第2話 注連縄

 かつて地上には、ヒトが何十億人もいたと言われている。

 どこにいっても人だらけで、地上だけでなく海や空にも人が住み、それでも土地が足りないからと空の彼方の星に家を建てる計画さえあったそうだ。

 人には翼がないのに過去の人間たちはどんな技術を使って鳥のように飛んでいたのだろう、と空を見上げる度に思う。

 生まれる時代が違ったのなら、あのふわふわな雲をさわれたのだろうか。海の底だって歩けたのだろうか。今となってはどれも叶わない夢で、すべて吸血鬼のせいだった。


 人の生き血をすする怪物。搾取さくしゅする者。生と死の狭間に存在する者。

 その昔、彼らとの戦いに敗れた人類は徹底的に殺戮さつりくされ、戦乱に続く飢餓きが疫病えきびょうの発生により絶滅一歩寸前まで追い詰められた。

 なおもい寄る吸血鬼の手から逃れ、逃げ込んだこの土地を注連縄しめなわで囲い強力な結界を張り巡らせ、今のこの村があるのだと祖父、いや村長は折に触れて語る。

「ヒトは暗黒時代を経て、ようやく安寧あんねいの地を得たのだ。けれど今でもあやつらは結界の外へヒトが出てこないかと待ち伏せしておる。特に子供の血は美味いからな、真っ先に狙われてしまうぞ」


 ヨウが実際に注連縄しめなわを目にしたのは一度だけだったが、その時のことはよく覚えている。

 七つになった翌日のこと、父は「結界の境目までいく」と告げ、ヨウとハクを連れて村の外へ出かけた。

 初めての村の外の世界は、ただただ怖かった。道らしい道はなく、頭上には木々が生い茂り、どこを見渡しても暗い闇が広がっていた。父は何も言わず、手をひいて鬱蒼うっそうとした森を歩き続けた。

 不安で胸が苦しくなっても、ヨウは黙っていた。ハクも同じであった。もし音を立てようものなら、ここに人間がいると悟った何かが襲ってくる、そう思わせるものがあった。

 時折聞こえてくる動物の鳴き声やかさこそと虫がうごめく音でさえ、ヨウを怖がらせ、周りを見ないようになるべく地面の視線をおろし、父の手が離れなように必死に握った。

 そうやってどれくらいの時間を歩いたのか分からない。ずいぶん歩いたようで、実はそれほど経っていないかもしれない。

 結界なんてどうでもいいから早く安全な家に帰りたいという想いが心を占めていた。

 目の前にいる父が本当は吸血鬼が化けた姿で、どこかへヨウを連れ去ろうとしているのではないか、という恐ろしい想像が浮かんだ時、不意に父が足を止め、顔をあげた。

「村の守りだ」

 家を出て、初めて父が発した言葉であった。

 釣られて顔をあげた先には、大きな巨木に鎮座ちんざする注連縄しめなわであった。

 太さだけでもヨウの体より大きく、先っぽはどこにあるのだろうと辿たどっても、やがて森の闇へと溶けていくほど長かった。

「これが……?」

 守りというからには、温かで優しいものだと想像していた。

 けれど目の前のそれは強烈な存在をもってヨウを威嚇いかくし、中にいるものを捕らえて逃さない、そんな印象さえ受けた。

「ああ。これによって、村は吸血鬼から守られているんだ」

 闇の中、浮かび上がる父の顔。彼は何かを思いながら注連縄しめなわを見つめていた。

 それが注連縄しめなわを見た初めての記憶であった。でも、どうしてだろうか。父のどこか寂しげな表情の方がよっぽど思い出に残っていた。


 成人の儀の日は、普段は閉ざされている注連縄しめなわの結びが解かれる日だ。

 村から大人の足で二日ほど歩いたところに隣村、そして、そこからさらに三日あるいた先に大きな村があるそうだが、毎年八月になると成人を迎えた若者が結界を超えて一つの村に集まり、盛大な祭りが開かれる。

 若者たちはそこで生涯しょうがいの相手を探し、もし見つかればそのままつがいとなり、その村に残るというならわしだ。ヨウの母は隣村の出身で、成人の儀でこの村を訪れた時に父と恋に落ち、それ以来この村で暮らしている。

 成人の儀は三つの村が一年ずつ交代で行っており、今年はヨウの村が持ち回りだった。祭りの日に向けて、太鼓や笛を奏でる音が聞こえてくると心が躍る。村全体が生き生きとしているようであった。

 一方で誰もが準備で大忙しなため、子供に対して警戒が手薄になっていた面もあった。

 だから。

 いよいよ当日を迎えた成人の儀の日、両親からハクがどこにも見当たらないと聞いて真っ先に思いついたのは、注連縄しめなわのことだった。

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