第11編「素直すぎるのも考えものですね」

「……大丈夫ですか?」

「ダイジョブデス……」



 今現在――……恋幸は少しでも気を抜けば口から心臓がポロリしてしまいそうなほど追い詰められており、全く“大丈夫”な状況ではなかった。



「んふーっ……んふーっ……」

「……」



 なぜ彼女の鼻息が荒いのかというと、7割の原因は今いるにある。


 あの後、裕一郎の顔に浮かんだ微笑みの理由が恋人の存在ではなかった事や、どうやら彼が自分のファン……かどうかはさておき、1人の大切な読者であった事。『日向ぼっこ』の正体を知ってもなお、作品に対しての気持ちが変わらないでいてくれた事などなどにより嬉しさが限界突破していた恋幸は、スキップするような足取りで裕一郎の後ろをついて歩き彼の車に「お邪魔します!」とウキウキで乗り込んだ。

 そう――……乗り込んでのである。彼の、車に。


 狭い車内に二人きり、何も起こらないはずがなく……いや、実際に何も起きていないのだが、シートベルトをした瞬間から恋幸は数分前の自分を恨みながら正気を保つので精一杯だった。

 少し目線を移動させれば、その先にあるのは骨ばった男性らしい手でハンドルを握り、慣れた手つきで運転する裕一郎の横顔。そして、たまに鼻腔をくすぐる香水らしき甘い匂い。そんなものをほぼゼロ距離とも呼べる近さで浴びせられているのだから、「落ち着け」と言う方が無理な話だろう。



(な、何か……! 話題、話題……っ!!)



 しかし、いつまでも鼻呼吸を繰り返し黙り込んだままでいるわけにはいかない。きっと裕一郎を退屈させてしまっているはずだ。

 そう考えた恋幸が小さな脳みそから必死に絞り出したのは、



「あっ、あの……いい車ですね!!」



 独創性の欠片もないが、車が好きな一般の成人男性相手であればそこそこの盛り上がりを期待できるであろう話題。

 だが、進行方向を見据えたままの裕一郎が返したのは「……そうでしょうか?」という、疑問形に縁取ふちどられたセリフで、



「そ、そう……なん、じゃ、ないですか……?」

「……はあ、そういうものですか。車種には特にこだわりや興味が無いものでして……今乗っている“これ”も、実績のあるディーラーに勧められた物を買っただけなので……」

「そ、そうなんですね!」

「はい、そうです」



 ――……以上。会話、終了。


 それから恋幸は窓の外を流れる景色に目をやりつつ、時折、信号の色が変わるまでの時間を数えていた。こうしていれば、彼との間に存在するこの透明な空気に虹色を混ぜられるような『何か』を見つけられるかもしれない。

 そんな風に考える恋幸の耳を不意にくすぐったのは、



「……すみません」

「――っ!?」



 ぽつりと落とされた裕一郎の呟きだった。



「え……えっ? どう……なんで、倉本様が謝るんですか……?」



 彼女が問い返したタイミングで車は赤信号にさしかかり、裕一郎はゆっくりとブレーキを踏む。

 その間、恋幸は彼の横顔を見据えたまま次の言葉を待っていたが、空色の瞳が彼女の姿を映すことはなかった。



「……あの、くらも」

「移動のためとはいえ、嫁入り前の女性を車に乗せるべきではありませんでした。密室空間で2人きりになるような真似は避けて当然だというのに……考えが及ばず、小日向さんに不快な思いをさせてしまい、すみませんでした」

「……え……」



 今、何を言われたのか。恋幸は、彼の言葉を素直に飲み込むことができない。


 密室状態は避けるべきだったと、後悔を滲ませたそのセリフに関しては裕一郎の気持ちがわからなくもなかった。一人の女性として気遣ってくれていることくらいは恋幸にも理解できたからだ。

 しかし、問題は最後の部分である。



(不快な思い……? 私が?)



 片想いとはいえ、裕一郎と共に過ごす間『幸せ』以外に恋幸の心を表せられる言葉は存在しなかった。


 ――……きっと彼は、なにか大きな勘違いをしている。

 そう気づいてしまった瞬間、恋幸の頬は風船のようにぷっくりと膨れ上がり、考えるよりも先に体が動いていた。



「……っ、倉本様……! ちょっと、次のコンビニで停めてください!!」

「……急ですね」



 恋幸が裕一郎の服のはしを指先でちょいと摘んで言葉を投げれば、彼は相変わらずぴくりとも変化を見せない顔でシフトレバーに片手を置き、車道沿いに建つコンビニの駐車場へ入って恋幸に言われた通り車を停め、小さなため息を吐きつつ背もたれに体を預ける。


 一方で、恋幸は心の中がムカムカしてたまらなかった。

 なぜなら、



「さっきの……! 私に、ふふ、不快な思いをさせたって……! どういう意味ですか……!?」

「……ひどく、顔色が悪かったので。無理やり密室に連れ込んでしまったせいだと、」

「それは……っ! 倉本様と車内に2人きりだって意識しちゃったらドキドキして、緊張していたからです……! 不快になんてなっていませんし、倉本様のせいで不快になるなんてことはこの先も絶対絶対、絶っ対にありえません……!! よく覚えておいてください!!」



 勢いに任せて言い終わると同時に、恋幸は「とんでもない発言をしてしまったのではないだろうか?」という後悔の念にさいなまれる。

 しかし、とっさにこの空気を取りつくろえるような気の利いた言葉が脳内に浮かぶわけでもなく、彼女は体を裕一郎の方に向けたまま唇を引き結び、両手で自身のスカートをきゅっと握りしめた。


 すると、裕一郎はなぜか深い溜め息を吐きながら車のハンドルに両腕を置き、その上に顔を伏せる。



「……あの、く、倉本様……?」



 少しの間を置いてから恋幸が遠慮がちに声をかければ、裕一郎は体勢を変えず顔だけを彼女に向け、



「……よく、覚えておきます」



 心地の良い低い声で、ぽとりと一つ言葉を落とした。



「――っ!?」



 ――……その顔に浮かべられた柔らかな微笑みを知っているのは、今この場では恋幸だけである。

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