第3話 幼き家出少女ロゼッタ

 ところ変わって、ここはジェイクたちの住む国の隣国ネルドランの地方都市。とある小学校の低学年クラスで、一人の妖精族の少女が授業についてゆけず落ち込んでいた。

「こんなのも解らないのルチア?もういいです。座りなさい。ちゃんと予習復習はしておきなさいね」

 犬族の女教師がルチアの学力不足に呆れると、クラスのそこかしこでヒソヒソ囁き合う声や、忍び笑いの声が聞こえる。少女ルチアはしばしばこのような辱めを受けて、そのたびに勉強への意欲を失っていた。

 彼女だって、理解できるなら理解したい。「解りました」と手を上げて鼻高々に胸を張って答えてみたい。しかし、無理なのだ。小学校に入学した時から、勉強がほとんど理解できない。文字は鏡文字になってしまうし、綴りは覚えられないし、計算もできないし、暗記もできない。一方出席率がいいので、劣等生でも出席率の加点のみで2年生に進級した。だが、やっぱり理解できないものは理解できない。一年生の授業内容が理解できたのはつい最近のことなのだ。授業のペースが速すぎてついていけない。

 ルチアは目にいっぱい涙を溜め、弾かれたように教室から飛び出した。

「ルチア!どこに行くのルチア!」

 ルチアは保健室に向かって走った。保健室の先生ならこの惨めさを理解してくれそうな気がした。もうすぐ保健室、というところで、ルチアは足がもつれて転んだ。転んだ痛みが引き金になって、抑え込んでいた涙が決壊して溢れ出してきた。ルチアは床にうずくまったまま声を上げて泣いた。

 泣き声を聞いて保健室から保険医が出てきて彼女に近寄ると、教室から追いかけてきた犬族の教師もルチアに追いついた。

「ルチア、どうしたの?何か辛いことがあったの?」

「ルチア!泣くんじゃありません!教室に戻りなさい!」

 しかし一度溢れ出した慟哭はなかなか自分の意志では止められない。彼女も泣き止められるなら今すぐにも泣き止みたい。

「先生、彼女の話を聞いてみましょう?」

 繊細族の保険医がルチアを庇った。教師はやれやれと肩を落とした。


「勉強が解らない?」

 保健室でようやく泣き止んだルチアから話を聞くと、彼女の悩みは深刻だった。親を学校に呼び、詳しく彼女について訊くと、彼女は幼いころから成長がとてもゆっくりした子だったようだ。

 言葉を話し始めたのも3歳になってからだし、落書きを自発的にしたり、一人遊びを覚えたのも4歳から5歳頃だった。ようやく知能が発達し始めたばかりの7歳のルチアには小学校の授業は難しすぎた。教師はルチアが勉強をサボったりふざけているのだと思い込んでいたが、両親はいつもルチアが学習する意欲だけは高かったことを見抜いていた。

「先生、子供にはいろんな子がいます。勉強を覚えるのが早い子、成長の遅い子、中には変わった子もいて世界中のチョコレートのブランドを覚えるのが得意なんていう天才もいます。うちの子は成長がとてもゆっくりした子です。画一的にみんなができるようにすることより、子供一人一人に合わせた教育が必要なのではないでしょうか?」

 親が説得する横で、ルチアは俯いて足をプラプラさせていた。

「では、特別学級を作りますか……」

 特別学級という言葉に、ルチアは顔面蒼白になった。上級生に確か重度障害者だけを集めた特別学級が一クラスあった。ルチアは障害者扱いされてしまうのか。冗談じゃない!

「嫌!特別学級嫌!お家で自習にしよう?ちゃんと勉強するから特別学級は嫌!」

「でも、ルチア、あなた、人より成長が遅いのは障害者よ?特別学級ならあなたのペースで勉強出来るわ?」

 教師はすばりルチアを障害者認定してしまった。ルチアのか細い自尊心の火が吹き消された。彼女はショックのあまり心に深い傷を負った。

(あなたは障害者よ)

 教師の台詞がリフレインする。私は障害者?

「明日から空き教室を特別学級にします。そこに通ってきなさい。一年生の勉強のおさらいから始めましょう」

 ルチアの心がガラガラと崩れ、彼女は心を閉ざした。親に手を引かれて帰宅したが、道中どんな会話をしたか、どこを通って帰宅したか、何をして家にたどり着いたのか、まったく記憶になかった。呆然自失したまま、彼女はいつの間にか自室にいて、勉強机に向かって座っていた。

「消えたい。逃げたい。特別学級だけは絶対嫌」

 ただでさえクラスメートに馬鹿にされているのに、特別学級行きが決まったら虐めに発展するのはルチアにも計算できた。

「逃げなくちゃ。こんなところでは生きていけない。学校のないところまで逃げよう」

 彼女は陶器の貯金箱を割って今まで1ファルスも使わず貯め続けたお小遣いをすべて回収した。紙幣も結構な枚数があるし、もしかしたら見知らぬ土地まで行けるのではないだろうか。彼女には額が多すぎて数えきれない金額だったが、遠くまで行けそうな確信があった。

 巾着袋にお小遣い全額詰め込み、おやつや牛乳瓶、お気に入りのぬいぐるみや宝箱をリュックに詰め込み、彼女は家を抜け出して駅に向かった。

 地方都市のターミナル駅は歩いて一時間ほどのところにある。彼女は生まれて初めて自力で駅にたどり着き、生まれて初めて駅員に所持金全額を渡してありったけの距離を移動できる切符を購入し、生まれて初めて一人で汽車に乗り込んだ。致命傷を負った心の超新星爆発から始まった彼女の一世一代の大冒険。まだ見ぬ世界に胸膨らませ、彼女はいつまでも飽きずに車窓からの風景を眺めていた。


 うつらうつらうたた寝をしていると、聞き覚えのある駅名がアナウンスされた。確か駅員は言っていた。「クレマトリア駅で降りなさい」と。ルチアは慌てて汽車から飛び降り、クレマトリアの地に降り立った。だが、はて、クレマトリアの街とは、一体どこだろう?

 あたりはすっかり日が落ちて真っ暗だった。暗闇では何があるかわからない。ルチアは用心してクレマトリアの街を歩き始めた。

 当てもなくルチアが歩いていると、彼女はいつの間にか繁華街に来ていた。ガス灯が煌々と輝いていて、昼間のように眩しい。派手な看板は色とりどりの魔法の光に照らされて、まるで夢の中のような美しさだ。

 あたりをキョロキョロしながらふらふらと歩いていると、突然何か布の塊にどしんとぶつかった。と、頭上から酒臭いにおいを漂わせた怒鳴り声が降ってきた。

「どこ見て歩いてんだガキ!」

 見上げれば猿のように真っ赤な顔をした猿族の男が、眉間にしわを寄せてルチアを見下ろしている。

「ご、ごめんなさい」

 すると男の横にいた数名のガラの悪い男たちがルチアに詰め寄った。

「嬢ちゃん、旦那骨折れたってよ。治療費持ってるか?」

「持ってねえなら体で払ってくれるか?ああん?」

 ルチアがすくみ上っていると、バシッという音とともに男たちの壁の一角が吹っ飛んだ。誰かが男を一人殴り飛ばしたのだ。

「こんな小さい子供に何集ってんだオッサン!」

 ルチアが見上げると、顔の右側を革製の仮面で覆った猫族の男が彼女を庇ってくれていた。

「何しやがんだ小僧!」

「死にてえのか!」

「死にたいのか、とは、こっちが訊きたいセリフですね」

 男の額に銃が突き付けられ、その腕を目で追うと、猫族の男の隣には毛むくじゃらの男が銃を突き付けていた。

「待て、ひょっとしてお前、その仮面の猫、武器屋のジェイクじゃねえか?」

「当たり。最新の銃の的になってくれるかい?」

 ギャーッと男たちは驚きすくみ上り、後ろも見返ることなく逃げ出した。

「その銃の威力試す絶好の機会だったのに惜しいな、アントン」

「残念ですねえ」

 ルチアには解った。この男たちは信用できる。この人たちについていこう。

「助けてくれてありがとう、おじさん!」

「お、おじさん?お兄さんと呼べ、まだそんな年じゃねえや。それより嬢ちゃん、お父さんとお母さんはどうした?」

 ジェイクがルチアに目を合わせて声をかけると、ルチアは気まずそうに俯いた。

「あ……あの……家出してきたの。お父さんとお母さん、いないの」

「い、家出ぇ?!どこから来たんだ?」

「知らない街」

「知らない街って……困ったな。帰り方とか駅名とかわかります?」

「よく……わかんない」

 ジェイクとアントンは顔を見合わせ、こんな夜中ではどうにもならないのでひとまず武器屋に連れて帰ることにした。

「ところで嬢ちゃん、名前は?」

 ジェイクが問うと、ルチアは暫時考えた。本名を言ったら連れ戻されてしまうかもしれない。知恵遅れのルチアにもそのぐらいの計算はできた。ルチアは飲み屋の看板に書いてあった『ロゼッタ』の文字を適当に読み上げて名乗った。

「ろ、ロゼッタ!あたし、ロゼッタっていうの!」

「よし、ロゼッタ。数日うちでゆっくりしていきな。お前さんの家、探してやるやるから、ほとぼりが冷めたら帰るんだぞ」

「ありがとうおじ……お兄さん!」

「ジェイクだ。よろしくな」

「アントンです。よろしく」

「よろしく、ジェイク、アントン!」

 そして三人の生活が始まった。


「いいか、この家で生活するにはルールがある。まず、他人のシャワーを覗かない。着替えも覗くな。部屋に出入りするときはノックをする。洗面台やトイレに先に人がいないかノックで確認する。このルールだけは絶対だ。お互いプライバシーは最低限守ってもらう」

 2階のリビングルームでジェイクが腕を組んで説明するのを、テーブルに着いたロゼッタとアントンが傾聴する。アントンはこの説明を聞くのは2回目だ。よほど重要度が高いルールなのだろう。まあ、裸を見られるのは誰しも嫌なことなので、当然のルールだとは思う。

「ロゼッタ、料理できるか?」

「できない」

「だろうな。じゃあ、飯の準備は俺がするから、皿洗いやテーブルふきなんかの、できることは各自分担してやってくれ。部屋はきれいに掃除すること。あと、玄関チャイムが鳴ったら俺を呼べ。店に客が来た合図だからな」

 ロゼッタは必死に覚えようとした。不思議と学校の勉強よりしっかり頭に定着したような気がする。

「以上だ。これだけ守れば自由にしてていいぞ」

「解った!」

 しかし気になるのはロゼッタの家出の理由だ。ジェイクは上座の自分の席に着き、ロゼッタにその理由を聞いてみた。

「ところでロゼッタ、なんで家出なんかしたんだ?」

「あたしバカだから、学校の勉強わかんなくて……。このままだと明日から障害者クラスに入れるって言われたの。あたし別に障害者じゃないし。絶対嫌だったから逃げてきた」

 ジェイクとアントンは同情した。それは確かに嫌だろう。彼らも少なからず子供の頃虐めを経験してきた。障害者クラスに入れられた子供がどんな扱いを受けるか想像に難くない。

「なるほど……。じゃあ帰ったら障害者クラス行きか。辛いな」

「あたし絶対帰りたくないの!ずっとここに置いて!ここの子になりたい!」

「そうは言っても、家出少女を匿うと僕たちが警察に捕まってしまうよ?」

「親戚の家の子を預かってるって言って!」

 ジェイクとアントンは顔を見合せた。親戚と言われてもジェイクの親戚は猫族と猿族だし、アントンの親戚には猿族しかいない。妖精族の親戚を作るのは無理があるのではないだろうか?

「まあ、お前の家がどこにあるかも、調べないといけないしな……。しばらくは預かってやるよ」

「やった!」

「でも、いつかは帰らないとだめだよ?勉強は僕が見てあげるから」

 そして三人は翌日本屋で小学校の勉強の参考書を買い揃え、アントンが作業場で仕事をするかたわら、ロゼッタの勉強を見ることになった。

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