薔薇と男

@tomomoku

薔薇と男

 その男は背が低く、五〇センチ程度しかなかった。広げた両腕も短く、一メートルにも満たない。体付きも細く、強風でポッキリと折れてしまいそうであった。また、服装も何の面白味もない、緑一色の装いだった。

 男は地味だった。他の人が男の側を通っても、男の存在に気付かず、通り過ぎてしまうだろう。それ程、男は、誰が見ても、つまらない小さな薔薇だった。


その男は、薔薇であったのだ。




 男の周りには、多種多様の草木が植えられている。そして、彼らは皆、艶やかな深緑の葉や鮮やかな花で、着飾っていた。それに比べると、男の身なりは貧相だった。男は葉の数が少なく、細い枝や幹が丸見えになっていた。数少ない葉っぱが、爽やかな新緑であれば。細い身体が柔らかな枝や幹であったならば。瑞々しい若者らしさが出ただろう。しかし、男の葉は暗い緑色をしており、枝や幹も、硬く乾いていた。もちろん、麗しい花どころか、愛らしい蕾さえ付いていなかった。

 男は、周りの草木と比べて、明らかに貧相だった。けれど、男は、そんな自分を、恥じた事はなかった。男は、自分が特別な存在であると、確信していたからである。


 男のいる庭園は、美しい少女によって管理されていた。その少女は、日が昇ると鬱蒼とした森のような庭園に来て、草木達の世話を始める。水をあげ、雑草を抜き、肥料を撒く。さらには、木々の剪定までも、一人でこなしてしまう。男は、そんな健気な少女が愛おしかった。

 少女は、当然、薔薇である男の世話も行っていた。薔薇である男は、少女から、他の草木とは違う世話を受けていた。他の草木は、ホースを使って、まとめて水をかけていく。しかし、薔薇である男には、態々、如雨露を持って来くるのだ。如雨露を両手で支えながら、ゆっくりと男に水をかける。また、重い肥料袋を一輪車に乗せて、男の下まで来ると、小さなスコップを使って、男の足元へ肥料を柔らかく振りかける。他の草木の場合は、大きなスコップを使って、肥料を振りかけていく。      

 あの美しくも健気な少女に尽くされる。その事実は、男に強い充足感をもたらした。風に揺さぶられるままの、薔薇の身の上であっても、男は、満たされ、幸福であった。


 男は確かに、満たされ幸福であった。しかし、一つだけ、ただ一つだけ、満たされない思いがあった。薔薇である男は、少女の為に、何かをする事ができないのだ。彼女は自分に尽くし、与えてくれる。それに対して、自分は彼女に、何か返しているだろうか。貧相で面白味のない自分では、とても返せているとは思えない。

 男の、たった一つの満たされぬ思いは、時間が経つ事に、美しい少女を思えば思う程に、強くなっていった。


 彼女は、毎日毎日、自分の下を訪れ、自分なんかの世話を焼いてくれる。それなのに、自分は彼女に何も返せていない。いいや、違う。返す事ができないのだ。この貧相で面白味のない、自分の所為で。

 何か、何かないのだろうか。貧相で面白味のない自分でも、彼女の為にできる事は。本当に、何もないのだろうか。せめて、彼女を楽しませる事は。いや、ある。貧相で面白味のない自分でも、できる事が。貧相で面白味のない自分だからこそ、彼女を楽しませられる事があるのだ。


 花を咲かせよう。そうだ、それが良い。それならば、自分で出来る。自分だけで出来る。自分だからこそ出来る。いや、自分でなければ、出来ない事なのだ。彼女を思って、花を咲かせるという事は。自分にしか出来ない事なのだ。


 男は願った。彼女の為に、花を咲かせる事を。貧相で面白味のない身体に、初々しい蕾が付くのを夢見た。果たして、男の願いが通じ、貧相な身体に硬く小さな蕾が付いた。男に付いた小さな蕾は、日毎に大きく成長していった。貧相な男の身体には、不自然な程に大きく大きく。


 男に、蕾が付いているのを見つけた少女は、花も恥じらう程の笑みを浮かべた。蕾を見つけてから、少女は、男の世話をする度に、男にそっと触れながら、その蕾を愛でた。

 少女に触れられる度に、男は喜んだ。そして、棘だらけの自分に触れて、その花弁のような柔らかな肌が、傷ついてしまわないかと恐れた。男は、身動き一つできない身体に、感謝した。彼女に触れられる度に、心臓が激しく鼓動するのだ。もし、身体を動かす事ができたなら、棘だらけの身体で、彼女の肌を、傷つけてしまっていたかもしれない。


 ああ、しかし、だというのに。私は、彼女の肌に、傷を付けてみたい。と思ってしまっている。ダメだ。だめだ、駄目だ。そんなことは許されない。私の為に、日々、尽くしてくれている彼女を、傷つけるなど、あってはならないのだ。けれども、この身体に付いている棘で、あの柔肌を傷付けられたならば。ああ、何故だか分らない。けれど、それはきっと甘美な事であろう。


 男は、そんな事を考えてしまう自分が、許せなかった。そんな考えを、思い浮かべてしまわないように。または、傷付けようとした少女への、贖罪として。男はただ、只管に、少女の事を思った。そうして、男に付いた蕾は、赤々と色付いていった。


 花が咲いた。一つだけの花が咲いた。男と少女が望んだ、赤々と輝くような、むせかえる程香しい花が咲いた。


 花が咲いた。咲いた。彼女の為の花が咲いた。私と彼女の花が咲いたのだ。これ程、胸が高鳴る誇らしい事は、産まれて初めてだ。

 私一人では、こんな素晴らしい花を、咲かせる事は出来なかった。彼女が甲斐甲斐しく、私の面倒を見てくれたおかげだ。そして、私に触れて、愛情を注いでくれたからだ。ああ、誰か、誰か、この赤々とした花弁を見てくれ。この色は、私が彼女を思い流れる血潮だ。そして、香しい花の香は、私の彼女への愛の叫びだ。この大輪の薔薇の花は、私と彼女との愛の結晶であり、そして、私の心臓なのだ。これ程の幸福を、愉悦を、快楽を感ずる日が来ようとは。私は、幸福だ。世界で最も満たされた者なのだ。


 男の容姿は、貧相なままだった。しかし、薔薇の花を咲かせたその姿は、正しく薔薇であった。




 ある日、少女が庭園に、他人を連れてきた。


 いつもと違い、少女は自分ではなく、他人を見ている。彼は何か、少女に裏切られた気がして、腹が立った。また、彼は、自らに咲いた花を誇りに思っていたが、それを少女以外の人に見られるのを、不快に思った。他人が庭園から去るのを見て、ホッとした程だった。


 彼が、他人の存在を忘れかけた頃、少女に連れられて、また、人が庭園を訪れた。少女は、訪れた客人にお茶を淹れた。そして、庭園に置かれていた白いテーブルと椅子に座って、お茶会を始めた。

 少女が、客人と二人で話をしている。その光景は彼にとって、不愉快なものだった。少女と客人との間に入りたかったが、彼は、自分の意思で身体を動かす事が出来ない。仕方なく、何の話をしているのか、ジッと聞き耳を立てる事にした。どうやら自分についての、話をしているようだった。少女が自分を思っていることに満足し、それ以上、聞き耳を立てるのを止めて、彼は、少女の声を楽しんだ。



 数日後、再び、少女以外の人が庭園を訪れた。今度は少女を尋ねて、庭園へとやって来たのだ。少女は嬉しそうに、来客を出迎えた。そして、前と同じ様に、お茶会を始めた。

 前と違い、彼らは楽し気に話をしている。何の話をしているのか、判らなかったが、二人で笑い合う光景を見ているのは、気分が良くなかった。しかし、閉じられる瞼がないので、その光景を眺めるしかなかった。仕方がないので、少女の楽しそうな様子を眺めた。




 また、彼が少女を尋ねて、庭園へとやって来た。草木の世話をしている少女を見つけると、少し歩みを速めて、少女の下へと近寄って行った。薔薇は、それをぼんやりと見ていた。二人が、楽しげに笑い合っている光景を、見ていた。





 男が、少女を求めて、庭園に来た。男は、少女の姿が見えると、足早に少女の下へと駆け寄った。それを見ていた薔薇は、昔の事を思い出した。そして、自分の前に、自分がいる事を不思議に思った。けれど、風にゆらゆら揺らされて、そんなこともあるかと思った。風が吹いて、薔薇は揺さぶられた。薔薇に付いていた花が散った。


 一本の薔薇が風に揺られている。




 その薔薇は、男であったものだ。

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