第106話 恥じらいは何処に

 リリスのちょっとした悪戯で馬車は速度を上げる。

 だが、その次の瞬間ドンッと大きな衝撃が馬車の乗客席を揺らした。


「ちょっと〜、何で加速したんですか〜?」


「うわ、ルーミアさん。脅かさないでください……ぷっ」


 窓の外から恨めしそうな声が聞こえてくる。

 そちらに視線を向けると、逆さまの状態で覗き込むルーミアの姿があった。


 器用にも乗客席の上に飛び乗り、そこから側面にしがみついて窓から覗き込んでいる。

 逆さまになっているせいか捲れた白い前髪がバサバサと暴れていて、そんな光景が面白おかしくてリリスは笑いそうになるのを堪え口元を押さえた。


「何笑ってるんですか?」


「ちょ、その面白い顔で話しかけないでください」


「むっ、失礼なリリスさんですね」


 いきなり笑われて機嫌を損ねたルーミアは軽やかな動きで窓から帰還を遂げる。

 水と風で乱れた髪を軽く手で整えながら腹を抱えて笑うリリスを見下ろした。


「まったく……せっかく頑張ってきたのに褒めてくれないリリスさんは酷いです。鬼っ、悪魔っ」


「ごめんなさいって。でも思ったより早かったですね。全力出したんですか?」


「まさか。足止めだけですよ。水を撒いて濡らした地面ごと凍らせてきました。今日は陽射しもいいのでそのうち動けるようになると思います」


「ああ……ルーミアさんの服が湿ってるのはそういう事でしたか。汗をかくほど全力を出したわけではなかったんですね」


 リリスはルーミアの姿を見て勘違いをしていた。

 濡れた髪、しっとりと肌に張り付いた衣服。そして首筋を伝う透明な水滴。

 その状況だけを見ると、そう見えるのも仕方ないだろう。


(しかし……本当に細いですね。ちゃんと食べて……ますね。毎日食べ過ぎってくらい食べてました)


 服が濡れて張り付いた事でルーミアの身体のラインが浮き彫りになり、華奢な身体が一層際立つ。

 腰周りの細さに目が行き、きちんとご飯を食べているのか不安になるが、同居を始めたことによりリリスも彼女の食事事情は把握している。


 その見た目に似合わずにそこそこな大食いのルーミアだが、それでもスタイルを維持できているのは普段の運動量が理由だろう。

 ルーミアの身体は至って健康的で、痩せ細ったという訳ではないので、リリスの心配は杞憂だった。


(というか……服が張り付いて身体の線が強調されて……何だか色っぽいですね)


「さっきからジロジロ見てますが……何か付いてますか?」


「あ、いえ……ルーミアさんの服が結構濡れてるなと。上着か何か羽織った方がいいんじゃないですか?」


 リリスから向けられた視線にルーミアも気付いた。ルーミアの扇情的な姿に目を引かれていた、などとは口が裂けても言えないリリスはゆっくりと目を逸らす。

 それらしい返答で繕うとルーミアも納得したように声を上げた。


「確かにこのままだと少し肌寒いかもしれません」


「そ、そうですよね? だから……」


「だから、着替えちゃいます」


「えっ。ちょっ……ままま、待ってください!」


 おもむろに腕を交差させて着ている服の裾を捲り上げるルーミア。その下からは健康的で引き締まったお腹が顔を覗かせている。そんな突然の事にリリスが慌てて制止の声をかけると、ルーミアは不思議に思いながら捲る裾を胸に差し掛かる手前で止めた。


「何急に脱ぎだしてるんですか!? 変態痴女なんですか? 恥じらいをどこに捨ててきたんですか?」


「え……そこまで言います? 別に女の子同士なのでよくないですか?」


「御者の方は男性ですし、窓付きの馬車なので外から通りすがりの誰かに見られるかもしれないんですよ?」


「……別に減るんじゃありませんし」


「減るんですよ! 主に私の精神的な何かが! とにかく……早く元に戻してください!」


 両手で顔を覆いながらも指の隙間からチラチラとルーミアのあられもない姿を脳内記憶に収めたリリスは今度こそ目を逸らす。赤面した顔ごと逸らしているため、ルーミアの姿が映りこむことはない。

 そうやってしばしの間暗黒の視界に身を委ねてると、衣擦れの音が聞こえてくる。

 視界を遮断しているからかやけに鮮明に聞こえるその音に僅かばかりいやらしさのようなものを感じたリリスはごくりと喉を鳴らした。だが、その音が耳に届くのはルーミアが脱ぐのを断念してくれたからだと安心し、ほっと胸を撫で下ろした。


「いいですよー」


「はい…………っ!? ちょっと、何でもっと脱いでいるんですか!? 何もよくないじゃないですか!?」


 だが、その安心も束の間。

 顔を上げ目を開けたリリスの視界に映りこんだのは先程よりも面積を大きく広げた肌色と一部分を覆い隠す黒色。

 服を元に戻したかと思いきやすべて取っ払って上下ともに黒色の下着姿になった少女は、あわあわと困惑して顔を真っ赤にさせるリリスの反応を楽しんでいた。


「どうですか、これ? かわいくないですか?」


「し、知りません。早く服着てください」


「え~、ちゃんとおしえてくださいよ。ほら、こっち見てください」


「あっ……」


 顔を背けようとする前にルーミアの細い腕が伸び、顔を抑えられ強制的に正面を向くように固定される。その手首を掴んで引き剥がそうとするリリスだったが、力でルーミアに敵うはずもなく、その細腕はびくともしない。


(ルーミアさんの言う通り女の子同士。下着姿くらいどうってことないはずなのに……目が逸らせません……っ)


 ルーミアの整った顔が徐々に近付いてきて、白い髪から覗く瞳に吸い込まれそうになる。

 ドキドキと心臓が跳ねる音がより大きく、早いものになる。

 そんな中、リリスにできる抵抗と言えばギュッと目を瞑る事だけだった。


「リリスさん、かわいいですね」


「あっ、そんなに近くで話さないで下さい。息が……くすぐったい、です」


 ルーミアが声を出すと、吐息が首筋にかかる。

 その温もりとくすぐったい感触に身体をびくりと跳ねさせるリリス。逃れようにも逃れられない。

 ルーミアの手首を掴んでいたはずの手もいつの間にか抑えられている。完全に支配されている状況に思考がぼやけ、頭が真っ白になりそうだった。


「ふふ、少し意地悪しすぎましたね」


「ふぇ?」


「リリスさん、顔がとろけてますよ。もしかして……期待、しちゃいました?」


「そ、そんなこと……」


 無理やり征服されることに期待などしていない。そうはっきりと言い切りたかったリリスだが、力が上手く入らず弱々しく呟くことしかできない。

 もう手首は解放されているが、力強く抑えられている時の感触がまだ残っており、その温もりがさらに熱を帯びている。


「ほら、手も離した事ですし今なら自由ですよ。抵抗……しないんですか?」


「っ!」


 ルーミアの悪戯に微笑む姿にリリスはぞくりと背筋を震わせる。

 ひらひらと揺らされる小さな手が迫ってくるのをただ見つめている。

 もう、抵抗の意思は無かった。


「もう……好きにしてください」


「……へくちっ。あう、結構寒いですね」


「へ……?」


 どのみち力では敵わない。抵抗する姿勢を見せたところで目の前の半裸少女はそのすべてを丁寧に摘み取るだろう。

 ならば諦めて身を任せた方がいっそ楽になれるだろう。

 リリスは覚悟を決めて目を閉じた――――その時、緊張の糸をぷっつりと切らすかわいらしい悲鳴が聞こえた。


 その正体はルーミアのくしゃみだった。

 濡れた身体を乾かすでもなく下着姿になっているのだから冷えてしまうのも無理はない。

 しかし、ムードを断ち切ったのも事実。

 それが幸か不幸かはリリス次第だが、彼女はわなわなと肩を震わせていた。


「あ、その鞄から何か着るもの取って貰えませんか?」


「バカ、アホ、ルーミア……! これでも着とけこの変態痴女っ」


「わぷっ」


 ルーミアから気の抜けるような要求が飛んでくる。

 リリスは苛立ちを隠せないといった様子で、ルーミアの白い鞄から適当に布を引っ張り出して、対面の半裸少女の顔に向かって全力で投げつけるのだった。

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