第67編「もう二度と、繰り返さないために」

 ――……愛しい人幸音さん亡骸なきがらを目にした瞬間、自分の生きている意味がわからなくなった。



「……はーっ、はぁっ……っはぁ、っは、っ!!」

和臣かずあき様? 大丈夫ですか? 和臣様……!!」



 過呼吸を起こして、目の前がパチパチと弾けた後の事は記憶に無い。


 気付けば私は片手に握りしめたはしを婚約者の骨へ伸ばしており、自分が今行っているのか理解した途端に利き手はぶるぶると無様なほどに震え、喉まで込み上げた胃酸と悲鳴を無理やり飲み下していた。






 貴女と同じで心優しいご両親は、一文字たりとも私に罵倒ばとうの言葉を浴びせなかった。



「和臣さんのような人に愛されて、幸音ゆきねもきっと幸せでした」



 もうこの世のどこにも居ない宝物を語る時、2人はひどくおだやかに笑っていた。

 そして同時に理解する。私には、ひたいを地面にこすり付けてびる権利すら与えられていないのだと。



(役立たず。嘘つき、無能……虫ケラめ)



 代わりに、私は心の中で何度も自分自身をののしった。



(どうか、誰か、お前のせいだと言ってくれ)



 周囲からそそがれる『優しさ』は円を描き、鎖のように私を縛り付けて離さない。

 罪悪感が重石おもしのように背にのしかかるせいで、前を向いて歩けなくなった。



(ごめんなさい。私のせいだ)



 医学がもっと進歩していれば? 違う。そんなものはただの言い訳で、単に私の成長が遅かっただけだ。


 もっと死に物狂いで書物しょもつかじり付いていたら。私が貴女のそばを離れなければ。

 戻らない時間に後悔して、たらればを繰り返す。


 貴女がいなくなった世界はふっとあかりを消したかのように真っ暗で、進む先の見えない日々は生き地獄だった。



「……もしかすると、悪い夢なのではないだろうか?」



 まぶたを閉じる前にこぼした都合の良い希望は朝日に溶かされて、太陽が私をあざける。

 夢の中に現れる貴女はいつも笑っていて、陽の光の下で元気に野原を駆けていた。



(どうして私を責めない?)



 そんな心の声が聞こえたのか、幸音さんは花が開くように微笑みただ一言。



「和臣様を愛しているから」



 その答えを聞いて、夢から覚める。

 自分がどうしようもなく弱い人間であると、貴女におそわった。



「ゔっ、おぇっ……っ!!」



 貴女を想えばいつも心の中が幸せで満たされていたというのに、あれから貴女を思い出すたびに胃の中がぐつぐつと煮えたぎって嘔吐おうとを繰り返すようになった。



(ごめんなさい、ごめんなさい)



 私が治してみせる、貴女が年老いるまでそばにいる。全部口だけの大嘘つきだ。

 助けられなかった、そばにいなかった。間に合わなかった。

 自分の都合を優先させて、何よりも大切な人から目を離した結果がこれだ。


 私に向けられた神様からのばつに、罪のない人を巻き込んだ。

 ご両親が大切に育てて、懸命に守った存在を私が奪ってしまった。



(ごめんなさい)



 人一人が壊れるのには、一日あれば十分だった。



「……き様、和臣様!! ご無事ですか!?」

「良かった! どうしてこんな真冬に海へなど……!!」



 最初は入水自殺をこころみたが、あわれにも失敗に終わる。



(……生きながらえてしまった)



 屋敷に戻った私は自室に閉じ込められ、扉の外には見張りが立ち、風呂には下男げなんが付き添うようになった。


 常に手足の先がしびれ、食べ物の味がしない。もやがかかりうつろになった思考では、“死ぬこと”以外まともに考えられない。

 息抜きをしろと言って医者が本を見せてきたが、文字を『文字』として認識できず、人と会うのが億劫おっくうになった頃――排泄はいせつするとき以外は寝具から起き上がれなくなっていた。



(殺してほしい)



 幸音さんのご両親に死んで詫びたい。

 独りよがりな願いを抱くたび、気味の悪さに鳥肌が立った。


 悪いのは自分自身のくせに。



(幸音さん、ごめんなさい)



 私は貴女が思ってくれているほどに大した人間ではないし、聡明そうめいでもない。

 ただどこまでも自分本位で軟弱で、みじめで頭が悪く、我が身可愛さに後先を考えず、“最期さいごまで”おろかで凡俗ぼんぞくな男だ。



「きゃあああっ!!」

「和臣! 和臣……っ!! 息をしろ!! 和臣!!」



 ――……ネジの外れた頭など、吊るしておくのがお似合いだろう。





 未経験の感情、初めて聞く声、覚えの無い出来事。


 脳みそへ駆け巡った“知らないはず”の記憶を、裕一郎は瞬間的に『他人事ひとごとではない』と理解



「――っ!!」



 ほとんど反射的に右手で自身ののどに触れると、えも言われぬ感覚がぞわぞわと肌の上を駆け巡る。

 しかし早鐘のように脈打つ鼓動を感じながらも、彼はどこか冷静な頭で恋幸の話を思い出していた。


 前世、生まれ変わり、元・婚約者。

 今しがた“よみがえった”ものに照らし合わせれば全てに合点がってんがいき、改めて現実を飲み込む。


 その一方で、強い悲しみが全身に襲いかかった。



「――……とさん、倉本さん! 大丈夫ですか?」

「……ええ、大丈夫です。少しぼーっとしていました、すみません」



 隣で不安げに眉を寄せて自分を見上げる恋人は、前世で愛した男がどんな最期をげたのか。当然、知るよしもない。自分が思い出したところで、あんな事を教えられるわけがない。

 優しい彼女のことだから、許嫁いいなづけは幸せに人生を終えたと思っているのだろう。自死じしを選んだなど、一ミリも想像できないのだろう。


 そんなことを考えている内に、裕一郎の心に湧きあがったのは罪悪感や後悔などではなく、



「……小日向さん、」



 どうしようもないほどに大きな愛情と庇護欲ひごよくだった。



「……? はい、なんですか?」



 前世で守れなかったと言うのなら、自分がこの子を守り通そう。

 なげくよりも、後悔するよりも。“今の自分が”できる事をして、しみない愛を注ぎ続けよう。


 小日向恋幸愛しい人は、すぐそばに居るのだから。



「……愛していますよ」

「え、え? なんですか? すみません、聞こえなかったのでもう一回お願いします!」

「館内を見終わったら、昼食の時間にしましょう。食べたい物、考えておいてください」

「わーい! わかりました!」



 裕一郎が恋幸の小さな手を片手で握ると、途端に黙り込んで足元に目線を落としてしまう。

 その顔は薄暗くてよく見えないが、きっと赤く染まっているのだろう。



「さて、行きましょうか」

「は、はい……」



 わずかに汗ばむ手が躊躇ためらいがちに裕一郎の手を握り返し、彼はバレないように小さく笑って改めて大水槽をあおぎ見た。


 例え一部分であっても、今日この時に記憶が蘇ったのには何か意味があるはずだ。そしてそれはきっと、現世の恋人こゆきを幸せにするためのものに違いない。



(そうでしょう? 和臣さん)

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