第22編「期待しましたか? 先生?」

 数時間後の正午――……恋幸と裕一郎は、モチダ珈琲店で落ち合っていた。



「何事かと思いましたよ」

「ご、ご迷惑をおかけしてすみません……」



 ソファーの隅にビジネスバッグを置いた裕一郎がお冷に手を伸ばす様子を見送りながら、恋幸は申し訳無さそうに肩を縮こませる。

 すると、彼は横目に恋幸を見つつ喉仏を上下させて口内の水分を飲み込み、無表情のまま言葉を落とした。



「いえ、迷惑はいくらかけて頂いても構いませんが」

「……えっ、」

「むしろ、真っ先に私を頼ってくれたのかと思うと気分が良いです」

「へっ!? くっ……へっく……っ!」



 そんな甘い返しをされるだなんて恋幸にとっては予想外もいいところで、驚きのあまりしゃっくりだって出てしまう。



「……大丈夫ですか?」

「だ、だいじょへっく! うぶ、です! へっくっ」



 裕一郎の前で醜態しゅうたいを晒しているという恥ずかしさが心の中を少しずつ圧迫しているため厳密に言うと『大丈夫』ではないのだが、しゃっくりの話題に集中させてしまわないよう恋幸は彼に笑顔を向けるしかなかった。


 彼はいぶかしげに目を細めた後、小さく息を吐き「ここでは話しづらいでしょうし、場所を移しましょうか」と言ってビジネスバッグに手を伸ばす。



「え? へっくっ、お、お仕事へっく……っ!」

「……午後からは休みにしてきたので問題ありません」



 その返しに恋幸はデジャブを感じ、今度こそ「私のことよりも仕事を優先してほしい」と伝えなければ! と数ミリ残った理性で考えたはしたものの、と違い裕一郎が自分に恋愛感情を抱いてくれているのだと知っている状況では、



(私のために有給とってくれたのかな……? 優しい、大好き……あっ、大好きポイント見つけちゃった……!)



 ときめき不可避であった。





「お、お邪魔しへっくっ」

「……はい、お邪魔してください」



 そして、やって来たのは裕一郎宅。

 恋幸は用意されたウサギ柄のスリッパに履き替え、再び彼の自室に足を踏み入れた。


 改めて見渡すと、部屋の角には和風の建物に不似合いなテーブルとデスクトップパソコンが置かれており、すぐ側には先日恋幸がプレゼントしたばかりのウサギの置物がちょこんと飾られている。



(え? こ、こんなよく見える場所に置いてくれてるの……? 裕一郎様、大好き……!)



 立ち尽くしたまま何にでも心ときめかせる恋幸をよそに、裕一郎はモチダ珈琲店でテイクアウトした飲み物2つとストロー1本を座卓に並べ、まずは座布団に座るよう促した。


 一礼した恋幸が彼に言われた通り腰を下ろしてからタンブラーのふたにストローをし終えたタイミングで、裕一郎はゆっくり口を開く。



「それで? 何を『助けて』ほしいんですか?」

「あっ……えっと、そへっくっ、その……」

「……もしかして、仕事関係の相談ですか? 日向ぼっこ先生?」

「!?」



 いつだかのように彼女を『先生』と呼称した裕一郎の雰囲気はどこか楽しげで、真向かいにいる彼は片手で頬杖をつき恋幸をまっすぐ見据えたまま、ほんの少しだけ口の端を持ち上げた。


 一連の出来事に、恋幸は真っ赤な顔でコクリと頷いて目線を手元に落としてしまう。



「へえ……守秘義務がありますよね?」

「は、はい……へっくっ」



 一歩、二歩。

 裕一郎の足音が近づいていることに気づきつつも、再び空色の瞳に捕まってしまうことを考えるだけで恋幸はなぜか動けなくなる。



「それでも私にほしくて、電話をかけてきたんですか?」

「へっくっ……は、い……」



 高く跳ねる心臓が、口からこぼれ落ちてしまいそうだ。



「そうですか……いったい、どんな要件でしょう?」

「……っ!!」



 いつの間にか恋幸の真隣に移動していた裕一郎は、片手でそっと彼女の肩を掴み自分の胸元へ抱き寄せる。

 突然の出来事に息を止めて固まる恋幸を見て、裕一郎はバレないよう小さく息を吐いて笑い、彼女の長い髪を自身の人差し指に軽く巻きつけた。



「どうしました? ほら……息はしてください、日向ぼっこ先生」

「っそ、あの、」

「うん? なんですか?」



 密着しているせいで、裕一郎が低く言葉を落とすたび吐息が少しだけ恋幸の耳たぶを撫でていく。

 何か返事をしようと脳を働かせても、耳の奥まで響く心臓の音が思考回路の邪魔をした。


 まだ3月だというのに、頬が熱くて仕方ない。



「わた、し、あの……く、倉本様に、」

「はい。私に?」



 裕一郎は自身の肩にのせられた恋幸の頭を優しく撫で、空いている方の手で彼女の輪郭をなぞる。

 そのまま彼の長い指が恋幸の顎を持ち上げれば強制的に目線が交わり、動揺からその瞳がわずかに揺らいだ。


 どちらかが少しでも体を動かせば、唇同士が簡単に触れてしまいそうなほど至近距離に迫る、裕一郎の整った顔。



「くらも、と、さま……」

「……小日向さん、」



 低く名前を呼ばれ、キスされるのだろうかと考えた恋幸がぎゅっと目を瞑った――……瞬間。

 小さな笑い声が彼女の鼓膜を揺らし、何か暖かくて柔らかいものが額に触れる。



「……しゃっくり、止まりましたね」

「へ……? あっ、は、はい……」

「良かったですね」



 無表情でそうこぼし体を離す裕一郎を見て初めてからかわれたのだと理解したものの、恋幸は今だに高鳴る鼓動のせいで彼を怒れずにいるのだった。

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