上がってください」

「あらまあ、お気遣いありがとうございます。お嬢様にもおすそ分けさせていただきますね」


 手土産代わりのカステラに顔を綻ばせる王に「それはご自由にどうぞ」と肩を竦め乍ら家に上がり、廊下に歩を進めた。自然な手つきでカバンを受け取った王も自分に続く。


「お食事の用意は出来ております。後は、お嬢様を呼んできていただければ」

「僕が行くのかい?」

「臍を曲げられても知りませんよ?」


 思わず振り返ってみると、彼女は口元を隠しクスクスと上品に笑っていた。

 一見、嫋やかな大人の女性と言う印象を与えるが、野次馬根性全開で自分と彼女をまとめて揶揄おうとする魂胆なのが見え透いている。性質が悪いのは、こうして冗談めかして言う警告自体はだいたい真実だという点だろう。

 臍を曲げた同居人に対するこれまでの爆弾処理ご機嫌取の成功率に鑑み、素直に白旗を上げることを選択する。この家における自分のヒエラルキーを噛締めながら、廊下の奥へと進んでいくのだった。






 廊下を抜け、庭を望む縁側を通り、二部屋の洋間が設けられた離れへと続く渡り廊下を抜ける。一つは厳重なカギと共に閉鎖された物置となっており、目指す場所はその隣の洋間――この家の実質的な主人である人物の作業場所だ。

 古ぼけた扉が軽い音を三回響かせると「入れ」とくぐもった声が届く。何度整備しても鳴きやまない蝶番の抗議を響かせながら、インクの匂いが鼻を突く室内へと足を踏み入れた。

 元々そこまで広くはない部屋は、右側に三列程配置された本棚によって2割ほど容積を削られているような印象を受ける。

 中央に置かれた作業台には山積みになった資料や、メモ書きの藁半紙が山脈を形成し、辛うじて三分の一程度の面積に電子回路のモノと思われる図面が広げられていた。

 作業台の向こうにはこの部屋唯一の窓の下に備え付けの寝台が見え、丁寧に畳まれた毛布が出番を待っていた。開け放たれた窓からは物々しい鉄格子をすり抜けた夜風が室内に吹き込み、窓枠につるされた風鈴が微かに自己主張を繰り返している。

 目当ての人物は左側の壁際に備えられた大型の電子製図台に向かい、40インチ以上もある画面に映し出されたモノの姿を今一度精査するように静かに眺めていた。要件を伝えようと口を開きかけるが、それよりも早く、清流を連想させる静かな声が耳朶を打った。


「随分と遅かったじゃないか、またぞろ何かやらかしたか?」


 自分に背を向けたまま、呆れの中に微かな不快感を含ませた声に「大したことじゃない」と苦笑しつつ歩み寄る。

 板張りの床を微かに軋ませるごとに、光の加減で青黒くも見える髪の流れる小柄な背中と、その向こうの重厚な戦闘艦の側面図が露になっていった。


「送別会代わりに一航戦の爆撃を全部躱してやったら、亀島大佐が怒鳴りこんで来ただけさ」

「ハッ、それはそれは。天下の帝国海軍航空隊サマも随分若年搭乗員ジャクが増えたと見える」


 私情がこれでもかと込められたキツメの言葉が、自分よりも年下の女性――やや童顔気味なので少女でも通りそうだが――から飛び出してくる風景は酷く見慣れたもので驚くに値しない。

 元来、自分以上の大艦巨砲主義者であり航空主兵を毛嫌いしている彼女にとっては、中々に胸のすいた話だったのだろう。


「前に見た時よりも、随分と進んでいるみたいだな」


 彼女が向かい合っているこの部屋に似つかわしくない、オーパーツ染みたタッチパネル式電子製図板を覗き込む。

 もともとは遺産工廠内で発見されたもので、この機器を使用して製作した設計図を入力することで遺産工廠を利用することができる。電子製図板自体のデータは既に工廠に登録されているらしく、資源さえあれば製図板自体の量産は可能だったが、その構造を理解するほど技術が進んでおらず未だに各国が研究中だ。

 とはいえ、構造や原理が解らずとも使用方法は解明されている。

 遺産工廠に直接かかわる彼女を始めとする工廠の技師は勿論、民間の造船所や製作所でも高性能な製図機械として活用されていた。

 以前、この電子上の艦を目にした時はまだまだ元の設計が色濃く残っていたが、改めて見てみると主砲の配置ぐらいしか同一点を見いだせないほど様変わりしていた。

 端の方に記載された縮尺を確認する限り、かなりの大型艦だ。全長270mは下るまい。

 艦首へと向かってうねり上げるような甲板の傾斜シアーに、速度を重視したのか旧来の戦艦よりも全長に比して艦幅が抑えられている。傾斜面で構成された5基の巨大な連装砲は、この艦が艦隊決戦によって敵を打ち破ることを運命づけられている戦艦であると力強く主張していた。


「次の会合には間に合わせねばならんからな。とはいっても、基本的な配置は第三号艦から変えておらん。現状に合わせて大型化し、最適化しただけだ」


 そこで初めて、背中を向けていた女性が振り返る。

 青黒い髪はうなじの辺りで簡素に一つ結びとなって背中の中ほどにまで流れている。深海を写したような紺碧ディープ・ブルーの瞳は肩越しに自分を見上げ、やや大きめの赤縁メガネの奥で切れ長の目が微かに細められていた。

 顔自体は童顔故か美少女の部類に入り、一応成人を迎えてはいるが女学校に紛れ込んでも誰も気が付かないだろう。しかし、同年代の同性よりも格段に修羅場をくぐってきた雰囲気は、深窓の令嬢と言うよりも海の女神ケートーと評するのが適当にすら思える。

 衣服自体は市井の女学生に愛用されている女袴に着物という出で立ちだが、上着は第一種軍装に似た深い藍色であり袴は鼠色と華やかさは全くない。だが、顔の造形と華奢ではあるが均整の取れた体形は、これから更に美しくなっていくであろうことを用意に想像させていた。

 彼女の名は永倉永雫ナガクラ エナ

 鬼才、藤本菊雄造船少将の右腕とされていた永倉栄治造船大佐の一人娘であり、弱冠14歳で友鶴事件・第四艦隊事件を予想し警告を発した才媛。

 その道の研究者が生涯を掛けて辿り着くはずの技術理論を、戸棚の菓子を取るかの如く導き出す異才。

 類まれな頭脳を買われて艦政本部へと招かれるが、周囲との数々の軋轢によって遂に昨年退役した問題児。

 関東大震災により両親や親族が他界した後、伝手を頼って永倉家に転がり込んできた有瀬とはいわゆる幼馴染の関係だった。

 興味深げに画面を眺める腐れ縁にも等しい男に注がれた青い瞳が、試すように微かに細くなる。


「――感想は?」

「用兵側としては使ってみない事には評価し辛いが――――美しい艦であることは間違いないだろう」


 聊かはぐらかした感はぬぐえなかったモノの、【美しい】という評価自体は本心からの言葉であることを理解した造船技師は「それで十分だ」とそっぽを向くように再び視線を図面へ戻す。口調自体はそっけなく、つっけんどんだが、口角が微かに上がっているなど顔に出やすいのは昔から変わっていない。


「こいつは八八艦隊計画を進めていく上での基本となる艦だ。このA-801Kを発展させ、残りの三形式を建造する。故に、ここでの根本的な失策は残りの12隻にも波及してしまう。問題点は今のうちに潰しておきたい」


 じっと机上の図面に視線を固定する。彼女の頭の中では直線と曲線に集合体にすぎない設計図が形と質量をもち、想像上の海面を疾駆し砲声を轟かせているのだろう。建造して実際に運用せねば見つけられないはずの齟齬まで見透かそうとしているかのようだ。


「――バカなことをしていると思うか?」


 ややあって、ぽつりと永雫が言葉を零す。

 この艦の原案となった第三号艦――長門型の後継となる筈だった艦と、その派生型や発展型を都合16隻揃える計画があった。

 名を、八八艦隊計画。艦齢八年未満の八隻の戦艦と八隻の巡洋戦艦を海軍の主力と据える、戦闘艦艇の大建造計画だ。遺産工廠の能力をもってすれば、困難ではあるが不可能な計画では無いと試算されており、長門型戦艦2隻の建造が早々に開始された。

 しかし、間もなくアメリカ、ワシントンで行われた国際会議において締結されたワシントン工廠条約が計画の前提を叩き折り、その後に急速に勢力を伸ばした航空主兵派の台頭が、虫の息となっていたこれらの巨神達の息の根を止めた。それが、今から20年も前の事だ。

 現在の海軍上層部は航空派によって占められ、それは艦政本部も例外ではない。

 戦艦の建造どころか大型巡洋艦の計画すらも持ち上がらず、議題に上るのは空母と護衛の軽快艦艇のみ。空母以外の大型艦など必要では無いと妄信している。

 このように【最強】の二文字を追い求めて形作られる戦闘艦が生まれる余地など、今の帝国海軍では万に一つも在りはしない。それを理解してもなお、理想と持論を諦めきれずペンを取る自身を嘲っているようだった。

 頭のどこかで、これから為そうとする言動を「ただの気休めだろう」と冷ややかに見つめる自分が居る。しかし自身の行いに迷い、悩む同居人を捨て置く気には、どうしてもなれず、気が付けば口を開いてしまっていた。



「ノアは嘲笑われても自身の行いを信じた。自分自身の行いを信じている限り、生み出されるモノは必ず意味を持つ。少なくとも僕の目には、娘を信じられない母親には見えないけどな」

「――たわけ、勝手に子持ちにするな」


 トスと軽くわき腹に肘を入れられる。こちらに顔を向けることなく椅子から降りた永雫は「腹が減った、食事にしよう」と背を向けたまま足早に廊下へと消えていった。

 後に残された有瀬は、最後にもう一度、薄暗い部屋の中でボンヤリと浮かび上がる図面を一瞥する。


 ――基準排水量 63,000 t、全長274m、全幅 33 m、最高速力 28.8 kt。五○口径四○センチ連装砲5基10門、六五口径一〇センチ連装高角砲10基20門、七〇口径四〇ミリ三連装機銃24基。設計案A-801K5か。出来ることなら、ぜひとも指揮を取ってみたいものだ


「もっとも、それまで僕が生きていればの話だな」


 そんなことをボヤキながら、踵を返し弱弱しい白熱球を消して部屋を出ていく。直線と曲線の集合体でしかない鋼の城塞は、暗闇の中、静かに青白い光の中を揺蕩い続けていた。








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る