3rd Chart:化石の天才

 1941年8月8日 呉鎮守府長官公室


 赤レンガ造りの巨大な洋風建築に居を構える呉鎮守府の一角、長官公室と銘打たれたプレートのかかる一室。空調機の調子が悪く、夏場の呉らしい蒸し暑さに包まれた執務室で、二人の将校が互いの目に視線を注ぎ――否、睨みつけていた。


「今後一切、このようなことが起こらぬように配慮していただきたい!」


 オーク製の執務机越しに小一時間ほど続いた抗議を締めくくったのは、吐き捨てるような大喝だった。

 常人であれば思わず首を竦めそうになるほどの剣幕ではあったが、机に肘を突き、顔の前で組んだ手に顎を乗せた男は、微かに片方の眉を動かすに留めた。

 170センチを優に超す堂々とした体躯は、上等な椅子に腰かけている事を感じさせぬ存在感を発揮し、小判型の顔には穏やかそうな――しかし、値踏みするような――目が並んでいる。綺麗に整えられた口髭の下は、投げつけられた数々の抗議に対し、遂に牡蠣の様に閉ざされたままだった。

 対して、床に敷かれた赤絨毯の如く顔を紅潮させている、海軍大佐の階級章と参謀飾緒を身に着けた男は、不快感を隠そうともしない。自分の言葉を柳に風と受け流す二階級上の呉鎮守府長官に、怒りの視線を注ぎこんでいた。

 しかし連絡もそこそこに長官公室に乗りこんで来た海軍大佐――黒島亀斗クロシマカメト連合艦隊主席参謀は、鎮守府長官の黙殺するかのような態度に、これ以上話しても無駄であることを悟る。

 あくまで自分は連合艦隊の首席参謀――それも大佐であり呉鎮守府の中将たる長官に命令を出すことはできない。この旧世代の遺物のような男が「黙殺する」と決めたのであれば、これ以上は時間の無駄に等しかった。

 内心で上官侮辱に当たる罵倒を両手足の指の数投げつけた後、残された怒りを今回の件の原因――執務机の傍らに立つ爆撃標的艦『摂津』特務艦長、有瀬一春アリセカズトキ海軍中佐に憎悪すら込められた視線を向けた。


「有瀬中佐、貴官の操艦術は確かに素晴らしいのだろう。しかし、自分の腕を見せびらかしたいがために、我が連合艦隊の精鋭を虚仮にしたことについては猛省を求める。演習は手順通りに実施してもらわねば、効果は甚だ薄くなり、ついては練度の低下につながることを再確認してもらいたい。我らは既に、無駄にできる油など一滴も無いのだ。――――化石は化石らしく、石になっとれ!」


 最後にそう捲し立てた黒島大佐は、もはや視界に入れる事すら忌々しいと言わんばかりに乱暴に振り返る。連れ立ってきた航空参謀らしき海軍中佐に「行きましょう」と声をかけて、靴音も高く歩き出した。

 黒島大佐の付き添いとして来てはいたが遂に一言も発することが無かった航空参謀は、「ようやく終わった」という疲労感を何とか隠し通している有瀬に一瞥を投げて上官の後を追い、部屋を辞していった。

 重厚な扉が閉まり二人分の足音が完全に消え去った瞬間、執務机に座った呉鎮守府司令長官――嶋田滋太郎シマダシゲタロウ海軍中将は大きなため息を吐きだし、心なしか恨めしそうな視線を有瀬へと投げた。


「まったく、やってくれたな有瀬中佐」

「ご迷惑をおかけし、申し訳ございません」


 自分に向き直って素直に頭を下げる有瀬に、もう一度短くため息を吐いた後。首を横に振って「否、今回の事は、俺にも非が有る」と言葉を零した。

 顔の前で組んでいた手を説き、脱力した巨体を預けられた椅子の背もたれが抗議の軋み声を微かに上げる。


「どうせ最後なのだからやってみろ、と言ったのは俺だからな」


 数日前の自分に賞賛を送ればよいのか、苦言を送ればよいのか判断のつかない顔をしながら執務机の引き出しをまさぐると、一冊の真新しい冊子を引っ張り出す。報告書などで使用される黒表紙の冊子には、やや悪筆の表題が踊っていた。


「しかし、まさかコイツがそれほど有効だとは思わなんだ。まあ、執筆者自身が実践できぬようでは話にならんが」

「私だけの成果ではありません。特に、総力戦研究所の松田大佐には随分とお世話になりました」


 レポートの論調の既視感の正体がわかり、「どこかで見た事のある書き方だと思ったが、松田君の弟子だったか」と微かに嶋田の口角が歪む。軍令部に居た頃の部下の一人で、最近『日向』の艦長に任命されたと聞いている。


「しかし、それでも一航戦の精鋭を手玉に取るのは賞賛に値するな」


「恐縮です」と頭を下げる有瀬に「半分だけだ、もう半分は呆れておる」と鼻を鳴らし、机の上に冊子を放り投げる。天井から降り注ぐ白熱電球の明かりが、【爆撃回避法】と記された表紙を照らした。


「航空派に睨まれ『摂津』に飛ばされて二年。腐っとるかとも思ったが、その心配はなさそうだな」

「はい。というよりも、木村艦長から「砲術はともかく、操艦も学べ」と激励されたので渡りに船ですらありました。多少は上達できたかと思います」


 有瀬の言葉に見事なカイゼル髭の海軍将校の顔が浮かぶ。

 海大の甲種を卒業しておらず、長く海上護衛総隊の一艦長として活躍しているため人事上では目立つ存在では無いが、有能な水雷屋として評判の男だ。帝国海軍がここまで航空に偏重していなければ、水雷戦隊の長として第一線にいたのかもしれない。


「一航戦の空爆を被弾ゼロで潜り抜けて【多少】、か。謙遜は程々にする癖も身に着けた方が良いぞ、有瀬中佐。それか、加減と言うモノを覚えることだ」


 本気なのか冗談なのか今一判断のつかない答えを出す有瀬に、嶋田の唇が微かに歪む。連合艦隊主席参謀の黒島大佐が乗り込んできたのは、まさにその点についてだった。


 数日前に実施された爆撃標的艦『摂津』と第一航空戦隊の母艦航空隊が参加した演習において、有瀬は自らが指揮を取る標的艦を巧みに操り、最精鋭と目される一航戦の爆雷撃を悉く躱して見せたのだった。

 6基の三〇センチ連装砲を全て下ろして標的艦に改造されたとはいえ、発揮可能速力は17.4ktが精々の準ド級戦艦を相手に、遂に一発の命中弾も与えられなかった一航戦――そして、空母戦力を根幹に据える連合艦隊の面目は、長門型の四〇センチ砲弾が直撃したかの如く丸潰れとなってしまった。変人参謀と名高い黒島大佐が、『摂津』を預かる呉鎮守府に殴り込んで来たのも無理はない。

 しかし、主流中の主流である連合艦隊主席参謀から直々に叱責を受けても、有瀬と言う男は全く意に介していない、悪く言えば懲りていないようだった。皮肉気に――見ようによっては嘲笑ともとれる――口角を上げた彼は、軽く肩を竦める。


「お言葉ですが長官、一航戦を含む一航艦は連合艦隊の屋台骨でしょう?宝塚の演者ではありますまい。実戦において、何時何処で何度変針せよなどと言うこちらの命令を、フラグレスが聞くはずもありません。むしろ、旧式戦艦の回避行動ぐらい封殺していただけませんと」

「その台詞は私では無く、黒島参謀に言いたまえよ」

「これ以上長官のお時間を頂戴するには忍びなかったもので」


 有瀬の反論に激昂し、抗議時間が倍増する様子をよほど簡単に想像できたのか、嶋田の顔が苦笑いに歪んだ。


「フン、多少は悪知恵も学んだようだ。――とにかく、今回の件で貴様の作成した爆撃回避法レポートは役に立つらしいことが分かった。軍令部に掛け合って、全部隊と教育機関に行き渡るようにしよう」

「ありがとうございます。長官」

「何、フラグレスはともかく他国の航空機の発展も目覚ましい。対フラグレスで一応の団結はしているが、どこもかしこも懐に匕首を忍ばせておるから、備えるに越したことはない」


 島田中将は顔を顰め首を横に振った。

 「軍人は政治に口出しすべからず」という基本理念を愚直なまでに守るこの将軍にとっては、共通の敵を前にしても権謀術数を巡らせる政治家や、軍政家達の領域に踏み込むことを嫌悪すらしていた。彼にとっての関心ごとは、相手が誰であろうと、何であろうと皇国を守り切る手段であり、方策だった。

 だからこそ、一士官にすぎない目の前の青年の今後に、一抹の不安を覚えてしまう。


「次の配属先は――『扶桑』か」

「はい、砲術長を任されることになりました」


 扶桑型戦艦1番艦『扶桑』、基準排水量 34,700 t、全長 210 m、最大幅 33.08 m、最高速力 24.75 kt。主砲として四五口径三十六センチ連装砲を6基12門備える戦艦だ。

 日本初の純国産超ド級戦艦であり、一斉射の投射重量は長門型に匹敵する。竣工から25年以上経過した老朽艦と呼んでもいい艦ではあるが、貴重な水上打撃戦力として第一線に留まっている。

 帝国海軍に4隻しか存在しなくなってしまった純粋な戦艦、その砲術長に20代半ばで任命されるのは、如何に特例扱いの特急将校であっても異例であり抜擢と呼んで良い。嶋田の心情としては、有望な後輩の栄達に手放しで喜びたい所ではあるが、そうも言ってられないのが現状だった。


「旧式艦であり、予備艦一歩手前だが貴重な水上打撃艦の一隻だ。有事となれば、容赦なく最前線へ送り出すことになるかもしれん」


 正直な話、どうせ乗せるのならば多少は新しく高性能な長門型に乗せてやりたいのが人情だった。

 過保護の様にも思えるが、この才能を旧式艦の戦力を補填する目的に使って、むざむざヤられてしまえば悔やんでも悔やみきれない。現状、平和を謳歌しているように見えるこの国が、実際は薄氷の上に成り立っていることを知る身としては尚更だった。


「油断は怠らず、常在戦場の心構えを持ち職務に当たってもらいたい。出撃命令が出た後に後悔はしてくれるなよ」


 思わぬ気遣いの言葉に自然と背筋が伸びる有瀬に、椅子から立ちあがった嶋田が微笑を浮かべながら歩み寄る。


「艦長の渋木大佐は主力艦の艦長を歴任した、いわば帝国海軍の生き字引だ。貴様と同じように特急士官として任官し、船乗りとしての経験を今日まで積み上げてきた。食えない爺さんだが、学ぶことも多いだろう」


 数十年海軍の飯を食っているというのに、未だに軍服に着られている感が拭えない枯れ木のような老人を思い出す。自分も一時期かの御仁の下に居たことが有るが、印象深い上官だったと覚えている。この青年は、あの老人から何を学んでいくことになるのだろうかと考えながら、片手を差し出した。


「とにかく、2年間の『摂津』勤務ご苦労だった。貴様の働きは、確実に我が海軍を精強ならしめる一助になったと確信している。『扶桑』でも『摂津』同様、否、それ以上の働きを期待している。一応は戦時下では無いが、あえてこう言おう。――武運を祈る」


 自分の差し出した手を固く握り返す青年将校の顔には、海兵同期のギャンブラーにも似た不敵な笑みが微かに浮かんでいた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る