全て溶けてしまうまで


 大きな冷蔵庫を買った。この暑さで今にも溶けそうなので、急いで彼女を中に入れる。


「中から開けることは出来ないようです。なので、出たい時は二回ノックをしてください」


 ドアを閉める前に彼女に声をかけると、わかった、と小さく声が聞こえたので安心して僕はドアを閉めた。






 暫くして、ノックが二回。


「どうかしましたか?」


 僕はドアを開けて声をかける。幾分か元気になった彼女が僕を見ていた。


「外、出たくなって」

「ああ、ここ窮屈ですよね」


 やはり大きくなったとはいえ、冷蔵庫にいるのは窮屈なのだろう。彼女はゆっくりとした動きでそろそろと冷蔵庫から出た。部屋はクーラーを付けているので、暑くはないはずだ。しかし、彼女にとってはまだ暑いのだろうか。彼女の表情からはそれを伺い知ることは出来ない。彼女は僕の方を見て尋ねた。


「どうして、私を助けてくれたのですか?」


 それは至極当然な言葉だった。仕事を終え、帰路を歩いていたところだった。電柱の傍に大きな水たまりができていた。水たまりの中央には、女性の上半身が苦し気に佇んでいたのだ。


「暑い……助けて……」


 溶けて消えてしまいそうな声はとても美しくて、僕は彼女を抱えて家にあった冷蔵庫に入れた。その中で、彼女は少しばかり元気を取り戻したのだが、窮屈そうにしていたので、今日新しく大きな冷蔵庫を買ったのだった。搬入作業が思いの外時間がかかって、再び彼女が溶けそうになっていたので慌てて冷蔵庫の中に入れたのだった。

 正直、何故助けたのかと言われると少し困る。彼女の声に魅せられたのだと言えば軽い男だと思われるだろう。それは避けたかった。


「……君が苦しそうにしていたから、助けたいと思って」


 これは嘘ではない。苦しそうな声に惹きつけられたのだ。彼女は僕の言葉に、驚いたような顔をする。


「私は雪女なのですよ?怖くはなかったのですか?」

「いいえ、僕は美しいと思いました。このまま溶けてしまうのは惜しいと思ったのです。……すみません、気持ち悪いですよね。こんなことを言われたら」


 彼女は笑って、僕を抱きしめた。


「そんなことを言う人間は初めてです。ありがとうございます」


 彼女の笑顔は雪の結晶のように美しくて、僕はうっとりと彼女に見入る。が、抱きしめた場所から溶け始めている。僕はあわてて彼女を冷蔵庫に案内した。

 それから、彼女との不思議な生活が始まった。彼女の食事は水、正確には氷一つで十分のようだった。テーブルには普通の食事と、氷が乗った皿が一枚。二人で毎日食事をした。僕が咀嚼するのを真似て、彼女は氷をガリガリと咀嚼した。


「もうなくなってしまいました」


 そう言って笑う彼女は美しくて、僕は幸福に胸が満たされるのを感じた。

 彼女の服は彼女の一部のようで、洗濯は必要なく、脱ぐこともないようだ。けれど洗濯機がグルグルと回るのは興味深いようで、よく洗濯槽を見つめては溶けかかっていて慌てたものだった。

 彼女との生活はとても楽しくて、楽しくて、僕は彼女と添い遂げられたらどんなに幸せだろうと思ってしまった。






 部屋に入ると、僅かに涼しさを感じた。外が暑かったからだろうか。部屋の奥に入ると、男がベッドで横たわっていた。頸動脈の拍動を確かめるが、既に息はないようだった。眠ったように死んでいる男は、安らかな顔をしていた。

 近所の話では、独身の男性のようだ。周囲との付き合いはなかったため発見が遅れたが、腐敗臭がないのが気にかかる。それから、ベッドの近くには水たまりができていた。ベッドには濡れた痕跡はない。それから、クーラーが付いていない部屋だが涼しさすら感じる。この男の死には不可解な点が多い。これを自殺と片付けるのは早急だな。老齢の刑事は眉間に皺を寄せて、安らかに眠る男を見ていた。


Fin.

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