におい
飯田三一(いいだみい)
におい
私の世界から「におい」の存在が消えて久しい。私は普段、音楽を聴きながら街を歩く。その中で目の次に頼りにしていたものが「におい」だった。実際、私の小説には「におい」の描写が沢山登場する。そもそも、耳がそんなにいい方ではなかった私は、イヤホンをすることが多くなる前から「におい」の存在を大事にしてきた。しかしここ一年ほどその「におい」という感性は私から消失しようとしてる。例の疫病だ。この疫病の流行によって、街はマスクをつけて歩かないとマナー的によろしくないという風潮が生まれた。これがもたらした私が思ういい点としては、色々なマスクの普及だ。コロナ前からカラフルなマスクや、息がしやすいスポンジのような素材のものはあり、不繊維のマスクが苦手だった私はそれをつけることが多かった。しかし、そういうマスクはその頃変な目で見られ、高校では、禁止まではないものの、先生に少し叱られるということもあるくらいだった。しかしこの禍のおかげで、マスクの多様化が一気に進んだ。高校に行くようになれば私のマスクをクスクス笑っていた連中まるっとそのマスクになっているのだ。これには非常にスカッとした。しかしそれまでだった。長期化するにつれ、私は前述のことに気がつく。好きだった雑貨屋さんの木のにおいも、スーパーにたまにやってくるキッチンカーの焼き鳥のジューシーなにおいも、喫煙所を通ると感じるタバコの少し甘さを感じるにおいも、ガソリンスタンドで感じるツンとするにおいも、堤防の公園で感じる青臭さとみずみずしさを感じるあの独特なにおいも、お香屋さんやバスボールやさんを通った時に感じる甘ったるいにおいも、解体される建物の埃っぽいにおいも、排気量の多い車が通った時の鉄臭さと甘さが混ざったようなにおいも、ちょっと高級な洋服の店を通る時に感じる濃いローズのにおいも、他人の家にお邪魔した時の所謂「トモダチノイエノニオイ」も、遊園地に行った時に感じるアトラクションごとに少しずつ違うにおいも、都会で突然やってくる下水道のにおいも、帰省した時に感じるおばあちゃんの家のにおいも、雨がふり始めた時のもわもわしたにおいも、桜が風に吹かれて散っていく時に感じるほんのりと甘いにおいも、その全てが私の生きる世界から消えていたのだ。
気がつくと、におい思い出せないことも増えてきた。においで覚えていた場所も、においが無くなれば迷うばかりである。人によって違うのかもしれないが、私は少なくとも、マスクをするとほとんどのにおいを感じなくなってしまう。都会の下水道のにおいや、雨の降り始めのにおいも含めて、私はこの「におい」という概念が好きだった。決して「かおり」ではなく「におい」だ。好ましかろうが不快感を感じようがその鼻で感じることができる感覚が好きだったのだ。それが今はない。カラーテレビが白黒テレビに、有声映画が無声映画になったような、感じれるものがひとつ減ってしまうような感じだった。この違和に気が付かなかったのはそもそも初めの頃は外出が少なかったからだろう。家の庭であればまだ草木のにおいを嗅ぐことを許されたし、そこまで不自由していなかった気がする。しかし現在、大学にも通い、私は毎日のように外出する。そんな中でにおいが感じられないことに耐えきれなくなってきている。においというのは、やはり重要な要素であり、人間の感性を豊かにするものだと私は思う。
こんな世の中、早く終わってしまえばいいのになと思う今日でした。
におい 飯田三一(いいだみい) @kori-omisosiru
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