第二章 その二 ヂーミン
エミリはヂーミンと逃げる事に決めた。逃げられる自信も確証も無かったが、そこまで頭は働いて無かった。ただ『居てもしょうがない場所から違う所へ行きたい』と言う漠然とした思考でうなづいていた。
深夜3時。エミリは今まで貯めていたお金だけを持ち出し、アパートの階段を降りた。そこにはいつも通り一台のハイエースが止まっている。
ヂーミンは外国人ダンサーの送迎役で、アパートの見張りも兼ねていた。エミリはヂーミンが乗っているはずのハイエースに近づくと不意に背後から腕を掴まれた。ハッと息を飲み振り返ると他ならぬヂーミンだ。
「だめ、あの車だと見つかる。こっち来て。」
ヂーミンはエミリの腕を掴んだままそう言うと、暗がりを歩き始めた。
シャッターの閉まる寂れた商店街を歩いている間、ヂーミンは事のあらましを説明してくれた。
劇場側の親会社に警察内部の者からガサ入れの情報が入った。そして親会社の判断は『外国人ダンサーを隠す』と言うものだったらしい。
エミリ含む8人のダンサーを送迎車で山間の倉庫に連れて行き、ほとぼりが冷めるまで倉庫内に監禁。その後は別の関連店舗にバラバラに異動させると言う事だ。その送迎を命じられたのがヂーミンだった。
「今、事務所バタバタしてるからね。逃げられるの今だけ。準備してあって良かったよ。」
そう笑うヂーミン。どうやら彼はそもそもいつか逃げるつもりで準備をしていたらしい。
夜も白々と明ける頃、郊外にある墓地に着いた。「こっち」とヂーミンに促された先の竹藪にはバイクが一台倒されて雑草が散らされてあった。
「壊れてるみたいでしょ?ちゃんとね、直してある。急いでもう一個ヘルメット盗んできたよ、入るかな?」
と茂みから赤いフルフェイスのヘルメットを取り出し、エミリは手渡された。
「バイクで逃げるの?」
ヘルメットを被りながらエミリが訊く。
「うん、ヘルメットで顔隠せるからね。ナンバーも付け直したからしばらくは大丈夫だと思うよ。俺が運転するからリュックサックはエミリに背負ってもらうだけど。」
とヂーミンは笑った。その笑顔の優しさにエミリの目からは涙が溢れていた。
何年ぶりだろう、普通の笑顔を向けられたのは。日本に来て数年、彼女は欲望を孕んだ笑顔しか見た事が無かった。いや、日本に来る前からかもしれない。生活に追われた人々は他人に向ける笑顔すら失っていた。ヘルメットの中で拭う事も出来ずエミリの涙は流れ続けた。
「・・・どうして、エミリだけ?」
声の震えを押し殺し、エミリは素直な質問をした。するとヂーミンは「当たり前でしょ?」と言った表情で答えてくれた。
「エミリだけ優しいから。」
そう言うとヂーミンはバイクに跨り、「早く早く」とエミリを手招きした。
二人は東を目指して走りだした。この時エミリは不思議と、
「もうロシアに帰れなくてもいいかな。」
と思ったそうだ。
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