一番星にはもう届かない

三郎

第1話:二度と会いたくなかった人

「私と結婚してください」


 その言葉を、愛する人の口から聞く日が来ることは、半分諦めていた。

 私——佐倉さくら美夜みやはレズビアン。女性にしか恋愛感情を抱かない女性。つまり、同性愛者。

 日本の法律では、結婚という制度は異性間だけの特権だ。不平等だと何度訴えたって、政府は「その件に関しては慎重に議論すべき」とかなんとか言って、ずっと、何十年も、法改正を先延ばしにして来た。

 そんな国の対応に絶望して、同性の恋人と共にこの世を去った友人もいた。


 20xx年某日。速報で、法改正のニュースが流れた。私は恋人と抱き合って泣いた。

 恋人は泣きながら跪き、彼女の手を取って言った。


「うちと、結婚してください」


 返事に迷いなんてなかった。


「はい」


 私は家族への報告を済ませた後、一人で墓地へ向かった。彼女のプロポーズを受けたことを、かつて幸せを求めてこの世を去った友人達に報告するためだ。


「長かった。けど、私はようやく、愛する人と家族になれたよ」


 友人達は、同じ墓に入っている。そこまで準備してから、遺書を残して一緒に天国に旅立った。二十歳になった年の、ちょうど、今日みたいな、過ごしやすい秋の日だった。忘れもしない、11月22日。あれからずっと、秋が来るたびに彼女達の書いた遺書を思い出す。遺書の内容は、同性婚を頑なに認めないこの国に対する呪詛のようなものだった。綺麗な字で、淡々と綴られた絶望と失意に満ち溢れた文を、私は何度も読み返した。暗唱出来てしまうほどに。

 二人は天国で、今も別れることなく仲良く暮らしているのだろうか。

 この世で結ばれることを諦め、あの世で結ばれる選択をした彼女達を責める気は私にはない。私もまた、同じ選択肢を何度も選びかけたから。


「そっちはどう?今も仲良くやってる?」


 問いかけたって、返事は返ってこない。

 冷たい沈黙が涙腺を刺激して、涙が溢れた。

 二人にも見て欲しかった。私の花嫁姿を。

 見たかった。二人の花嫁姿を。

 幸せな報告をしに来たはずなのに、やるせない。

 あの時止められていたら——。そんなこと考えたって、もう仕方ないことは分かっている。それでも考えられずにはいられない。


「式には来てね。といっても……もう、生まれ変わって別の人になっちゃってんのかな」


 彼女達がこの世で結ばれることを諦め、あの世で結ばれることを選んだのは、もう二十年以上前だ。

 長かった。本当に、長かった。

 たくさんの別れを経験した。もっと早く婚姻が認められていたら、相手は、違う人だったのかもしれない。そう考えて、私の頭の中に最初に浮かんだ相手は、初めて愛した女。そして、誰よりも愛して、誰よりも憎んだ女。思い出したくもないのに、忘れてしまいたいのに、記憶の中に居座り続けている女。そして、タイミングを見計らったように——


「……へぇ。結婚すんの?美夜みや


 二度と聞きたくない、忘れたくても忘れられない懐かしい声が私を呼んだ。振り返ると、二度と見たくない顔をした人が、花束を持って立っていた。


「やあ。久しぶり」


 中性的な顔と高身長。そしてほとんど膨らみのない胸。飾り気のないシンプルな服装。何処か色気のある、低めの声。クールな雰囲気。それから、目の奥は笑っていない胡散臭い笑顔。

 何一つ、変わっていない。変わりがあるとすれば、あの頃より生気がある。あの頃はずっと、死んだ目をしていた。ある日突然居なくなってしまいそうな、儚い雰囲気があった。今はそれが無い。

 彼女の左手薬指にはめられた銀色の指輪が太陽に照らされてきらりと光り、自己主張する。

 私の左手薬指にも、指輪がはまっている。愛する恋人のものとペアになる指輪。目の前に居る女のものとはペアにならない指輪。


「……かい。何しに来たの」


 彼女から顔を逸らして、問いかける。


「何しにって、君と同じだよ。彼女達に報告をね」


「……報告って何。旦那と離婚して女と再婚でもすんの?」


「いいや。今更しないよ。僕は別に、世間体を気にして彼を選んだわけじゃない。彼のことは本気で愛してるよ。……って言っても、君には一生理解してもらえそうにないけど」


「出来るわけないじゃない。あんなに女好きだったあんたが、男と結婚して子供まで作るなんて。散々私を……女をもて遊んで……」


 彼女は女遊びが激しい人だった。恋人は私だけだったけれど、朝帰りなんてしょっちゅうだった。それを悪びれもせずに『誘われたから遊んで来た』と報告してくる。そういうクソみたいな女だった。

 だけど、一緒に暮らす家の中で他の女の痕跡を見つけたことは一度もなかった。

『君と暮らすこの家にどうでもいい女を入れたくない』なんて、君だけは特別と言わんばかりに、心を許すのは君だけだと言わんばかりに、そう言っていた。


「他の女はともかく、君のことは本気だったけど」


「……っ……」


 思わず振り上げた手を、彼女は止めた。そして彼女はしーと人差し指を立て、その指で墓を差して言う。「彼女達の前だよ」と。


「見てないわよ!もう何年経ってると思ってんの!あの子達はもう……別の人生を歩み始めてるわよ……!」


「じゃあなんで結婚報告しに来てんの」


「それは……」


「……僕も、今日は君と喧嘩しに来たわけじゃないんだ。言ったろ。彼女達に報告があるって」


 そう言って彼女は私の手をそっと下ろし、持ってきた花束をバラして花を立て始めた。そして鞄からワインの入った小瓶を取り出し、置く。


「……法律が変わった話は……美夜、話した?」


「話した。……てか、異性と結婚したあんたには関係ないでしょ」


「関係あるよ。これで僕みたいに異性を選んで文句言われる人が減るでしょ?卑怯だとか、散々弄んでとか、クズだとか」


「全部事実じゃない」


「結婚してからは流石にやめたよ。女遊びも、タバコも。税金も高いしね。タバコ。酒は仕事柄、どうしてもやめられないけど」


「……男と結婚して、後悔はないわけ?」


「あるって言ってほしい?」


「……」


「残念ながら、無いよ。幸せだよ。ただ、時代が違えばきっと、僕は彼とは結婚していなかったし、娘も息子もこの世に生まれていなかっただろうね」


「……結局世間体だったんじゃない」


「……違うよ。彼はたまたま男だっただけ。彼に関しては、性別は関係なかった。僕は彼が男だったから好きになったわけじゃない。女でも好きになってた」


「何がたまたまよ!結婚までして、子供まで産んで!私が他の女と遊ばないでって言っても聞いてくれなかったくせに!」


 はぁ……とため息を吐き、彼女は振り返る。

 そして小馬鹿にするようにふっと笑ってこう言った。


「まだ好きなんだ?僕のこと」


 思わず手が出るが、やはり止められてしまう。


「この……クソ女……!」


「落ち着けって」


「煽ったのはどっちよ!」


「先に煽ったのはそっちだろ」


「はぁ!?」


「何年も前のことを今更ほじくり返して」


「っ……あんたが……!あんたが男なんかと結婚するから!」


「最終的に僕を手放したのはそっちだったじゃない」


「離すわよ!あんたみたいな尻軽なクソ女!」


「まぁ、そうなるように君を追い込んだのは僕の方なんだけど」


「自覚あるのね。クズ」


「……結婚するんだろう?好きな女と。良かったじゃない。僕みたいなクズと結ばれなくて。おめでとう」


 彼女は嫌味ったらしくそう言って、ぱちぱちと拍手をした。

 私はもうすぐ結婚する。愛する同性の恋人と。大好きな、恋人と。私を愛してくれる、幸せにしてくれる、優しい彼女と。なのに——。なのに、どうしてこんなにも悔しいのだろう。

 認めたくない。認めたくないが私はきっと、この女が欲しくてたまらなかった。時代さえ違えば、それが叶っていた。男に彼女を取られたりしなかった。それが、悔しくて仕方ないのだ。

 彼女の言う通りだ。私はまだ、彼女を好きでいる。もういい加減、捨てなきゃいけないのに、顔を見た瞬間、想いが爆発した。背を向ける。これ以上彼女を見ていたら、余計なことを口走りそうだ。


「……もう……どっか行って。二度と私の前に顔を見せないで」


「元からそのつもりだった。二度と会う気なんてなかった。今日会ったのはたまたま。……じゃ、帆波ほなみ月子つきこ。今日は帰るね。また今度。日を改めて来るよ」


 墓にそう声をかけて、彼女は花と酒を片づけて、帰る準備をし始めた。

 遠ざかる後ろ姿に、別れた話をした日の彼女が重なる。

 気付けば私は、彼女の腕を掴んで彼女を引き止めていた。


「行かないで、海」


 無意識だった。

 口から出た言葉も、行動も。震えた声も、瞳から零れ落ちる涙も。何もかもが、私の意思に反していた。

 振り返った彼女は、私の涙を拭い、キスをする時のように顎を持ち上げて、恋人に向けるような優しい笑顔で囁く。


「そこまで僕を求めてくれるなら、最後に一回だけ、抱いてあげようか?」


 その瞬間、パァン!と、気持ちの良い音が墓地に響いた。反射的に手が出た。

 彼女は赤く腫れた頬を抑えながらふっと笑って、きびすを返し「じゃあね。愛する彼女とお幸せに」と手を振りながら去って行った。

 無意識に伸ばされた手は、もう彼女には届かなかった。

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