第7話⑤ 日本拳法サイバネティクス (編集中)


  チームで戦う「大学日本拳法」の新しい形

 

  この章は 「⑤ 日本拳法サイバネティクス」の まえがきですが、内容的には日本拳法と全く関係がありません。ですから、この章は飛ばして読まれてもかまいません。

 ただ、「日本拳法を数字で楽しむ」さい、数字の使い方を間違うと、とんでもないことになるので気をつけましょう、ということです。

 四則演算程度であれば人間のよき道具であり友達であった数字が、いまや人間を狂気の世界へ引き入れる主人になってしまった。

 

 

 ○ 「キルレイシオが低すぎる」Kill Ratio 

 1962年、アメリカの国防長官ロバート・マクナマラは、ハーバードの元教授であり元フォード社長としての観点から、それまでのベトナム戦争のやり方を分析し、徹底的にこの戦争(ビジネス)を効率化すると宣言した。

 *ベトナム戦争(1960~1975年)*


 当時のアメリカで、新兵一人を一人前の兵士に育てるのに2万ドルかかる。ところが敵のベトコン(ベトナム人のゲリラ兵)は二百ドル。つまり、アメリカの兵士一人でベトナム兵を100人殺さないと元が取れない。これでは効率が悪すぎる

 そこで、一つは安い韓国人の兵隊(傭兵だから、いくら殺されてもカウントされない)の採用、もう一つが北爆の実施であった。

 人間の姿が見えない高高度からアメリカ人兵士(パイロット)が爆弾をばら撒いて山野に潜むベトコンを焼き殺し、平地の集落では「女子供には強い」韓国人兵士たちが、民間人の強姦・虐殺・放火を行うという連係プレーによって、ベトナム人の「戦死者」数を増やすことに血眼になった。

 ビジネスマンは数字が命。いくらら金を使って何人殺したか、という「バランスシート」感覚で戦争を行ったのです。

 

 ○ 米映画「第三の男」

 観覧車の中で、二人の友人同士の会話。

 

 第二次世界大戦の戦勝国、アメリカとソ連の間を要領よく渡り歩き、粗悪な薬剤(ペニシリン)を売る闇商人ハリー・ライムの悪事を知った親友のマーチンは、ハリーに詰め寄る。

「(薬害エイズ、子宮がんワクチン、コロナワクチンと同じ)粗悪なペニシリンの犠牲者を見たことがあるのか ?」


「決していい気分じゃないさ。」と言いながら、観覧車の下に見える米粒ほどの人間を指差して、ハリーは言う。

「だが、あの点の一つが止まったくらいで、可哀相だという感情が ?」

「点が止まる毎に2万ポンド稼げるなら、むしろ点が幾つあるのかを数えるようになるのが(我々にとっては)当然だろう。」


 A国とB国の戦いが終わると、どこからともなく姿を現し、勝った国を後ろ盾にして戦敗国(の女子供)を犠牲にして利益を得る三国人(国際金融資本(パリサイ人系)・韓国人・台湾客家)。彼らは数字(利益)だけを見るので、人や会社や国家が何をやろうと気にしない、罪の意識などない。 

 

 マクナマラ(米軍)はベトナムで300万人以上、カンボジアとラオスで100万人以上を殺し、一方で米兵の死者は5万8千人であったということですから、そこそこキルレイシオの「元が取れた」といえるでしょう。(狂った世界です。)



 米映画「マネーボール」

 アメリカという国は、建国以来、マクナマラタイプの人間(国際金融資本(パリサイ人系))によって、すべてが数字で管理されてきた国です。

 日本の国勢調査なんて、生易しいものではない。アメリカ大陸という土地にいくら金を投資し、穀物・家畜(人間も含む)・石油から人の心まで、金を生み出すあらゆる資源を数値化し、バランスシートにする。現在のコロナ騒ぎとは、人の感情や心まで数値化してコントロールするための一環として数十年前から計画されてきた、トランス・ヒューマニズム(人体と電子機器の融合)への一つのステップです。(次に来るのが、気象のコントロール、インターネットの廃止 → 「彼ら」の使う各国政府から直接、個人に5Gで幻想情報を送るようになるので、個人がインターネットで楽しむという習慣は無くなる。)


 なぜ、彼らがそんなことをしなければならないのか、といえば、彼らは、日本人の豊かな情感に代表される「人間本来の自然の心」を失ってしまっているので、他のすべての人間も、自分たちと同じ索漠とした無味乾燥の心にしてしまいたい(2千年ものあいだ、恋愛ではなく、生きるため・金のため、必要以上に混血を繰り返した結果、豊かな人間の感情が消えた血、いわばロボットの潤滑油的(生化学的な栄養素を運ぶだけの)血液になってしまった)。


 ○ 「メトロポリス」1927年/ ドイツ・監督フリッツ・ラング

 に登場する「マリアロボット」こそ、彼らの近未来の姿です。

「人間の姿をした機械だが、疲れを知らず絶対にミスを犯さない」 → 現在では「生きた人間を機械化(電子化・デジタル化)して、機械と全く同じ働きをするようにする」


 人間はその血液の3分の2を生理食塩水に換えても生きることができるという実験があったそうですが、それはもう、豊かな感情や詩情など生まれることなどない、ロボット。やはり、「血は水よりも濃し」なのですから。食塩水は、そのうち本物の野血液になるそうですが。(海水を血液代わりに注入すると、どんな病気でも治る。「ルネ・カントン~「ただの海水で病気が治っては儲からない」ので歴史から消えている人物~」)




 韓国人や客家の場合、宮崎駿や新海誠の映画(君の名は)なんて、まるで理解できない。

 現実に汗水流して生きる人間と社会を知らず、人の心を知識として学ぶしかない禅坊主と同じで、映画の言葉や映像に「共感するフリ」をすることで、日本人や他の国の人々と同じだと思い込み、擬似的な安心感に浸っているだけ。世界を支配しようというほどの大胆な生き物ではない。日本人に寄生しているだけ。日本人を根絶やしにしたら自分たちも生きていけない。


 だが、彼らの上に位置する国際金融資本家(パリサイ人系)の場合、

 フランス革命以来、金(通貨発行権)で世界を支配してきたという実績とプライドがあるので、逆に、豊かな人の心を数値化し、自分のコントロール下に置こうとする。ワクチン(酸化グラフェンという電導物質の注入)や悪意のエレクトロニクス技術(5G)によって、自分たち冷血動物と同じ血にし、その管理と運用は「彼ら」が行うというわけです。




 ○ 米映画「メトロポリス 2035」(2007年)

 この(架空の)国の国民全員の脳内にスマホ(機能)が埋め込まれ、位置情報はもとより、その人の感情までモニタリングされ、次の段階として怒り悲しみ愛情まで、政府にコントロールされる。何に関心を持ち何にどう感動し何をすべきかは、個人でも家族でもなく政府の指示によるので、自由に情報を交換し合うインターネットは廃止されている。

 この映画は、独映画「メトロポリス 1927」(1927年)を今風に改変したものです。より、現在わたしたちが直面している状況に近くなってきました。





 ○「イーオン・フラックス(2005年)」 

 人間の心を失ったロスチャイルドが、再びそれを取り戻そうとするのだが。


 ○「V フォー・ヴェンデッタ (2006年)」

 ワクチン会社が、各国政府(役人・警察・軍隊)と組んでぼろ儲け。危機を利用して各国を世界をコントロール化に置くという話。

 ウィルスが「浄水場」と「地下鉄」にばら撒かれ、地下鉄は閉鎖。

 あらゆる浄水器(のフィルター)には「コロナ」の原因となる物質(グラフェン)が使用されているので、水道の水も市販の天然水、コーラやジュース等もすべて「汚染されて」いる。

 この映画に出てくる地下鉄(Tube)とは、インターネットを暗示している。

 近いうちに、何らかの事件が起こり、インターネットは使えなくなる。これは、米映画「メトロポリス 2035」で預言されていたことです。




 ○ 「マトリックス(1999年)3部作」

 




 彼らは人間を家畜・私がアメリカに住んでいて感じた不気味さとは、人間の匂いがしないということ。ところが、北米滞在中に旅行で行った、南米やドイツ(ユダヤ人の都市といわれるフランクフルトは除く)では、「ああ、これが人間の住む場所だ。」と感じました。


 さて、数字で物事を把握することで社会を急成長させてきたアメリカでは、千年かかる社会的発展を100年で達成するために、社会生活全般にわたり、すべてが人工的に作られてきたアメリカという国は当然ながら、文化やスポーツの分野においても「数字」で物事を管理するスタイルが生まれてきます。

 戦争の技術の一つであるサイバネティクスとかORといった「人間を者ではなく物と考える」「生物を機械に置き換える」という考え方(いま流行のAIもその流れ)を野球に応用したのが「セイバーメトリクス」です。

 人間が演じる娯楽・見世物としてのプロ野球というスポーツを数字で管理することにより、よりKill Ratioの(コスト対効果)高い効率的な興行にすることが目的です。


 このセイバーメトリクスという統計学的手法を初めてプロ野球界で取り入れたのが、メジャーリーグベースボール(MLB)の球団・オークランド・アスレチックスでした。

 その成果は、2002年、野球選手の年俸総額1位のニューヨーク・ヤンキースに対し、その1/3の年俸総額で全30球団中最高勝率・最多勝利数を記録、という形となって現れました。

(年俸の高い) 豪腕速球の投手や、場外ホームランをかっ飛ばす巨砲ではなく、四球を選ぶのがうまいといった、個性的な(多少クセのある)選手を採用したり、野球の定石ともいえる「送りバント」は統計学的に見れば効率が悪いからやらないといった、それまでの野球に対する考え方を変えた手法で選手を集め、いい成績をたたき出した。

「マネーボール」(2011年)という映画は、アスレチックスのゼネラルマネージャーであったビリー・ビーンが、この手法を初めてチームに導入するにあたっての苦労を描いた映画(原作の本も同じ名前)です。



2021年 8月10日

平栗雅人

 




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