第36編「できることなら、もっと……」

 どれくらいの時間、抱きしめあっていただろうか。

 庭園ていえんを通り過ぎた風の音で我に返った恋幸は、少し体を離してすぐそばにある裕一郎の整った顔を仰ぎ見た。



「あの、今さらですけど、睡眠の邪魔をしてすみませんでした。時間は大丈夫ですか? 明日、お仕事は……」

「邪魔だなんてとんでもない。仕事はありますが、日付が変わる前に寝ればいいので時間ならまだ問題ありませんよ」



 彼はそう言って口角をほんの少しだけ持ち上げると、彼女の髪を手ぐしでいてから指の背で頬をぷにぷにとつつく。

 そんな些細な行動ですら今の恋幸にとっては凄まじい破壊力を持っているなどと、この薄暗い室内で眼鏡をかけていない裕一郎が彼女の表情から察知できるはずもなかった。



「~~っ、あの……もう一つ、わがままを聞いてほしいです」

「なんですか?」



 恋幸は頬に熱が集まるのを感じながら、緊張でわずかに震える唇をゆっくりと持ち上げる。



「……キス、してもいいですか?」



 彼女の言葉を受けて、裕一郎は驚いたように目を丸めたままぴたりと身動きを止めたものの、数秒の間を置いて喉の奥で小さく笑うと大きな手で恋幸の頭を撫でた。



「ずいぶん可愛いですね」

「だ、駄目ですか……?」

「駄目です。なんて、言うと思いますか?」



 意味ありげに口角を持ち上げる彼の問いに、恋幸は一度目線を手元に落として緩やかにかぶりを振る。それから、大きな深呼吸をして改めて眼前がんぜんの青い瞳をまっすぐに見据えた。


 こうして夜のとばりに包まれた中で見るとまるで自分だけの月が浮いているみたいだ、などと彼女は脳みそのはしで考える。



「で、では……っ! 失礼します!!」



 緊張から体を縮こませる恋幸を案じながらも、ここで「私からしましょうか?」と聞くのは侮辱に近いかもしれないと考えて裕一郎は静かに彼女の行動を待っていた。



「ふーっ……」



 恋幸は一つ大きな息を吐き、両手を握り合わせて固く目を閉じるとゆっくり彼に顔を近づける。

 しかし惜しくもせいで狙いの的を外してしまい、彼女のキスは裕一郎のあごにぴとりと触れただけで終わってしまった。……のだが、恋幸はそそくさと体を離してまぶたを閉じたまま「すみません!」と謝罪をこぼす。



「……ふ」

「!!」



 小さな笑い声が耳に届き、彼の片手が恋幸の後頭部をそっと掴んだ。

 次の瞬間――……暖かく柔らかいものが唇に触れ、ワンテンポ遅れてから口付けられたことを理解する。


 驚いて目を開ければ裕一郎の瞳が恋幸の姿を映してわずかに揺らぎ、惜しむように離された唇に彼の吐息が触れた。



(キス、しちゃった……裕一郎様と、キス……)

「……可愛い」



 れたリンゴのように赤く染まった彼女の頬に片手を添える裕一郎は、ひどく優しい声でそう呟いてもう片方の手で頭を撫でる。



「あの、倉本様、」

「はい」

「……もっと、キスしたいです」

「……ええ、喜んで」



 彼はやや前屈みになったまま恋幸の背中に手を回して抱き寄せると、緊張をほぐすかのように頬へ何度か口付けを落とした。

 そして、彼女の肩から力が抜けたのを確認してからゆっくりと唇を重ねる。



「んっ……」

「……」



 静かな室内を、ちゅ、ちゅと小さなリップ音だけが支配して、ただでさえ熱を持つ恋幸の顔が更にあつくなっていくのを感じた。

 どうやら裕一郎はわざとしているらしく、口を離してひたい同士をくっつけると「可愛いですね」と呟いてもう一度キスをする。



「ふ……っ、くらもと、さま」

「うん?」

「いったん息継ぎしてもいいですか」



 頓珍漢とんちんかんな問いに彼は3秒ほど動きを止めた後、息を吐くように笑って顔を離し恋幸を抱きしめた。



「すみません。貴女から求めてもらえたのが嬉しくて、調子に乗りました」

「と、とんでもないです……! ありがとうございました!」

「こちらこそ」



 彼女が大きく息を吸っている間、裕一郎はその背中をとんとんと優しく叩く。

 そして呼吸が整ったタイミングで体を離し、恋幸の顔をまっすぐ見据えて口を開いた。



「私からも一つ、質問して構いませんか?」

「もちろんです! なんでもどうぞ!!」

「気になっていたのですが、小日向さんはなぜ私を『倉本様』と呼ぶんですか?」

「えっ」



 十中八九彼が言いたいのは敬称についてだろうが、ずっと指摘されなかったため何も問題がないと思っていた部分に今になって触れられ、どう答えるべきか迷ってしまう。

 彼女が『倉本様』と呼ぶ理由はただ一つ、



「その……前世でも、『様』を付けて呼んでいた、ので……」



 この雰囲気で和臣かずあきの話題を出すことは躊躇ためらわれたが、どちらにしろ裕一郎に対して嘘をつくことができない恋幸は正直に原因を打ち明けた。

 気を悪くさせてしまわないだろうかとうれう彼女をよそに、彼は意外にもあっさりと話を飲み込んで「なるほど」と頷く。



「私達は“恋仲”なんですから、『様』なんて付ける必要はありませんよ」

「で、では失礼して……! 倉本!」

「急に失礼すぎるでしょう」



 ごもっともである。



「あっ、えっと……く、倉本、さん?」

「はい、よくできました」

(んん~! 褒めてくれた……! 大好き!)



 まだ寝たくないと思いながらも、二人は布団に入って「おやすみなさい」の挨拶を交わし瞼を閉じた。

 ――……触れ合った唇が、まだ熱くて仕方がない。

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