閑話 アイリスの憂鬱
「はぁ……」
アイリス・ディーネル。
ディーネル帝国の第二王女として生まれた少女であり、不断の努力により清廉潔白を表し続ける少女。
しかしそんな彼女でもため息を吐くことはある。
理由は単純明快だ。
ノーム・レスティ。
英雄の家系レスティ公爵家の嫡男であり、その血筋から将来を有望された少年。
そして彼はアイリスの婚約者である。
彼とアイリスが初めて出会ったのは五歳の頃。
初めての印象としては、穏やかで優しそうな少年だった。
母親にべったりとくっ付いて甘えるその姿からは失礼ながらも頼りなさを感じた。
英雄の子孫と聞いて勝手に抱いていた幻想が崩れたためだ。
それから何度かノームと顔を合わせることになったアイリスだったが、人見知りで甘えん坊のノームとの仲はあまり進展せずに月日は流れていく。
アイリスとしてはその光景を羨ましいと思う反面、もどかしい気持ちに苛まれた。
今度こそはと意気込んではあえなく失敗する。
策を講じても、彼の母ヘレナ夫人に協力を頼んでも、結局上手くいくことはなかった。
それはいわばアイリスにとっての初めての挫折。
いくら努力しても成果が得られなかった。
そうして悶々とした思いを抱えていたそんなある日、あの事件が起きてしまう。
反皇族クーデター。
帝都ディーネルを戦火で焼き尽くした大事件。
皇族であるアイリスはいち早く一家と共に隣国ノームウェル聖王国へ一時避難し、戦火を免れることができていた。
だが四公爵家、中でも帝国の軍政を担うレスティ家は、反皇族組織から早々に狙われてしまったのだ。
レスティ領は戦場になり、領地は戦火に包まれた。
混乱と動乱が民を襲い、レスティ領は大惨事となってしまう。
その時悲劇が起きてしまった。
レスティ公爵夫人ヘレナが事件に巻き込まれ命を失ってしまったのだ。
それから数日後、冒険者組合、および魔法協会の介入によってクーデターは終焉を迎える。
事件の実行犯、反皇族派を名乗る青年十数名は即座に処刑。
しかし首謀者は分からず仕舞いで、事件は幕を閉じた。
それから一年。
未だ傷の癒えぬ国内だが、次第に活気を取り戻しつつあった。
そんな最中、アイリスは再びノームの下へ顔を合わせに行くこととなる。
ヘレナ夫人の不幸。
アイリスはノームを励まそうという心づもりで臨んだ。
しかしそこにいたのはアイリスが知っているノームではなかった。
全体的に丸くなった身体、鋭い目つき、着崩した衣装。
そして自分へ浴びせてくる罵声。
優しいとはかけ離れたノームの姿がそこにはあった。
自分の目を、耳を疑った。
しかし目の前にいる少年は紛れもないノームその人だ。
アイリスは罵声を浴びせられながらも、必死にノームへ言葉を投げた。
しかし返ってくる言葉は、侮辱を孕んだ罵声のみ。
クーデターは内政を統制できなかった皇帝の責任だとか、皇族は早々に隣国へ逃げた臆病者といった侮辱の言葉が飛んでくる。
初めは我慢していたアイリスだったが、限界を迎えアイリスも怒号を返す。
すぐさま周りの大人たちに止められ、アイリスはレスティ家を去った。
それがノームとアイリスの最初で最後の喧嘩。
それ以来、まともに会話を交わすことなく今に至っていた。
豹変してしまったノームという男は未だに過去を捨てられていない。
亡き母への愛情が、周りへの憎悪として変わってしまっているのだ。
しまいには堕ちた英雄の象徴とまで呼ばれるまでになった。
そしてそれは帝国の威信にも関わることだ。
英雄の末裔として、レスティ家は誇り高い一族でなくてはならない。
クーデターに起きた悲劇にも打ち勝てるような強い姿を国民に示さなければならないのだ。
だが現状はこうなってしまった。
皇族として、アイリス個人として一刻も早くノームには立ち直ってもらいたい。
自分でもかなり非情な考えを持っている自覚はあった。
しかしそう思うことでしかアイリスはノームに会う理由が見いだせない。
アイリスはノームのことがトラウマとなってしまっていた。
だからこそアイリスはこれから行くノームの見舞いに対して気が乗らない。
どうせ碌に口も聞けないのだ。
良くて罵声が飛んでくる。
そんな相手に快く会いに行けるわけもなかった。
それに今回の件も大袈裟に騒いでいるだけなのだろう。
以前も転んだ、悪夢を見た、風邪が治らない、などの理由で騒ぎ立てたことがあった。
その度に無駄骨だったと息を吐いたものだ。
しかしアイリスのその予想は良い意味で裏切られた。
「待たせたな、アイリス」
あろうことかノームの方から挨拶をしてきたのである。
初めは聞き間違えかと耳を疑った。
あまりのストレスで幻覚を見てしまったのかと。
しかし段々と焦ってくるノームを見て間違いではないのだと確信した。
「……呪いにかかったと言うのは本当のようですね」
動揺を隠すようにアイリスは口を開く。
ノームはその問いに肯定し、続けてアイリスはお見舞いの言葉を告げる。
これでノームとの顔合わせは終わり。
だがアイリスにはもう一つだけ確認しなければならないことがあった。
アイリスは使用人を控えさせ、ノームと二人きりになる。
そして口を開く。
「貴方の妹のことです」
屋敷に入る前に目にした少女。
細い身体に真っ白な肌をした弱弱しい少女、ミリアについて問いたださなくてはならなかったからだ。
「……ミリアがどうした?」
暗い顔でそう呟くノームに思わず感情が高ぶった。
彼は知っているのだ。
あの少女の状態を。
やはりこの男は変わっていなかった。
しかしノームの口から放たれたのは再びアイリスの予想を裏切った。
「……何とかしようとは思っているさ」
「……え?」
再び聞き間違えなのではないかと耳を疑った。
しかし今度も本当に目の前のこの男が言ったのだと認識する。
以前の彼からは信じられない言葉だ。
衝撃、それと同時に本当に信じて良いのか不安が押し寄せる。
だからこそ今まで溜め込んでいた鬱憤が内からあふれ出してしまった。
「……今までのこと、忘れてはいません。呪いで表面上は丸くなったのでしょうが、貴方の性根が腐っていることを私は忘れません」
自分でも驚くほどに突きつける言葉。
言ってしまった後で後悔した。
これでまた元通りだと。
「……ああ」
だが彼は怒ることなく、ただそれだけの返事をして頷いた。
それを素っ気ない返事と取るか、心の内から絞り出した一言と取るか。
その答えを出せるほど、アイリスはノームのことを知らなった。
「ですが今回はあくまでお見舞い。病人にこれ以上のことは言いません。次お会いすることがあった時、それこそ呪いの効果が切れた時期にもう一度お話をしましょう」
結局、目の前の男の豹変ぶりに心の整理が上手くできず、そう言い残して逃げてしまった。
我ながら情けないと自己嫌悪。
昔からそうだった。
ノームに対して上手くいったことは今まで一度たりともない。
本当に苦手だ。
だが次の仕事が残っている。
アイリスは気持ちを切り替えた。
その後はノームの父、ロード・レスティと会談だ。
ノームの変化ぶりを聞こうと思ったが、雑談を交わす雰囲気ではなかった。
その様子からロードの方はどこも変わってはいなさそうだ。
まるで鉄仮面のように一切の表情を変えない。
彼は夫人を失ってから一切笑わなくなった。
アイリスは言葉を飲み込み、仕事に集中するのだった。
それから仕事が終わり、客間で休憩を取っていると、扉が叩かれた。
入ることを許可すると見覚えのあるメイドがそこにはいる。
「失礼致します、ノーム様の使用人を務めさせていただいております、リビアと申します」
「はい、先ほどもご一緒させていただきましたね」
リビアと名乗ったメイドは先ほどノームと共に客間へ訪れた女性だった。
ノームのメイドは会うたびに代わっている。
そのためあまり気にしていなかったが、もしかすると今回のノームの急変ぶりはこのリビアというメイドの働きによるのかもしれない。
「リビア、貴方がノームをあそこまで変えたのですか?」
だからこそ直接リビアに尋ねることにした。
「え? い、いえ、ノーム様は呪いにかかられて、そのショックで日頃の生活を見直されたのです」
やけに慌てた様子のリビアに怪訝な目を向ける。
しかし自分の手柄なのであれば、言い触らしても良いものだ。
それを言わないとなれば、本当に呪いの影響なのだろうか。
もしくはノームによって口封じされているのか。
生憎と可能性は無限にある。
「……まあ良いです、それで私に何か用でしょうか?」
答えは結局見つからず、アイリスはリビアへ要件を尋ねる。
「ええっと、はい、学園での生活をお聞かせ願いたくて……」
奇妙なことを聞く、と素直に思った。
何故使用人である彼女が学園生活のことを気にするのだろうかと。
それこそノームに直接聞けばよい話だ。
「なぜ私に聞くのですか?」
「ええっと……ノーム様は恥ずかしがってお教えにならないのです」
確かにあのノームが学園生活のことを喜々ととして話している姿は想像できない。
それに確か成績の方もあまり良くなかったはずだ。
隠そうとする理由も理解できる。
「そうですね……分かりました、ですが私が言ったことはどうかノームには内密に」
「はい、心得ております」
秘密をばらすようで気が引けるが、このリビアというメイドはノームを変えたかもしれない人物。
無下にもできなかった。
「では――」
そうアイリスが口を開いた瞬間だ。
「アイリス、リビア!」
件のノームが血相を変えて飛び込んできたのだ。
まさか密談がバレたのか、と内心焦りを抱く。
だがノームの次の言葉は全くの別だった。
「アイリス、あの使用人はどこにいる?」
リビアに並んで奇妙なことを、と訝しんだ。
二人して自分をからかっているのではないか、とまで思ってしまう。
それにしてもノームの顔は鬼気迫るものがある。
不思議と嫌な予感がした。
「ひとまず落ち着いて訳を話してください。そんな形相の相手に使用人を紹介するわけにもいきません」
ひとまず宥めるべく、そう口にした。
しかしノームは一向に落ち着きを取り戻すことはない。
心配そうな顔でリビアがノームに駆け寄る。
その時だ。
「伏せろ!」
ノームの叫び声と共に、爆発音が響き渡った。
突然のことに混乱し、困惑する。
一体何が起こったというのか。
「リビア、アイリスを連れて中へ!」
しかしこんな状況下でもノームは冷静に判断を下した。
「ノーム!」
リビアに手を引かれる最中、一人部屋に残る彼に声を上げる。
しかし彼はこちらへ来ることはなかった。
「アイリス殿下……私は、ノーム様の助けに行ってまいります」
「危険です!」
地下室の中、一向に戻ってくる気配のないノームにリビアがそう告げる。
アイリスは必死で止めにかかるが、リビアの決意は固かった。
「ここに居れば安全ですので」
リビアはそう言ってノームの下へ向かう。
慌ててその姿を追いかけようとした。
だが身体が恐怖で震えて動かない。
あの攻撃には明確な殺意があった。
下手をすれば死んでいたかもしれないのだ。
そう思うと一歩が踏み出せない。
自分はこうも弱かったのだと実感させられた瞬間だった。
それから幾ばくかの戦闘音。
足音や爆音が地下室に木霊する。
しかし一向にノーム、リビアは帰ってこない。
祈ることしかできなかった。
どうか彼らを助けてくださいと。
しばらくして地上が静かになったのを肌で実感する。
すると地下室の扉が開き、そこからノームが現れる。
「ノーム! 一体どこへ行っていたのですか!」
思わず感情のままに叫ぶ。
「おお、アイリス嬢。元気そうで何よりだ」
するとノームの後ろにいた人影が、そう声をかけてきた。
そこにいたのはレイモンド・リック・アークトゥルス。
世界最高の魔法師の一人だった。
一気に身体から力が抜ける。
彼がいるということは、既に事件が解決しているのと同義なのだから。
「そうだ! リビアさんは大丈夫なのですか!?」
その最中、アイリスは思い出す。
ノームを助けるために出て行った使用人のことを。
「いや……俺を庇って背中を刺された。でも命に別状はないらしい」
アイリスは絶句してしまう。
自分があそこで止めることができれば彼女がケガを負うことはなかったのにと。
それと同時になぜ早く地下室に戻ってこなかったのかとノームを恨んだ。
それからしこりを残しながらもノームと何をしていたのかを話し合い、地上へ出ることになる。
ミリアの件も今は何も言う気にもなれなかった。
地上へ出るとノームの言った通り、レイモンド・アークトゥルスと思しき人物がロード。ノームと話しているのが確認できる。
自分も皇族として話し合いに向かうべきだろう。
アイリスはミリアを部屋へと送り届けた後、レイモンドの下へと向かった。
「アークトゥルス卿、此度のご尽力感謝いたします」
「おお、姫様か。元気そうで何よりだ」
レイモンドは皇族である自分に対して特にへりくだった態度は見せなかった。
それが新鮮であると同時に親しみを持つ。
この人が1等級魔法師。
皇族として彼の力は必要になる、そう確信したアイリスはレイモンドを目に焼き付ける。
そんな折、後方で騒ぎが起こっていた。
見れば、先ほどまで話していたノームが倒れている。
アイリスは慌てて彼の下へ駆け寄った。
「ノーム!」
呼びかけにも反応しない。
もしかしてどこかケガを。
そう思って身体を見渡すが、これといった外傷は見当たらない。
「あー、これはたぶん疲労だな」
「……疲労ですか?」
レイモンドが頭を掻きながら告げた言葉を反復する。
「ああ、ノームは姫様を助けた後、敵の視察をしてたみたいでな」
「……視察ですか?」
まさか地下室へ戻ってこなかった理由はそれだったのか。
単純に逃げ遅れたのだと思っていた、自分の浅はかさに恥ずかしさを覚
える。
ましてやリビアのケガをノームのせいにしようとした。
それは何と愚かなことだろう。
---
翌日になってもノームは目覚めなかった。
だがアイリスは一刻も早く宮廷へと帰らなければならない。
また、見舞いに来ると告げたが、ロードから諫められてしまった。
恐らく次に会うのは学園。
果たして次に会う彼はどうなっているだろう。
また元に戻っているのか、それとも今のままなのか。
アイリスはノームに会うのが少しだけ楽しみに感じていた。
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