永炎の聖約者~レズ風俗通いの変なお姉さん、実は変身ヒーローです~

斎宮ルミカ

第1話 火滴

 聖理愛せりあがNo.1の座から転落して気付いた事実は、今まで「聖理愛」の取り巻きだと思っていた同僚たちは、実際は「No.1」に追随していた、ということに他ならない。


「麗奈ちゃん、またお泊りコースだったの!? もう完ッ全に稼ぎ頭じゃない!」


「いいないいなあ。何でそんなにお客さん取れるのか、私達にだけこっそり教えてよ~」


 寄って集ってちやほやされているのは、今の『プティ・スール』――この国の首都・大京府だいきょうふS区の繁華街に店舗を構える、キャスト・顧客ともに女性限定の性風俗店――において現在頂点に立つキャスト、麗奈れなである。彼女と不運にも事務所待機の時間が重なると、聖理愛は嫌でもかつて自分が浴びていた称賛と羨望を、遠巻きに聞くことになる。


「いやいや、買いかぶり過ぎだよ皆。アタシなんて元々暇だから店にいる時間長くて、それで使ってもらえただけだって。だいたい魔法のコツなんか知ってたら、No.1になるのにたっぷり1年半もかけてないかもよ?」、


 麗奈の装いはギャル然として華やかではあるものの、天性の容姿において、誰もが振り向き目を見張るような美しさに恵まれているわけではない。それでも彼女が地道なキャリアを重ねて、大量の指名を勝ち取れた理由はふたつ。本人も自認するところの稼働率の高さと、謙虚さ故に積み上げてきた努力だった。

 

 対する聖理愛は、2年ほど前に『プティ・スール』に加わるや否や、優れた顔貌と豊かな肉体を武器に、瞬く間に評判を勝ち取った才能型のキャストだ。だが彼女は、脚光を浴びるにつれて鎌首をもたげてきた傲慢に蝕まれ、顧客からの信頼を失いつつある。何せ、最近はプレイの内容も押し付けがましく指示するようになっていたのだ。


 おまけに、No.1からの転落という形で失墜が可視化された結果、聖理愛の心は荒れに荒れていた。精神の失調は必然、睡眠不足や肌荒れの形をとって肉体にも反映され、この頃は月のモノまで周期が乱れ、痛みは激しくなってきた。


(顔も体も出来が違うのよ。なのにどうして、私があいつに負けるっていうのよ!)


 数分が経つと、麗奈たちは談笑を続けながら控え室を出ていく。それぞれの仕事に向かっていくのだ。ひとり残された聖理愛は一瞥も返さず、鏡に向かって化粧を塗り重ねる。だが今の彼女を前に、鏡が理想通りの顔つきを映し出すことはない。


「嫌っ、こんなの認めない! 私は、いちばんきれいじゃなきゃ、いけないのにっ」


 独り佇む女の乾いた唇から、思わず絞り出すような泣き言が溢れると、


『――また、一番になりたいか?』


 思いがけず、応える声があった。

 

 それは飢えた獣の唸りのように低く、気味の悪い声だった。奇妙なことに音の源がはっきりとしない。聖理愛を中心として、四方八方から残響が押し寄せてくる。

 

「……な、何!? 誰かいるのかしら?」


 反射的に周囲を見回す聖理愛だが、依然として控え室には彼女以外の人影は見つからなかった。無論ラジオやボイスレコーダーの類が置かれていることもない。動揺をよそに、声はなおも続いた。

 

『あの頃のように愛されたいのだろう。力を求めるお前の心、私にはよくわかる』


 「分かったような口を利いて」――喉元まで出かかった怒りの言葉を、聖理愛は口にできなかった。得体の知れない声が発したものであっても、紛れもなく、久々に耳にした同情と共感の言葉だったからだ。


『そして私はお前を助けてやれる』


「一体、どうやって」


『見ていろ』


 声がそう促した瞬間、鏡に映るやさぐれた顔に変化が生じた。目の下に張り付いていた隈は消え、肌は見る見るうちに潤いと弾力を取り戻す。


「顔が、元に戻っていく……」


『まだ終わりではない』


「え!? ――ん、やぁぁっ、何、これ……! あぁぁああぁぁぁーーっ!!」


 わずか数秒の間に美貌は往時の輝きを取り戻したが、変貌はまだ終わらない。眉がかすかに薄くなり、唇の厚みが削られ、顎のラインが骨格レベルで最適化されていく。それどころか、脚が伸び、臀部の肉付きが変わり――その間、聖理愛は全身の皮膚の下で蠢く法悦を、身を仰け反らせて受け入れたのだった。

 

 ややあって変化が終わり、全身を襲う激感が和らぐと、聖理愛は改めて鏡と向き合う。


「これが私? すごい、今ならアイツにだって絶対負けない……」

 

 恍惚の余韻が残った桜色の頬も相まって、彼女の姿はかつての全盛期すら凌ぐ絶世の美女に変わっている。久方ぶりの心からの笑顔が浮かんで、


 だが次の瞬間には、聖理愛の表情は神妙なそれに戻っていた。

 

「……でも、どうして? まだ足りないように感じるのは。眉も、鼻も、腕も、脚も、これでもまだ本当の完璧じゃないわ」


『もっと上を目指したいか?』


 煽り立てる囁きに、はっきりと頷く。


「当然よ。そもそも私は元々No.1なんだから、頂点を取り戻すのは最低条件に過ぎないわ。本当なら私はこんな店で燻ってる器じゃなかった。もっと、もっと、この世界で一番きれいな女にならなきゃいけないのよ!」


『それでこそお前だ。なら、さらなるチャンスを与えよう』


 声がそう告げると同時に、聖理愛の懐でスマートフォンが鳴った。

 

『私と契約を結ぶのだ。呼び声に応じよ。さすれば望みは叶えられる』


 それきり声は黙った。今や控え室に響くのは、絶え間ないコールと早鐘を打つ鼓動だけだ。液晶を見れば、着信元を示す文字列は判読不能の字に化けていた。文字コードのいたずらが生み出す難解な漢字などではない。そこに映し出されているのは、見るだけで正気を損なう、異端の文字体系からなる言葉。

 

 夜の業界に入って以来、聖理愛は身を滅ぼすような甘言には引っかからないように細心の注意を払ってきた。ならず者との付き合い方を見誤って地獄に沈められた知人を、他山の石としながら。『プティ・スール』を活躍の場として選んだ理由の一つも、トラブルが少なく背景のクリーンな店であることだったはずだ。

 

 しかし。悪魔の与える祝福を我が身で味わった今、理性はあまりに脆弱である。

 

 着信音が止み、次の瞬間、源氏名:聖理愛こと山崎カナの悲鳴が上がった。それが彼女の人間として最期の声だった。

 

* * *


 国営鉄道の新稲川にいながわ駅前は、S区最大の繁華街へのアクセスの良さと、遠目にも目立つ「鳥の頭を持つ人」の像――どうも、この近辺で発見された神社遺構からの出土品を原型とするデザインらしい――の合せ技によって、待ち合わせ場所として人気がある。


 そんな場所でたった今、とある二人組が合流を果たした。彼女たちのうち一人は、眼鏡をかけた地味な女子大生だ。幼い顔つきで、少女と言ってもいいかもしれない。彼女の上半身はシンプルなブラウスの上に膝丈のコート、下半身はコーデュロイパンツにスニーカー。あまり身体の線が目立たず、色合いもカーキや緑を組み合わせた地味なもの。ショートヘアも積極的に選んでいると云うよりは、手入れの手間を最小限にしたいから――といった趣が漂う。


「うひゃー、何度見てもすっごぉ……」


 それに比べてもう一人は、一目見れば思わず嘆息が溢れるほどの別格の美人だった。服装こそ、デートコーデとして相方と比べて浮きすぎないようなものに抑えているが、滲み出る素材の良さが違う。既に19時を周り、10月半ばの空は相応に暗いが、彼女の品の良い麗姿には、性別を問わず周囲の人々からのざわついた視線が向けられる。

 

「ねぇ聖理愛さん、今日は『お仕事』じゃないって本当ですか? 私、聖理愛さんが電話くれた時からずっと心臓バクバクで、今こうして目の前で見ても信じられなくて。だってNo.1できっとすっごく忙しいのに」


「お店にはナイショよ。私ね、貴女のこと不思議と気に入ってしまったの」


 周りの目を憚るように、彼女たちは小声でやり取りを交わした。耳元で直に囁かれる格好になって、少女の頬と耳朶がぽっと朱色に染まる。彼女には親密な距離感への耐性というものが一切備わっていない。

 

「ここは人も多いし、早くご飯食べに行きましょ。すっごくいいところを予約してあるのよ。ちゃんとお腹は空かせてきたかしら」


 聖理愛の指が少女の手に絡められると、その背はびくりと震えた。

 

「ひゃいっ。今日は朝から何も喉を通ってませんっ」


「かわいい人ね」


 手を引かれて案内される間、二人はこんな甘いやり取りを何度も繰り返した。女の扱いを仕事にしている者にとってはともかく、少女にしてみれば夢のような時間に違いない。熱に浮かされるまま、前もろくに見ずに傍らの女の貌ばかりを見つめ――それ故に、どのような道を通っているかなど気付かず。

 

 やがて聖理愛の歩みが止まった場所は、ビルの隙間に挟まる人気のない裏路地だった。

「せ、聖理愛さん? 一旦休むにしても、もう少し明るい場所にしませんか」


「ううん。いいの。だって、ここが目的地だから」


 動揺して問いかけた少女だが、返ってきた答えは彼女を更に混乱させた。誰がどう見てもそこに飲食店は存在しない。


「ええっ……いいレストランを予約した、って話でしたよね」


「だから、いいレストランがここにあるのよ」


 少女の戸惑いをよそに、聖理愛はにっこりと笑う。いや、にーーーーっこりと。歯を覗かせ、喉が伺えるほどに口を広げて。彼女の咽頭で何かが蠢き、月影を跳ね返す鈍い光がひらめくのに、果たして少女は気付いただろうか。わかったところで、もはや只人に出来ることはないのだが。


「いらっしゃいませ。今日の日替わりメニューさん」


 びゅん。聖理愛の喉奥から、強靭な筋肉の縄に結ばれた金属の刃が飛び出す。それはカエルが舌を伸ばし、瞬息の接触で羽虫を捉える様子によく似ていた。


「う」


 それらしい断末魔を叫ぶことも許されず、少女の首は千切れ飛んだ。胴体と泣き別れになった頭はビル壁に跳ね返って飛び、最初からそう企てていたかのように聖理愛の両掌に収まる。

 

「野暮ったい格好が邪魔してただけで、やっぱり造形は素敵じゃない。思った通りいい栄養になりそうだわ」


 呆けた今際の表情を残す少女の顔を、瞼と口を閉じて整えてやると、


「――いただきます」


 人間が骨付き肉を味わうがごとく、血の滴る首の断面に思い切りかぶりついた。


* * *


 聖理愛が夜な夜な人を喰らうようになって二週間が経った頃。彼女の指名数は劇的なV字回復を見せ、早晩No.1を奪還するのも時間の問題かと思われた。同僚からも客からも、言葉はなくとも「落ち目」だと見なされていたのが、丸っきり嘘のようだった。


 今や連日連夜の仕事が聖理愛を待っており、今宵も例外ではない。客のマイカーに同乗し、共にホテルまで向かっている最中である。そしてその客というのが、聖理愛にとってはちょっとした因縁のある相手だった。

 

 ――鷹山たかやま火滴ほたる。聖理愛の『プティ・スール』での初仕事において、夜伽の相手となった女性だ。二人は客とキャストという線引は越えないまでも、複数回の指名を通じてお互いを知り合っている。

 

「それにしても聖理愛ちゃん、本当に見違えたよね。三日会わざれば何とやら、ってやつ?」


 赤信号待ちの間、火滴は助手席に座る聖理愛の顔をまじまじと見つめていた。


「ふふ、本当に三日おきに指名してくださっても、驚いていただけるんじゃないかしら。私、この頃すっごく調子がよくて、一日ごとにキレイになってる気がするのよ」


「またまたー。というか、キミって最初から段違いに顔良かったでしょ。 なのに更に上をゆくなんてさ。秘密の化粧品とか使ってるなら、こっそり教えてくれない?」


 そう云う火滴も、同乗者とは方向性こそ違えど、颯爽たる雰囲気が心地よい女性である。無造作にスタイリングしたアッシュブラウンの短髪は少年じみた顔立ちに似合い、歯を見せて笑えばいかにも人懐こそうな印象を与え、事実他者との距離感は近い。

 

 総じて言えば、心身ともに恋の相手には全く困らないように見える人物なのだが、彼女はS区繁華街の女性向け風俗店に足繁く通っていた。金払いもよく、しかし何の仕事をしているのか頑なに口を割らない。

 

「教えてあげてもいいわ。火滴さんの秘密と交換、でどうかしら」


 キャストの側にも、不思議な上客の謎を解き明かしたいという欲求はあるのだろう。ウェーブのかかった栗色の髪をふわりとかき上げて項を見せながら、艶っぽい流し目を向ける聖理愛。


「じゃあ遠慮しておくよ」


 火滴はバツが悪そうに苦笑し、青信号に気づくとアクセルを踏み込んだ。

 

 ややあって車は、目的地であるホテル――からは少し離れた所にある、寂れた無人パーキングに辿り着いた。絶妙に不便な立地と深夜23時ごろという時間帯が手伝って、そこには火滴のもの以外に停まっている車はない。

 

「あら。いつものホテルならもっと近い駐車場があるわよね。どうしてこんな所に……」


 疑問を待たず、火滴が素早くコートを羽織りながら車を降りていったため、聖理愛はついていくしかなくなった。二人が外に出ると、がしゃん、リモコン鍵でドアロックをかける音がした。

 

「聖理愛ちゃん、こっちだよ」


 聖理愛は手招きで誘われるまま歩み寄ると、差し出されていた右手を自然と握った。かつての高飛車に似合わない旺盛なサービスは、磨きのかかった美貌に導かれる心の余裕が生み出すものに違いない。


 火滴は手をぎゅっと握り返すとともに、繋いでいない左手でコートのポケットから筒状のものを取り出す。先端部分をくるりと回して蓋を開ければ、ノズルが顕になった。どうやら香水のアトマイザーらしい。銀の筒の随所に美しい金線細工が凝らされたその造形に聖理愛が見とれていると、繋いだ手にアトマイザーの中身が振りかけられる。

 

「──がうあぁぁっ!?」

 

 瞬間、聖理愛の全身に燃えるような痛みが走った。本能的な反射で手を離し、更に3メートルほども後ろに飛び退く。――そのようなこと、常人には出来るはずもないというのに。

 

 更に、痛覚が神経を駆け抜ける様を可視化したかのように、彼女の肌に紫色に怪しく滾る光の線たちが次々と刻まれていく。線は増えていくにつれて乱雑なパターンではなく、暗号にも似た、意味ありげで複雑に織りあげられた幾何学的模様を成す。

 

「ああ。噂通り、悪魔憑きになってたか。聖理愛ちゃんのお客さんが、何人か消息を絶っているって話を掴んでね。それでも、聖水をかけてみるまでは信じたくなかったんだ」


 悲しげな声音が、夜を揺らす。火滴はアトマイザーを仕舞うと、そのままコートの裏地を探り、隠し持っていた短剣を両手に1本ずつ取る。そして腰を低くし、腕を上下に広げた構えを作った。


 一方の聖理愛も、痛みとそれによる怯みが引いていくのに合わせて、拳を軽く握り込みボクシングじみた姿勢を取る。油断ならない緊張が女達の間に、見えない壁を生み出す。


「火滴さんこそ、“聖約者テスタメント”であることを隠していたのね……!」


「悪魔が実在して人間を食い物にしてるなんて、そりゃ真顔で言えるわけないでしょ。ましてや自分の仕事は悪魔狩りです、ってさ」


 壁を突き破る機会を見定めるように、じりじりと距離を詰めてくる火滴に対して、聖理愛は臨戦態勢を解かないまでも、積極的な戦意を見せない。それどころか彼女は、目元にうっすらと雫を浮かべている。


「う、ううっ……ねぇ、見逃してくれないかしら。私はあなたのことが好きよ。お客さんとしても、個人としても。今までかわいい子を何人も食べてきたけど、あなたのことは絶対に殺さないわ。それに他のキャストの子には手をつけてないわよ。自分の力でNo.1を勝ち取らないと、嬉しくないものね。ああ、そうだ。他の悪魔を殺すのを手伝ってあげてもいい! だから、お願い……」


 一夜ならず逢瀬を重ねた女が涙ながらに訴えるとき、火滴はその明るい面立ちを曇らせずにはいられなかった。


 悪魔との間に霊魂譲渡の契約を結ばされた人間は、その魂と血肉を不可逆的に変質させられてしまう。人を喰らうことでしか癒やされない飢えと、肥大化した害意は、二度と消し去ることができない。相対する者が取りうる手段は、生命を奪うことのみ。例え、かつて絆を結んだ相手だったとしても。

 

「――言いたいことはそれだけか!」


「なっ……」


 しかし火滴は決然とした咆哮によって、胸の内から沸き起こった憐れみと迷いを押し潰す。

 

「相手が誰であろうと、かつて何者であったとしても、人を喰らう悪魔は滅ぼす。それこそがあたしの使命で、あたりまえの日常だ。侮って呉れるなよ!」


「あら、そう。残念だわ! ――あなたたちも人でなしの仲間でしょうに!」


 かくして、両者は決別した。聖理愛はかつて鈴を転がすようだった声を歪め、怒りを叫ぶ。そして跳んだ。否、翔んだと言うべきか。コンクリートを抉るほどの脚力で急激に踏み込み、左手を牽制として振るった後、双剣の防御をすり抜けて火滴の顎に突き上げる右拳を浴びせようとする。


「せぁっ!」


 だが火滴はそのいずれの攻撃も、舞うような体捌きで左右に軸を逸らすだけで回避してみせた。この程度なら剣で捌くまでもない、と、実力の差を突きつけるかのように。更にアッパーを放って伸び切った聖理愛の右腕を見咎めると、すかさず片手の剣を回して逆手に持ちかえ、両の剣で上下から挟み込むようにして断ち切った。悪魔の黒い鮮血を浴びた刃は赤熱し、血糊は闇に吸い込まれるようにして速やかに蒸発する。

 

 “聖約者”――ソロモン王が遺した七十二の魔神シェディムとの盟約を継承し、悪魔を狩る者――が用いる武器の刃は、悪魔の爪牙や骨格を鋳熔かして作った特殊な金属を鍛えて作られている。それは悪魔の血肉や魔力を帯びた物体を斬るたびに、その魔力を吸い取って鋭さを増す。蓄積された力を解き放つ決定的な瞬間を待ちながら、剣自身が自らを研ぎ澄ますのだ。


 このまま戦えば分が悪い。そう判断した聖理愛は、切り落とされた腕の断面から血液を高圧噴射し、火滴の喉元を狙う。結果的にそれは更に姿勢を低くしながら身を翻した彼女の頬をかすめ、僅かな血を流させるだけだった。しかし、この奇襲では時間稼ぎさえできればよかった。

 

「――むっ」

 

 火滴は再度接近しようと踏み出しかけたが、実際に動き出す前に足を止めた。聖理愛は全身から毒気にまみれた液体を吹き出して身を守りながら、その姿を急速に変容させていったからだ。彼女の魂を乗っ取った悪魔の、本来の形態へと。

 

 煙が晴れて明らかになったその姿は、平均的な悪魔の外観を知らない者にとっては十分におぞましいものだった。全身をびっしりと黒い魚鱗が覆い、ワニのそれを思わせる太く強靭な尾を有し、腕にヒレのような器官を持つ。さながら奇形の人魚と言うべき体躯。顔面には全身の中で唯一真っ白な仮面が張り付き、その造作は悪魔と出会う前の聖理愛の顔を象るデスマスクのようだった。肉体を完全に作り変えてしまったためか、失ったはずの右腕も再生している。

 

「見たなぁ、私の醜い姿を!! 最早火滴さんでも殺すぅぅ!!!」


 理不尽な憤怒に猛る悪魔がデスマスクの口部を展開すると、そこから無数のシャボン玉のような泡塊が放たれた。シャボンは地面や駐車場の看板にぶつかると炸裂し、衝撃波と毒液を撒き散らしていく。

 

 火滴が用いるような短剣は、攻防において迅速な挙動で活躍する代わりに、リーチという面では劣る。それ故に面制圧による対応を図ったのだろう。だが、


「しゃあああーーっ!!」


 鞭が振るわれる時に鳴るのと同じ鋭い風切り音が、夜の静寂を破る。それに合わせて、火滴へと殺到しようとしていたシャボンの一群が、一斉に割れた。想定よりも遥かに早く破裂することになったためか、その爆風が敵を傷つけることはない。

 

 果たして、何が起きたのか? 悪魔の人間を遥かに凌駕する視力は真実を掴んでいた。短剣の刃が伸縮するワイヤーに繋がった状態で柄から射出され、縦横無尽に振り回されていたのだ。旋舞する鎌鼬のごとき刃がシャボンを引き裂き、刀身に付着した毒液も先程の血と同じように蒸発してしまう。

 

 血路を切り開くと、短剣のワイヤーはしゅるしゅると音を立てて引っ込んだ。刀身は泡の切り払いと、腕を切断した際に浴びた血潮によって多大な魔力を帯びている。充溢した力を誇示するかのように、刃は紅蓮の燐光を溢れ出させた。

 

「よし、一気にけりを付けようじゃないか」


 火滴が腕を交差させた姿勢を取る。それを見て悪魔は泡を吹き出すのをやめた。すぐさま股下から尾を前方に向け、その先端から尖った鱗を散弾の如く射出する。緩慢な面制圧の攻撃を薙ぎ払われたなら、点での高速連射というわけだ。


 鱗弾の飛来に先んじて、光を纏った双剣が真円を描くように前方を薙ぎ払う。その軌跡を外周として、燃え上がる炎の魔法陣が空中に象られる。円の中には、直線と曲線、そして喇叭の頭に似た扇状の記号を複雑に組み合わせた印章が形作られていく。


 印章の模様を見たところで、この図形が意味するところを理解できる者は、せいぜい根っからのオカルティストか本物の魔術師ぐらいだろう。だが、円周に沿って刻まれた魔法陣の主たる者の名は、よく知られたものだった。ある意味では、七十二の魔神シェディムたちの中でも特に強大な『王』なる者たち以上に。そう、その名は――

 

< P H E N E Xフェネクス >


 宵闇に煌々と燃え立つ炎の円は盾となり、鱗弾を燃やし尽くした。それより僅かに遅れて、火輪をくぐる獅子のごとく、火滴は炎の中に猛然と飛び込む。刹那、弾ける閃光。


 次の瞬間に灼熱の門をくぐり抜けた者のシルエットは、コートを纏った女性のそれではない。その者が纏うのは、全身を装甲する真紅の甲冑だ。バイザーを下ろした兜の形状は猛禽の嘴を彷彿とさせ、沓の踵には鋭い爪にも似た滑り止めが設けられ、肩からは翼を思わせる大袖が垂れ下がっている。それは全身を以て、赫々と照り輝く不死鳥を体現したかの如き威容だった。これこそが鷹山火滴の、聖約者テスタメントとしての真なる姿。

 

 カン、カン、と金属が鳴る重い足音と共に、火滴は的へとにじり寄る。戦慄を催した悪魔は、火滴の頭上を飛び越えて後方に回り込み――そのまま一目散に逃げ出そうとした。

 

「無駄だぁっ!」


 火滴はすかさず、左手に握った剣を振るう。それは鎧の装着と同時に、羽を模した形状の紅い片刃剣へと変貌し、刃渡りも一回り大きくなっていた。しかし最大の特徴たるワイヤーのギミックは健在だ。射出された刃は逃走する悪魔に猛追し、過たず背中に突き刺さった。更に剣からは炎が吹き出し、不浄の肉体を内側から灼いていく。

 

 手まで焼き焦がされながらも悪魔は刃を抜き取ったが、その時には既に、糸を巻き取りながら接近してきた火滴が完全にいた。首を切り落とそうと袈裟懸けに振られる剣を、硬質な腕ヒレで受け止める。鍔迫り合いの状態を維持したまま、至近距離で尻尾からの鱗弾を当てようと試みた、が――読まれていた。股下から出てくるのを待ってましたとばかりに、鎧の尖った沓が尾の先端を踏みしだく。

 

「■■■■■――――ッッ!!!?」


 発射寸前の鱗が尾の肉に食い込んで暴れまわり、あまつさえ念入りに踏み潰される痛みで、悪魔は奇声を上げながらよろめく。こうなれば、隙を逃す火滴ではない。

 

「――おまえの嘆き、あたしが残さず灼き尽くす!!」


 誓いを真実にすべく、両の剣が逆巻く炎で包まれる。アイスピックを叩きつける要領で、火滴は逆手に握った左刃を脳天へと突き刺した。耳を劈く絶叫。構わず、今度は右刃で心臓を穿つ。更にそれぞれの刃を思い切りねじり込むと――ついに生存を保証する部位を燼滅され、悪魔の肉体は砕け散った。

 

 飛び散る黒い返り血と肉片が紅蓮の鎧を汚し、しかしそれらは瞬く間に燃え尽きる。火に晒されることなく後方に飛散した血肉も、すぐに悪臭を放つ煙になって霧散する。


「あっ……」


 急激に朽ちていく残滓の中に、ひとつだけ微かに光るものがあった。三度目の夜に火滴から聖理愛に贈った、真珠のイヤリングだった。思わず手を伸ばした火滴だったが、時既に遅く、白い粒は黒ずんだ汚穢の中に溶け消えてしまった。


 地獄界の痕跡が完全に消え去った後、鎧は物理的実体を持たない光の玉となって主の身体から剥がれ落ちていく。それは火滴の顔の高さで浮遊しながら粘土のように形を変え、3秒ほどかけて小さな火の鳥になった。

 

「よぉ、大げさに火ぃ吐いたもんだから無駄に疲れたぜ。こんな低級悪魔クソザコ相手にオレを駆り出そうなんて、火滴は頭おかしくなっちまったのか?」


 火の鳥――魔神シェディムフェネクスは、開口一番に悪態をつく。あどけなく舌っ足らずな少女の声色とは裏腹に、話す内容は直球の悪口で、口調も汚い。

 

「今日は我儘に付き合ってもらって悪かったよ。確かに一人でも勝てたはずだし」


「じゃあなんで呼んだワケよ」


 火滴は、わずかに考え込む素振りを見せた。


「あの人の苦しみを、一秒でも早く終わらせたかった。……それだけ」


 その答えを耳にすると、火の鳥はケラケラとけたたましい笑い声を上げる。


「へっ。恋多き女は大変だねぇ! もっともオレと聖約してやがる以上、オマエの寿命と添い遂げられる女なんてこの世にいねえんだぜ。不死鳥の力を受けた者は、何百年も平気で生きちまう。だからこういう別れにも慣れておいたほうがいい。そんじゃ、次はもっと面白ぇ相手の時に呼べよな!」


 好き勝手に言い散らすと、フェネクスはさえずり一つで虚空に魔法陣――火滴が変身する際に展開したそれと同様のもの――を呼び出し、その向こう側へと飛び去った。


「あのクソ鳥、まーじでデリカシーって概念がないんだよなぁ」


 火滴は大きなため息をついて、踵を返すと、


「さよなら、聖理愛ちゃん。最近顔を出せてなかったのに、こんなこと言っちゃだめなんだろうけど……あたしも好きだったよ」


 ゆっくり、別れを引き伸ばすような足取りで、車の方に歩きだした。


【次回予告】

 よぉ、フェネクスだ。

 悪魔によって苦しめられるのは、何も犠牲者だけじゃねぇぜ。

 生き残ったが故の痛みを背負う奴もいるってこった。あの少女もそうさ。


 ――次回『璃咲りさ』! おい火滴、まさかガキにゃ手出さねえよな?

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